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西岩井三十三所(岩手県)(準備中)


 

はじめに

「西岩井三十三所」については、『一関市史3』, pp.88-93 に情報があります。

 これによれば一関市山目菊地正三氏所蔵「西岩井三十三所順礼略縁起」 なる文書が存在していて、これを長田勝郎氏が解読して 県南史談会というところで発表されたことがある。‥というのが一時情報源らしいです。 他に情報源があるのかは不明です。

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あらまし

 爰に磐井の庄、中里村曹洞宗里中山竜沢寺乗州和尚、同所天台寛甫山永泉寺然栄法印、壱ノ関及川氏、大山氏、 時に志を合わせて、当郡に古来より立たせ給ふ霊地旧跡の観世音三十三所の札所を創め、志厚き老若男女の願ひを 充てん事を思ひ立つ。

 折しも気仙高田村浄土寺に住しける泰誉上人甚だ志を感じ、西国三十三所の土を送れ(り)しを、即ち当郡三十 三所に奉納す。此(れ)三拾三所順礼にあに異ならんや。

 近き頃中里村根岸町に住む座頭、多喜都と云へる者、五月初めの頃より頓(とみ)に悩み、既に夏草の露の玉緒も、こと きれなんとする折から、同月二十六日の夜より二十八日の夜まで、何人ともえも云われざる人、告げてのたまは く、汝の病は三拾三所を順礼せん事を立願せば即ち平癒ならんと、あらた(か)の霊夢三夜続けて蒙むれり。有難 く覚えて、件の立願なしければ、多喜都が病は日を追うて速やかに癒ゆる事を得たり。あに多喜郡のみならんや。 誰しも一筋に祈り奉らば、などか感応得ざらんや。寔ある人々つつまやかに順礼し、現世未来の安穏を祈り給はん 事を願ふのみ。 (「西岩井三十三所順礼略縁起」『一関市史3各説II』(1977), p.89)

[概要] 磐井の庄、中里村の(32)竜沢寺和尚、(33)永泉寺法印、その他有志の人たちが磐井郡の霊地旧跡から 観世音三十三札所を選定した。また気仙高田村の浄土寺から西国三十三所の土を各札所に 寄贈してもらったし、これでバッチリだろう、と。さらにその時、中里村根岸町に住む座頭の多喜都という者に 「汝の病は三十三所を順礼すればすぐ治る」という夢のお告げがあったとのこと。 これは多喜都だけの話のはずがない。皆も順礼して現世未来の安穏を祈ろうではありませんか! ‥と。

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創設年代

 年代に関する記述は、札所一覧の末尾に、ちゃんと書かれていました。

ありかたや
 弘誓の舟に 竿さして
  諸人わたす 法のうなばら
           里中山竜沢寺 乗州和尚
           寛甫山永泉寺 然栄法印
元文二丁巳三月二十有日
                及河屋二兵衛
                大山屋 卯八
1737(元文)2年だそうです。 本当かどうかはわかりませんけど‥。 でも、比較的近くにある「仙台三十三所」が元禄時代、 17世紀末から18世紀にかけての成立のようですから、まあ、時代的には順当という 気もします。

 ちなみに札所一覧の末尾には以下:

西岩井順礼記、円満寺より御無心仕写申候
 安永弐年 壬三月七日
このようにあり、つまり 胴元は (32)竜沢寺と(33)永泉寺で1737年。現存する文書は、 (02)円満寺 にあったものを書写したもので、書写は1772(安永2)年。 ‥と、そんな感じのようです。

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西磐井か西岩井か

‥まあ、どっちでもいいんでしょうけど。

 ただ、ちょっと調べてみますと、江戸期には 「磐井郡」はあったようですが「西磐井郡」は存在して いなかったようです。西磐井郡が誕生したのは、1878(明治12)年。

 ですから「西磐井」はどうなのかな? と疑念がないことはないです。 古文書の題は「西岩井三十三所順礼略縁起」のようですし、 Wikipedia の「磐井郡」の項を見ると「磐井郡」の「西岩井」地区、となっている ようですし。‥これに従うと「西岩井」のほうが正しそうですよね。

 ちなみにこの西岩井三十三は、一関藩、伊達藩の両方の土地に またがっている札所のはずで、それは地元ローカルな札所としては ちょっと珍しいかも?

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