[ みちのくプチ巡礼情報 :: 秋田県 :: 久保田三十三観音霊場(札打ち) :: 巡礼できなかった場合 ]

久保田 金照寺山 三十三観音札所

秋田県秋田市・金照寺山の三十三番札所。

[前] あらまし::開業初期についての妄想

[Table of Contents]

[Table of Contents]

観音様と女性

観音様と女性との関係について。

庚申講が男子の講であったのに対して観音講は主として女人講であった。‥(略)‥ 観音講は子安講とよばれることが多く、観音の慈悲によって子供の成長と息災を願った のである。しかし女人講は寺の観音の縁日が十八日であるのに遠慮して、十九日にひそかに 観音講をいとなんだので、十九夜講といわれ、罪業深き女人の身を懺悔(ざんげ)するための 十九夜念仏をおこなっていた。 (五来重(2007)『石の宗教』,p.255.)
また、この引用箇所の前後の文脈で気になった単語は以下です:
「間引きの罪業感」「死児の供養」「如意輪観音石仏」。
‥‥たしかに供養の札打の起源て 何だろう?と考えたとき、まず最初に頭に浮かんだのが、自分より上の人じゃなくて 下の人に対する供養だったんですけど、それはまったくの的外れという訳でも ないのかもしれません。(根拠ないですけど‥)

[Table of Contents]

観音様と女性

念のため。 私が入手できた情報(といっても、すでに紹介済の「二〇世紀ひみつ基地」のみ、ですが‥)から ほぼ確実に確認できる情報は「1936(昭11)年および1937(昭12)年の6月18日、この 二日は参詣者でごった返した」ということだけです。それ以外の日については 「たぶん、それなりに混雑したはず」という、とくに裏付けのない私個人の勝手な 思い込みをベースに話を進めている点には注意しておきましょう>自分

[Table of Contents]

戦争と民俗宗教

川村邦光(1996)『民俗空間の近代』の pp.148-156 によれば、 日中戦争開戦(1937(昭12)年)とともに以下のものが流行したという:

出征した夫や息子のための弾丸除けや武運長久の祈願、千人針、千人結び、 「千角詣り」、村の鎮守様の出征譚(竜泉寺の地蔵様も出征したらしい‥)(ただし、 秋田県の竜泉寺とは書いてありますけど、秋田市寺町の竜泉寺(久保田33-23)かどうか不明。 それより秋田郡新城にあった(現在は能代市にある)龍泉寺(秋田33-25)かな?)、 また巫女(イタコ)の「死口(しにくち)」あるいは「生口(いきくち)」など。
また、静岡市の「竜爪山大権現は、弾丸除け・徴兵除けの祈願で有名な山の神、雨乞いの神、 鉄砲の神、猟師の神で、日清戦争でのお札の発行数は一万三三四八枚、日露戦争では 二万四一三四枚であり、昭和に入り、出征する兵士が増えると、出征兵士の家族の 参拝者が山にあふれ、社前では「玉除けようかん」も売り出されたという(p.150; ただし、この部分の元ネタは 海野福寿(1987)「徴兵忌避と弾よけ祈願」 『図説静岡県の歴史』等らしい)」‥ということらしいですけど、静岡で「出征兵士の 家族の参拝者が山にあふれ」ていたのと、金照寺山に参詣者がごった返していたのは、 たぶん、ほぼ同時期だと思うんですよ。てことは‥ (金照寺山の混雑は1937年6月18日。日中戦争開戦は同年7月7日だそうですので、開戦の 約3週間前ですね。3週間かー。出征はまだしてないかもしれませんね。微妙かな? んー)

[Table of Contents]

血塗られた過去?

金照寺山には、果たして、実際のところ、幽霊話と結びつく過去があったのかどうか。 この件について、こんな記述を見かけました:

以前に南秋田郡教育会が、世人の呪咀怨嗟と官憲の抑厭の下に旧蹟と云はれた 金照寺山一つ森を開掘した事があつた。然しその際一匹のみみずさへ発見されなかつたばかりか、 土の色なども変つてゐなかつたといふ例証もある。それは行人の農夫が、 「掘つたつて何も無い、昔鷹合せをした場所だらう」といふた通り、 昔時の鷹合せに使用した土饅頭に過ぎなかたといふ事である。 これなど古来土地の人々に伝えられて来た口伝の健実性を物語つてゐると思ふ。 (相場信太郎(1935)『大野の撫斬』土筆社, pp.1-2.)
詳細が いまいちよくわかりませんけど「金照寺山の一つ森が何かの遺跡じゃないか?」と いう噂があり、その真相を解明するために明治大正時代に 南秋田郡の教育会(教育委員会)が金照寺山を掘ってみたことがあったみたいです。 もしここが古墳だったりすれば日本最北端の古墳だ! ‥なんて話にもなりますからね。 (※ 現在知られている本州最北端の古墳は [ 角塚古墳 (岩手県奥州市) ] 。南東北には古墳は散見されますけど、北東北になると古墳は激レア) しかし残念ながらそこが歴史的な何かであった証拠・痕跡らしきものは全然発見できず、 通りすがりの農夫が「掘ったって何もねえ。 むがし鷹合せ(鷹狩?)するのに使った場所だべ」と言ったとおりだった‥との 過去もあるみたいです。 金照寺山、なんかそれっぽい雰囲気はあるっぽくも感じるんですけど、 基本的には あるとしても雰囲気だけ、という感じのようです。

ちなみに 「大野の撫斬」については [ こちら ]

[次] かんのんさま