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[memo] 高句麗 安岳3号墳 手搏図

題 [memo] 高句麗 安岳3号墳 手搏図
日付 2015.7



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はじめに

某マンガで「高句麗 安岳3号墳 手搏図」なるものが派手に紹介されているらしいのですが、 検索しても関連情報が 一発でスッと見つからないこともあるのでちょっとメモっておきます。

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それは北朝鮮にあり

Wikipedia の 「高句麗古墳群」の項目 を見ると、安岳3号墳は北朝鮮にあり、 平壌から南に約50km程度の場所のようです。 「高句麗古墳群」として世界遺産の一部となっているようですから、後代の捏造とか、 そういった類のことはなさそうです(^_^; 4世紀後半頃? といった感じなので、かなり古いですね。聖徳太子より200年ほど前。

[ 安岳3号墳: 高句麗で最初に出現した壁画古墳 ] というページに、 安岳3号墳の写真などとともに、紹介文が書かれています。1949年(日本の昭和24年)、 朝鮮戦争(1950--1953)の直前の時期に発見されたもののようです。へー。

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手搏図

Youtube に安岳3号墳を紹介する動画がありました。(現在は削除されてます。かわりに同様の動画を上にあげておきました) CGですけど‥。この 5:45のあたりで手搏図が紹介されています。 ナレーションを聞くと、こんな

高句麗の大衆のあいだに広く流行していた拳法である手搏戯
こんな感じの説明がなされています(ただし上記のとおり削除され現存せず)。 どうやら「手搏図」は、 安岳3号墳遺跡にある いろんな壁画の中に そういうのが混じってた。 ‥と、そんな程度のものらしいです。 (この「いろんな壁画」の中には牛車を描いた壁画もあります。車輪、あるじゃん!)

 それと、たまたま見つけましたけど。 九州国立博物館で「高句麗 壁画古墳写真展」というのを 2013(平成25)年6月4日〜2014(平成26)年2月2日 の期間 開催していて、 そこで「手搏図」も写真展示されていたみたいですね。へー。 (「手搏図」の本物の写真はこのサイトで見れます。また ここに関連動画も)

 ちなみにこの「手搏図」については、「万能壁画」で検索するといろいろ出てきます。 すでに以前から 知る人ぞ知る、有名なネタ提供壁画だったようですね。 うわー。

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[メモ] 類似の壁画

ネットを見ると、この万能壁画たる「手搏図」以外にも、類似のものがあるみたいで‥

テコンドに関する資料は多い。現存するもので最も古いものは高句麗古墳の壁画に見られる。5世紀頃の「三室塚」の「壮士図」と「舞踊塚」の「格闘技図」に古武芸の模様が生き生きと描かれている。 [〈朝鮮歴史民俗の旅〉 テコンド① ]
こんな感じに書いてるところもあるみたいです。‥え? テコンドーは1950年代に成立したのでは? ‥なんてヤボなツッコミはさておき(テコンドじゃなくてテッキョン(托肩)の原型というならまだわかりますけど‥。でも史料ないからなー)。同じ高句麗古墳群の「三室塚」や「舞踏塚」(5世紀だから、ちょっと新しい)にも 何やらあることはわかります。けど検索すると出てくるどの壁画がどれなのか、 そこがよくわかりませんので これ以上何も書けません。 「万能壁画」よりちょっと具体的な描写があるといいですけどね。

 またこのページには「海東韻記」「帝王韻記」という本の記述も紹介してますけど。 どちらも わざわざ本借りてまで見たい内容でもないよな‥という感じで、 現状ではお手上げです。

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手搏の起源?

ある韓国系のサイト(東北亜歴史ネット)によれば‥

手搏戱は、力の強い壮士や力士が手を互いに打ちつけて勝負をしていた遊びで、文献記録によると高麗時代と朝鮮時代いずれの時代も手搏戱を楽しんで鑑賞していた。手搏戱の起源は、中国の春秋戦国時代にまで遡る。韓国ではいつからこのような手搏戱が成立していたのかはっきりしないが、安岳3号墳の壁画内容を見ると、高句麗時代にはすでに手搏戱が流行していたものと推定できる。 (安岳3号墳)
手搏の起源について「中国の春秋戦国時代にまで遡る」と書いている点については、 ちょっと置いておいて。 「文献記録によると高麗時代と朝鮮時代いずれの時代も手搏戱を楽しんで鑑賞していた」と書いてます。 高麗時代とは10〜14世紀、朝鮮時代(李氏朝鮮)は14世紀〜1910年のことですから、 つまり文献記録による限り、朝鮮における「手搏戱」は10世紀より前には遡れないということです。

