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[資料] 秋田高校1991年の夏 (2:大阪桐蔭)

題 [資料] 秋田高校1991年の夏 (2:大阪桐蔭)
日付 2014



部屋を片付けていたら出てきました。せっかくなのでここに。 (以下全部資料編です。)

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秋田8強夢散 延長11回大阪桐蔭と激闘

[日刊スポーツ 1991/8/18(日) 東北7版]

第73回 全国高校野球 10日目

9回2死までリードも…

大阪桐蔭000 000 102 014
秋  田300 000 000 003
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東北勢すべて姿消す

伝統校秋田(秋田)は、優勝候補の一角・ 大阪桐蔭(大阪)相手に互角以上の試合を展 開したが、延長11回の死闘の末、3-4で無 念の逆転負け。あと一歩、あと一球が遠かっ た。しかし、"金星"を寸前で逃したもの の、菅原勇樹(2年)がメモリアルアーチ (東北勢大会通算30本目)を放つなど、浪速 っ子をアッと言わせた。これで東北勢はすべ て敗退。初戦から吹き荒れた"みちのく旋 風"も大会10日目にしてついに止まった。

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延長10回 浅野、無念の本塁憤死

菅原朗"痛恨"の決勝本塁打食う

魔の4連打

 "甲子園劇場" 2時間24分 の熱い戦い。 秋田ナインが 悲運のヒーロ ーになるとは だれも思わな かった。9回 表2死、走者なしで2点リー ドの場面。相手打者のカウン トは2-3。あと1球、あと 1合うとで大殊勲。大阪桐蔭 ナインの目には涙も浮かんで いた。秋田ベンチは総立ち。 マウンドの菅原朗仁(あきの り=3年)目掛けて突進する ばかりだった。だがここ から無情にも勝利の女 神が……。

 三塁打を皮切りに"魔"の 4連打が怒とうのように襲っ た。大阪桐蔭のバットが快音 を続ける。同点タイムリーが 佐藤幸彦主将(3年)のグラ ブをかすめて抜けた。エース 菅原朗は「勝ちは意識しなかっ たのに……。ツキがなかっ たのかな」。お立ち台で涙が にじんでいた。

 2試合連続のミラクル劇も あと一歩だった。延長10回 裏、2死二塁で佐藤主将の放 った打球は中前へ。だれもが 信じ、相手さえ覚悟したサヨ ナラのシーン。26年ぶり8強 入りの夢を乗せ、サヨナラの 走者となるはずの浅野太一 (2年)が「絶対、勝つん だ。ホームを踏みたい」執念 で突進。だがここでも……。 好返球が来て寸前でタッチア ウトになってしまった。激闘 のフィナーレは大阪桐蔭・沢 村の本塁打だった。

 小野巧監督(36)は「県大 会でノーシードのチームがよ くここまで来た。そしてよく 戦った。満開の時期を経て散 った」と、健闘したナインに 拍手を送った。県大会は「無 欲、無心」を強調して8年ぶ りに優勝。大舞台にコマを進 めても同じだった。この日、 予選決勝で対戦した宿敵だっ たアイドル中川申也(秋田経 法大付)も自宅のテレビで 「僕の気持ちが甲子園の秋田 ナインに届いてほしい」と、 声援を送り続けたが、その願 いも通じなかった。だが、健 闘、善戦の試合展開は甲子園 を埋めた大半の浪速っ子をア ッと言わせた。

 最後の最後まで打たれ強い 真骨頂で力投したエース菅原 朗。大会屈指の強打者、萩原 を1安打に封じた。菅原朗は 「主軸に対しては満点の出来 です」と胸を張った。中学時 代からのバッテリー女房役の 菅原勇も先制アーチ。アルプ スに強い印象を刻み込んだ。

 佐藤主将は「みんなの力が 一つになってここまで来られ たし、これだけの試合ができ た。思い残すことなく秋田に 帰れます」と涙はない。小野 監督は、自分の持つ野球哲学 を引用して「実力は、発揮す る力プラス本 来持っている 力。きょうの ゲームも発揮 する力は相手 を勝ってた よ。来年もまた甲子園に来ま す」。文武両道ナインがさわ やかな足跡を残して甲子園を 去った。   【平井 勉】

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菅原勇 東北勢通算30号実らず

 グングン伸びた! 初回2 死から3番・菅原勇の一振り は、一塁側アルプス席の 絶叫を吸い込んで、ライトポ ール際に突き刺さった。

 前半の流れを引き寄せる一 発。今大会25号の、そして東 北勢大会史上通 算30号のメモリ アルアーチだ。菅原勇は何度 も何度もガッツポーズ。ゆっ くりダイヤモンドを回った。

