[Table of Contents]はじめに
本ページはもともと
鴨長明(1214頃?)『発心集』3-5「或る禅師、補陀落山に詣づる事 賀東上人の事」のページの「めも」として書かれていましたが、
分量が増えたのでページを分けたものです。
ここにおける「臨終の一念」とは何かというと。
[ このページの「めも」 ] に
書いたことを再度紹介すると:
凡人の日頃の行いでは、
極楽往生はほとんど無理。でも、我々には一発逆転のチャンスがある。それは臨終のとき。この瞬間に、
阿弥陀仏を10回念じる(つまり10回「南無阿弥陀仏」を唱える‥ということですよね?)ことができれば、
それ一発で極楽往生! ‥という感じですよね。
こんな感じのものです。臨終の瞬間こそ大事! と。
んで こんな考え方は平安時代の日本に特有のものだったのか?? ‥に関する、
ちょっとしたメモが本ページの内容となります。
[Table of Contents]インドにおける臨終の一念
たまたま見つけました。現代にもかろうじて伝わっているヒンドゥー教の話のようですが以下:
死者の運命は
臨終のときの思念や視覚印象によって決定されると考えられている。(橋本2000, p.62)
思念があとの運命を決定するかもしれないので神の名号の読誦に合わせて死に臨まなけ
ればならない。また、その時人は世俗への未練を払拭しなければならない。未練を残したまま亡くな
れば、悪霊として何千年もの間さ迷わなければならないからである。さらに、臨終のとき生に固執す
れば他者の生命を危険に晒すとされている。
(橋本泰元(2000)「ヒンドゥー教における葬儀と霊魂観(上)--最期の供儀--」『死後の世界 --インド・中国・日本の冥界信仰--』東洋書林, pp.49-50)
臨終のその瞬間、生への固執があると うまく旅立てず、この世を徘徊する
悪霊になってしまう。‥なんか意外と日本によくある幽霊話みたいな設定と
よく似た感じですね。へー
[Table of Contents]チベットの「ポワ」も‥
チベットに「ポワ」と呼ばれる宗教技法があります。この「ポワ」、
1990年代に起こった「オウム真理教事件」絡みの単語として有名になった「ポア」という単語の
たぶんネタ元ということで一時期非常に有名になってしまった言葉なんですけど。
この「ポワ」というのは、どうやら「臨終の一念」と類似したチベット的なアプローチという点で、
このページで紹介したこととベースは同じなんだな、と感じたりします。
「チベットのポワについて」はこちらへどうぞ
[Table of Contents]日本における臨終の一念
平安時代、浄土往生の思想の高まりとともに「臨終の一念」が注目されるようになり、
鴨長明(1214頃?)『発心集』3-5「或る禅師、補陀落山に詣づる事 賀東上人の事」のような
話も出てくるようになってきます。
その流行から時代がかなりさがった江戸時代末期(19世紀)、
平田篤胤(1812(文化9)年) 『霊能真柱』に「臨終の一念」に関する
話がちょっとありましたので、それをメモしておきます。
楠ぬしの言に、「最期の一念によりて、善悪の生を引く」といはれし
語を味ふべし。おなじく病にて死つつも、己が見し目を、人にも見せむとすると、己が見し目の苦
しきを、人に見せじとするとにて、正と邪とに別るめり。(子安宣邦校注(1998)『平田篤胤著 霊の真柱』岩波文庫, pp.196--197) //
[現代語訳]:
楠正成が「最後の一念によって、来世によく生まれるか、悪く生まれるかがきまる」と
いわれた言葉は味わうべき言葉である。同じ病いで死んでも、自分が見た目を人にも
見せようとするのと、自分の味わった苦しみを人には味わわせまいとするのとで、
正と邪とが分かれる。(相良亨訳(1984)「霊能真柱」『日本の名著24平田篤胤』中央公論社(中公バックス), p.258b)
よく知られているとおり、この篤胤翁という人はバリバリの国学派の人ですから、
「臨終の一念」によって極楽浄土を目指す‥という話は信じていないどころか、逆に
バカにしている感じで間違いないと思うんですけど。「武士とあらむものは、別に斯こ
そ有りたけれ」(子安校注1998,p.194)と、こと
臨終の一念に関しては 楠兄弟の「心」を激賞しています。
つまり「臨終の一念」の格別視というのは日本の伝統ということなんですかね。
[Table of Contents][ふろく]杉浦日向子『百物語』に出てきた「臨終の一念」
杉浦日向子さんのマンガ『百物語』の中に、「臨終の一念」に失敗した人の話が出てくるのを
見つけましたので、簡単に紹介させていただきます。
「父で ごぜます。// 先途亡くなる際 極楽往生を願い 一心に念仏を 唱えてござったが、 //
ふと、棚の 飲み残しの酒に 気が行ったかして、 // ああ、 俺が死んだら あの酒は どうなるのだろう」
(杉浦日向子『百物語』36酒壺の話(新潮文庫1995, p.250あたり?))
郡山にある、とある農家のオヤジが亡くなるとき。それまでずっと極楽往生を願い、
一心に念仏を唱えていたはずなのに。たぶん臨終のそのとき、ふと
「俺が死んだらあの酒はどうなるのだろう」と思ってしまった。そのため、
オヤジは極楽往生ならず。どこに行ったかといえば。
その農家の酒壺の中に居着いてしまった、と。そんな話です。
この話のネタ元が何かというのはわからないんですけど。でも杉浦さんの作品ですから、
たぶんネタ元がどこかにある話なんだろうと思ってますので、江戸時代の例の一つとして、
ここで紹介しておきます。
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