 別資料を見てみても‥

また、高麗時代に現れるのが手搏(文献によっては手博)と記される武芸である。これ は素手武芸として知られており、武人の実力をテストする手段であって、「五兵手搏戯」と いう武術訓練の一環として発展したものと考えられる20。
 また、角戯、角力、角觝、角觝戯、角力戯という現在の相撲と思われる武芸もこの時期 に現れている。勇者、壮者などの語も相撲に関する人の記録として残っている。この相撲 は軍事訓練にもまた王の観戦のためにも行われた21。 (朴周鳳(2011)「第1章 韓国武芸の歴史」, 早稲田大学リポジトリ, p.14)
やはり「高麗時代に現れるのが手搏」とあり、こちらも10世紀以降と言ってます。

 これらの典拠となっているのは 『高麗史』『高麗史節要』(15世紀)における 1170(毅宗24)年8月の記述で「命武臣爲五兵手搏戱(高麗史128卷-列傳41-叛逆2-鄭仲夫-002) [Wikisource] [NDL]) あたりのようです。 15世紀に書かれた本に「12世紀頃、王は手搏戯を命じた」と書かれてるだけのようですから、 個人的には、「手搏」が10世紀というのはちょっと怪しい、12世紀なら(文献にも書かれてるし)あるかも、 しかし15世紀に「手搏」があったのは間違いなさそう‥と、そんな感じですけど。 でも資料がないからこれ以上何とも。 (実のところ、現存する朝鮮最古の歴史書『三国史記』が成立したのが12世紀ですから、それより前のことは わかないことばかりなのです。なので以下10世紀以前について「『手搏』が文献に出てこない」の ではなく、もっと正確には「文献がないから調べられない」のです。為念。 それと。ここで言われる「手搏戯」の内容についても、記述が少なすぎてよくわかりません‥)

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空白の600年

話を安岳3号墳に戻します。この古墳は4世紀後半のものとされています。つまり 「手搏図」も4世紀後半に描かれたと考えるのが普通だと思われます。

 しかし上で書いたように、文献資料でみるかぎり、10世紀より前に 「手搏」が存在した痕跡がないのです。その時間差は、なんと600年! 日本でいえば だいたい応仁の乱(1467-1477)の頃と現代の我々くらいの時間差!! すんげー昔!!! それだけ時間差があれば、普通に考えれば、安岳3号墳にあるあの絵は 文献に出てくる11世紀頃の「手搏」と同じとはいえないでしょう。 しかも

しかし、これらの壁画は文字情報を伴わないために古代における手搏と断定することは 難しく (朴2011,p.19)
こんな感じで、文字情報が一切なくて絵しかないみたいですし。 そしてその肝心の絵についても、 描写が大雑把(抽象的)すぎて、何をしてる絵なのかさえ よくわからないですし‥。 それに、そんな感じの「正直、何を描こうとしたものなのか よくわからない」絵だからこそ 拳法だったり、相撲だったり、忍者だったりの起源かも? という形の妄想もできて、 その結果、我々の嘲笑の格好のネタになってしまったりする訳ですからね。

 そのへん、韓国の人たちはどう考えてるんでしょう?

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中国起源? ちょっと古すぎな気が‥

この絵を「手搏図だ!」と解釈する人たちが注目するのは、その起源です。 すでに上でも紹介してますが‥

手搏戱の起源は、中国の春秋戦国時代にまで遡る。韓国ではいつからこのような手搏戱が成立していたのかはっきりしないが、安岳3号墳の壁画内容を見ると、高句麗時代にはすでに手搏戱が流行していたものと推定できる。 (安岳3号墳)
「手搏戱の起源は、中国の春秋戦国時代にまで遡る」‥ 中国の春秋時代は紀元前7〜紀元前4世紀です。その時代に中国で始まったものであれば、 その800年後、4世紀に朝鮮に「手搏」が伝わっていても それほど無理ない話じゃん! ‥と、 そういう解釈ですね。んー。でも、どうなんでしょう? 中国でいうところの「手搏」って、武器を使わない、素手による格闘一般に関する呼び名みたいですから。 中国の「手搏」なるものが伝わったというよりも、中国とは関係なく、 11世紀くらいに朝鮮独自の素手による格闘手法がでてきて、それを 「手搏」と呼んだ。‥と考えた方が自然なようにも思うんですけどね。 いくら何でも(あの「手搏図」が「手搏」の絵だったとしても) 600年以上ものあいだ記録には全然残ってないけど 朝鮮では手搏の伝承は続いていた。‥という状況は ちょっとムチャですよね。

