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[Budh] いかにも経典にあるかのように説かれた事例

題 [Budh] いかにも経典にあるかのように説かれた事例
日付 2013.1



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はじめに --「女人地獄使」

いろんな本などを読んでいると、ときどき、 「おい、そんなこと、どこに書いてあったよ!」と 思えるような記述に出くわすことがあります。 これがたとえば、詐欺まがいの人たちとか、どこかの新興宗教団体とかが 言ったり書いたりしてることであれば、まあ、そんなに驚かないんですけど。 たまに大学の大先生らしき人が書いた文書の中に「え?」と思うようなことが 書かれてたりするとビックリしますよね。‥というのはさておき。

 そんな感じで、本当は全然そんなことないのに、 権威ありそうな人や文献などの名前をテキトーに出してきて、あの人がこう言っていた、 こう書かれてた‥という感じで相手を黙らせる方法、 じつはかなり昔からあるんだなと感じさせられる事例を見つけましたので、 ここにメモしておきます。

田中貴子の『<悪女>論』によると、十三世紀に成立した『宝物集』に、「所有三千界、 男子諸煩悩、合集為一人、女人之業障/女人地獄使、能断仏種子、外面如菩薩、内面如夜 叉」(女人の業障は三千世界に存在する男の煩悩を集めたものと同じである。女は地獄の使いで あり、男が本来もっている仏になる素質を断っており、見かけは菩薩のようだが、内面は夜叉の ようだ)という"女人業障偈"が載せられている。これは『涅槃経』の文だと記され、 『宝物集』の他にも多くの書物に引かれてきた。しかし、『涅槃経』にこの偈はなく、日本 で捏造されたものをいかにも経典にあるかのように説かれたものである、と田中は指摘し ている。 (川村邦光(2000)『地獄めぐり』筑摩書房(ちくま新書246). p.195)
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涅槃経にない!

『宝物集』は12〜13世紀の日本で成立した仏教説話集です。その中に 「権威ある経典の『涅槃経』に、女はまことに恐ろしいと書いてある」とあるが、 実のところ『涅槃経』にはそんな記述ないじゃん! 嘘つき!! ‥という話です。 (「嘘つき」というより、どっかから仕入れた あやふやな知識を、ちゃんと 確認もせずにそのまま書いてしまったんだと思います。それが後代の人たちに、 ちゃんと確認もされずに安直に典拠として使われてしまったんですね。)

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じつは宝積経?

へー、と思いましたので、ちょっとSATで「女人地獄使」で検索かけてみました。 ヒットしたのが『禪戒鈔』(大正2601;82巻)の一例で、 これ [SAT]です。

○寶積經云。女人地獄使。能斷佛種子。外面似菩薩。内心如夜叉。 (T2601_.82.0650a21)
この記述について、文脈で見てみると この後は「一見於女人。能失眼功徳。‥」(大雑把訳: 女人を一目してしまうと、眼の功徳が失われる)と続いていて、つまり、 女が絡むと修行に集中できなくなるから見るな聞くな考えるな‥という修行に臨む者への戒めとして、 とにかく女を遠ざけろという意図をもって 述べられてる文脈のようです。‥というのはさておき。ここには 『涅槃経』じゃなくて『宝積経』とあります。あれ? ‥えーと、この場合はですね、禅戒鈔は 正式名称が『佛祖正傳禪戒鈔』、1758(宝暦8)年に萬仭道坦 (ばんじんどうたん)著作、 という感じのようです[SAT]から、たぶん 「禅戒鈔」の書写誤りですね。まあ、『涅槃経』『宝積経』のどちらも 「女人地獄使」で検索してもヒットしないようですから、 どっちにせよ同じですけど。

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いやいや華厳経?

 さらに。日蓮(1265)『女人成仏抄』にも「華厳経(けごんぎょう)に云はく」として同じ文面が紹介されている ようです[URL]。しかし、やはり華厳経(SAT:[T278][T279][T293])を見ても、それっぽい文は見当たりません。 これも書写誤りでしょうか‥。 ただ『宝物集』と時代がかなり近いですから、本作が『宝物集』を典拠としたのではなく、 本作でも『宝物集』でもない、それ以外の情報源があったんだろうと思います。

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正解は唯識論? (現代)

 でもこれは「昔の人は、今の人と違ってアレだから」で済む話でもないみたいです。 Wikipedia見たら「おお!」と思う記述がありました:

また、唯識論で説かれた「女人地獄使。能断仏種子。外面似菩薩。内心如夜叉」(華厳経を出典とする俗説あり)や法華経の「又女人身。猶有五障」を、その本来の意味や文脈から離れ、「女性は穢れているので成仏できない、救われない」という意味に曲げて解釈し、引用する仏教文献も鎌倉時代ごろから増えてくる。(原典にそういう意味はない) ([Wikipedia:: 女人禁制/中世における神仏習合]
おお!‥と思いましたので、さっそく調べてみましたけど。‥‥唯識論[T1588; SAT]と、あと念のため成唯識論[T1585; SAT] も検索してみましたけど、見当たらないですよ「女人地獄使」‥。 「華厳経を出典とする俗説あり」と書いてるこのページが、「唯識論を出典とする」俗説ばらまいてどうするよ、と 思ってしまいますけど(^_^; (なお、この「女人地獄使が唯識論にある」説の典拠は 存覚(1324)『女人往生聞書』[NDL; p5b; コマ7] のようです。これまで紹介してきた資料より100年くらい時代が下がってます。 たぶん該当の記述が『宝物集』にも『華厳経』にも見当たらないことに気付いた人が、 「それじゃなくて、たぶんこっちだろう」と別の出典に変えてきたら、それもやっぱりハズレだった。 ‥そういうノリなんでしょうか。)

 ただ「唯識論」に、以下の記述があるのは見つけました。

(大雑把訳)
夢に出る 女はまぼろし それゆえに 身を重ねても 不浄漏らさぬ /
そなたらを 追い込み悩ます 地獄主も それと同じよ 実在などせぬ // (T1588;vol.31-p.65b) [SAT]
地獄は夢の中の女と似ている。それは、おまえの業が生みだす幻にすぎない ‥‥そういう文脈だと理解したんですけど。となると、「女は地獄の使いだ」という文脈の 意味と全然合ってないですよね。だって女じゃないから。夢の中の女ですから。 ‥おかしい。大元の出典は、たぶん、これでもないということですよね。

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まとめ

 いつのまにか「女人は地獄の使い」の出典探しの旅に話題が変わってますけど、しかし、 そのネタ元に当たりそうなものはまだ発見できていません。

 それとあと気になるのは「地獄の使い」という表現です。

 地獄はいったい何の目的があって「使い」を出してると考えられたんでしょうか。 (商売敵である)仏の出現などにより地獄への来客者が減ってしまって、 経費削減のため地獄が経営規模縮小される可能性が出てきた、 あせった獄卒たちがバイトを雇ってこの世に来客者のリクルートを始めた ‥そんな世知辛いストーリーが頭に浮かびました(^_^;


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