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[Budh] [memo] チベットのポワについて

題 [Budh] [memo] チベットのポワについて
日付 2015.3



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ポワという単語

チベット語の「ポワ」.hpho ba

基本的な意味としては "to change place, go, move oneself away, migrate" (Chandra Das) など、「移動する」という感じの意味の動詞です。これを宗教的に使うとき「転移」という 訳語が使われているみたいで、その意味としては‥

ポワ(移転)  意識を身体から抜きとってより高い状態へ移し替えるチベット密教のヨーガ的秘法。(川崎1993, p.13)
‥んー。正直、わかったような、わからないような‥(^〜^;

 ちなみにこの「ポワ」、仏典のチベット語訳などでは割とよく出てくる単語でもあります。

それに対して、菩薩たちは如来すなわち私が永遠であり・転移(ポワ)もしないし・変化しないものであると言う。 これはつまり、賢い息子ならば 汝は死んでいないよ、と言うようなものだ。 [涅槃経:東北119:デルゲ56b6] のへん
‥いまいち「転移(ポワ)もしない」と「死んでない」の区別がわからないんですけど。 「菩薩たち」にとってのは「ポワ」は 一般人のレベルでは「死ぬ」になっちゃう、といった 感じなんでしょうか。

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チベットの死者の書

 何かよくわからないので、もうちょっと書きます。 これは、私が知るところでは『チベットの死者の書(バルドゥ・トェ・ドル)』などに出てくる言葉です。 『チベットの死者の書』によれば、人はまず生前の修行などによって解脱することが望ましいものの、 もし解脱に達しなかった場合。そのときに‥

<チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)>において、<ポワ(移転)>という、記憶するだけでおのずから 解脱できる手段が適用されるべきである。普通の能力のヨーガの実践者ならば、これを受持し実修することに よって、その後のバルドゥの期間を経過しないで確実に解脱に至ることができるであろう。 (川崎信定訳(1993)『原典訳 チベットの死者の書』,ちくま文庫. pp.12--13)
そして、「ポワ」さえも難しい人は『チベットの死者の書』で書かれていることを実践せよ、と。 そんな感じになってます。

 そして「ポワ」ですけど。‥んー、正直、よくわからないんですけど。 川崎1993の「補注」に、川崎先生の解説が書かれてますので、ちょっと紹介します。

意識は《生命の風》とも呼ばれるが、中央の脈管を登って、左右の脈管に逸脱するこ となく頭頂に達し、ポワを受けることによってそこの《ブラフマンの孔》と呼ばれる微細な孔から抜け 出し、浄土へと達する。タントラ行者のティーローパがナーローパに伝えたポワは、『ナーローパの六法』 の中に含められてカーギュ派に伝承されている。またニムマ派にはこれとは別に、『マゴム・サンギェ (長期間の観想修行を必要としないで成道する法)』と呼ばれるポワの秘法が伝承され、これには、法・ 報・化の三身対応のポワと、凡夫のためのもの、死者のためのポワの五種が説かれる。本書『チベットの 死者の書(バルドゥ・トェ・ドル)』で説かれるのは、臨終に際してまだ死者の意識が身体を脱しない前 に、生前の師僧であったタントラ行者がお授けを行なうもので、死者の意識が三悪趣へと彷徨するのを阻 止するためのものである。「凡夫のためのポワ」とは、一般人が生前から師僧の指導の許に正しく瞑想の 修行を行なうもので、これによって、頭頂の門を開いて阿弥陀仏の浄土に意識を送り出す予備訓練を習得 する。死に臨んで、この生前の修行を行なったものはみずからがこの習得した過程を想起しながら、また 臨終に立ち会っている師僧や同法者のお唱えの手助けを受けながら、容易にポワを達成する。実際のポワ の観想の手順については、中沢新一+ラマ・ケツンサンポ『虹の階梯---チベット密教の瞑想修行---』 (平河出版社、一九八一年)二八八頁以下に記録が存する。 (川崎1993, pp.179--180)
難しい‥。まず人は、なかなか完全に清浄な人生を送りきるのはほとんど無理なので、 ほとんどの人は 普通に死ぬと 三悪趣、つまり地獄・餓鬼・畜生のどれかに堕ちてしまう。 それを避けるには、普通にただ死んではいけない。じゃあ どうするかといえば、 そこで出てくるのが「修行による解脱」。しかしこれは簡単なことではない というか、 たぶん ほとんどの人には無理なこと。 そこで出てくるのが「死ぬ直前に行なうポワの行法」(これはここの引用より上に書いたことの くり返しですね)。具体的には、死ぬ直前に、人の意識(魂?)を その人を頭頂の《ブラフマンの孔》から逃がして、「普通に死んで輪廻して三悪趣に堕ちてしまうこと」を 防止すべきである、と。そうすると人は輪廻という束縛から抜け出ることができる。これがポワ?

 そして死者の書におけるポワは、息絶えそうな人のうち、すでにそのポワの行法を練習済な人が対象で、 そんな人たちが臨終に際して 以前まだ元気だった頃にやっていた練習を思い出しながら自力でポワする、 あるいは枕元にいる師僧の助けを受けながらポワする、 そういう感じみたいですね。

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日本でも「臨終の一念」は重要視

ちなみにこの「死の瞬間こそ大事」というのは日本でも同様で、 源信『往生要集』や 鴨長明(13c)『発心集』の 「或る禅師、補陀落山に詣づる事 賀東上人の事」などにも出てきます。

もし臨終の時に阿弥陀仏を10回念じれば。必ずや、 かの安楽国(極楽浄土)に往生できる (『往生要集』大雑把訳)
「ポワ」と違うのは、日本ではそれ用の行法といったものは用意されておらず、 「臨終の瞬間の気持ちの持ちよう」だけが重視されています。『発心集』では、 かなりの高名な高僧であっても、臨終の瞬間のちょっとした気の迷いで極楽往生に失敗し、 天狗と化してしまった‥なんてエピソードが何個か紹介されています。また 杉浦日向子さんのマンガにも江戸時代の同様のエピソードが紹介されていることから、 「臨終の瞬間の気の迷いで、極楽往生に失敗」という話は たぶん江戸時代にもあったんだろうなと思います。

 また仏教以外でも、たとえば 国学派の巨頭といってよさそうな平田篤胤公も 「臨終の一念」の大事さを語っています

 これらの点から、チベットにおける「ポワ」というのは、行法とか階梯とかいう あたりで何かオドロオドロしいムードを感じてしまうんですけど、発想の出発点としては じつは日本的発想とは意外と近い、そんな感じがします。

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[余談] オウム真理教の「ポア」との比較

 このチベットにおける「ポワ」は、たしかに「臨終を迎える人の意識を高いところに移し替える」ものですけど、 しかし、あくまで「いまにも死にそうな人」を対象としたものであり、 フツーに元気に生活している人を殺すとか、そういった種類のものでありません。 そこは注意する必要がありそうです。なお、人を殺すことを「ポアによる救済」として 正当化してしまったオウム真理教のそのアイデアの元ネタか? とされているものについては、 [ [ふろく] オウム真理教「ポア」との関係 ] をどうぞ。


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