 予告弾だった。これまで高 校通算16本塁打を放っている スラッガー。試合前、報道陣 に「今日は右方向に狙ってい きます!」と宣言していた通 りの見事な一発だった。

 アルプススタンドで観戦し ていた菅原勇の母庭子さん (46)は「やってくれると思 ってました」と立ち上がって 大喜び。

 しかし、この一発も実らず 惜敗。菅原勇はネクストバッ ターズサークルで敗戦の瞬間 を迎えた。心の中で「もう一 度回って来い! またホーム ラン打ってやろう」。

 インタビュールームで、菅 原勇は「勝ちたかった」 と涙を流した。メモリア ルアーチをかけた時の 「信じられないような」 (菅原勇)興奮、陶酔… …。ビッグな思い出は胸 にしまっておくつもり だ。

 「今度来 るときは、もっともっと バットを振って、もっと いいバッターになって来 たい!」と視線を上げ た。右手で握り締めた記 念のホームランボールに 汗がにじんだ。     【古美門久恵】

 菅原勇樹(すがわら・ゆ うき) 1974年(昭49) 10月19日生まれ。右投げ右打 ち。捕手。179センチ、78キロ。 好きな言葉は「忍耐」。菅原 朗仁投手とは中学時代からバ ッテリーを組んでいる。好き な食べ物はラーメン。祖父、 祖母、父、母、姉、弟の7人 家族。

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最後のスコアブック

 背番号14のマネージャー佐 々木修宏(3年)hあ、スコア ブックに投ゴロのマークを付 けて夏を終えた。秋田南中時 代には県大会2連覇した経歴 を持っているが、「みんなが 必要とするなら」と縁の下の 力持ち、マネージャーとなっ た。練習中にはノックバット を握り、バッティング投手も 買って出る。チーム内では助 監督的存在。記録係として制 服でベンチ入りした県大会を 経て、甲子園では14番をつけ てユニホームでベンチ入り。 グラウンドでプレーすること はなかったが、「3年間、本 当に楽しかった」と笑顔を見 せた。

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揃いのハッピで応援

 秋田高野球部のグルーピ ー・土手クラブのメンバー が、紫色のそろいのハッピを 来て応援に駆け付けた。結成 は1954(昭29)。グラ ウンドわきの土手に集まっ て、野球部の練習見物をして いた仲間がつくったという。 前会長の中野金次郎さん(78) は「秋田の活躍はワシらの生 きがい」と、汗びっしょりに なって声援を送っていた。

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支社長の目・熱投154球も"甘さ"に泣いた菅原朗

 秋田が 敗れ、東 北勢は全 滅した。 優勝候補 の大阪桐 蔭を相手に「善戦、勝機十 分」と予言したが、読者諸 兄にはお許し願えるだろう か。もしそうなら、筆者を 男にしてくれた菅原朗仁投 手に最大限の敬意を表し たい。

 秋田は敗れたとはい え、文句のない戦いぶり だった。そしてその立役 者は、まぎれもなく菅原 朗君である。

 大会屈指の強打線を向 こうに回して熱投154 球、そのすべてに魂が入 っていた。なによりも逃 げるなんて気持ちが、カ ケラほどもなかったのが いい。

 投手の生命線は制球 力。菅原朗君はこの格言 を地でいった。コントロ ールさえあれば、たとえ 強打線でも抑えられる、 ということを立証した。

 無類の制球力に緩急の 変化を付けたカーブ、そ してシュートで、球種を 七色にも十色 にも見せた。 それはまさに 芸術的ともい えるピッチン グだった。

 「タラ、レ バ」をいえ ば、惜しかっ たのは、沢村 に打たれたサ イクルとなる 決勝ホームラ ンではない。 2点リードの 9回、ポンポ ンと2死を取 ったあとの4 連打同点劇で ある。「あと 一人」、勝負 はゲタをはく まで分からな い。月並みな がらあと一 人、その一球 が命取りにな ることを教え られたこと だ。

 その点、東 北勢は「一球入魂」に命 かけて、チームの再建策 を図らなければならな い。別表にある通り、4 勝のうち3勝が1点差。 すべてが投手を中心に守 り勝っている。敗戦とい えば、東北の羽根川君が 連続四球、専大北上・亀 井君が2度の暴投でリズ ムを狂わした例を引き出 すまでもなく、ここぞ、 という時の投手の甘さが 目に付いた。「たった一 球、されど一球」。最後 の投手、菅原朗君も、こ れを裏書きするフィナー レで散った。

 【日刊スポーツ新聞社 東北支社長・長谷川静 男】


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