 まとめると。4世紀の壁画と、10世紀以降ようやく言及されてくる「手搏」を結びつけるには、 その間にある600年という時間のギャップをどうやって埋めるか、というのが 問題になります。しかし、そのギャップを埋め得る情報は現在はないため、 つまり、例の「万能壁画」‥じゃなくて、 「手搏図」と勝手に呼ばれているもの、そこで描かれているものは 果たして何なのか、本当に「手搏」なのか。‥これらについては 「全然わからない。そもそも、何も手がかりがない」というのが正直なところで、それゆえ 多くの人たちがこの絵を使って勝手なことを言ってる。そういうことですね。

 いや、ひょっとして。その後の中国の歴史書にも「手搏」が登場していて、そこに 「手搏」のヒントが何か書かれてたりするんじゃないか?? ‥なんて可能性もありそうですけど。 それはちょっと放置してます。

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まるで伝言ゲーム

‥んで、ここまで書いたうえで 上で紹介した「ある韓国系のサイト(東北亜歴史ネット)」の文を読み返すと

  • 文献記録によると高麗時代と朝鮮時代いずれの時代(10世紀以降)も手搏戱を楽しんで鑑賞していた。
  • 中国では春秋時代(紀元前7〜紀元前4世紀)頃から「手搏」はあった
  • よくわからんが、安岳3号墳の壁画もあるし、高句麗時代(4世紀頃か)にはすでに手搏戱が流行していたものと推定できる
‥んー。学術的には壁画と文献のあいだにある600年というギャップは埋められない。 そのへん、よくわからないから、4世紀には手搏はあったかもしれない。 少なくとも否定する証拠は、ない。‥‥そういう、あやふやな状況であれば 「すでに手搏戱が流行していたものと推定できる」と語るのは、 まだ大目に見てもいいのかな? という気もするんですけど。

 しかし、その同じ人たちが作った動画ではこんなナレーションが付いてます:

高句麗の大衆のあいだに広く流行していた拳法である手搏戯
‥あれ? 「推定できる」という言葉、なくなってるよ! 「高句麗の大衆のあいだに広く流行していた」と、完全な断定口調になってます。 こうなるともうアウトですよね、やっぱ。

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[ふろく] 中国古典にみる「手搏」

簡単にサッとしか調べてませんけど。

 私が見たところでは、『漢書』芸文志(AD78年)によれば当時、「射法」「剣道」などと並んで 「手搏」に関する書物があったらしいことはわかりました[Wikisource]。しかし「芸文志」の当該項目は 当時存在した書物のタイトルだけを列挙した いわゆる「目録」ですので、 そういうタイトルの書物があったらしいことはわかるんですけど、 残念ながら 書物の中身は不明です(そんなタイトルの書物は現存していないため)。

 同じ『漢書』の刑法志[Wikisource]にこんな文が:

春秋之後,滅弱吞小,並為戰國,稍增講武之禮,以為戲樂,用相誇視。而秦更名角抵,先王之禮沒於淫樂中矣。
[大雑把訳] 春秋時代ののち弱肉強食の戦国時代となり、講武の礼が次第に増えて戯楽化し、 たがいに誇示するようになった。秦はこれを「角抵」と呼んだ。こうして先王の礼は 淫楽のうちに埋没した。 (小林武夫訳(1998)『漢書2 表・志(上)』(ちくま学芸文庫), p.385. に対応箇所)

 たぶんこの文が「(手搏は)春秋時代にまで遡る」の論拠になるんでしょうか。 「手搏戯」とは書いてないんですけど、 「戲樂」と書かれてるやつが「手搏戯」と解釈されているんでしょう(「手搏は角抵戯のこと、角力の類」(小林武夫訳(1998)『漢書3 志(下)』(ちくま学芸文庫), p.608; 注362)との解説も)。


関連(?)情報

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