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[memo] 朝鮮韓国に関する雑多なメモ(朝鮮通信使)

題 [memo] 朝鮮韓国に関する雑多なメモ(朝鮮通信使)
日付 2017.9
パッチワークの読書メモ



[ 朝鮮韓国に関する雑多なメモ(格下ニッポン) ] の続きみたいな感じです。

[Table of Contents]

朝鮮通信使に見る不平等外交?

野平2002が紹介(引用)する チャン・チャンウ『韓国人が書いた倭人伝』(東信出版社1997)、つまり 孫引きで引用させていただくと:

過去2000年来、韓日関係は隣国としての対等な関係ではなく、優越感と劣等 感の相関関係が続いてきたと見られる。2000年の歴史を次 のように区分してみることができる。

 韓日関係を見ると上下関係で1勝1敗1引き分けの歴史とみ ることができる(表1を参照--引用者注)。全体的には韓国の絶 対的な優位が1000年以上続いて来たが、壬辰倭乱と丁酉再 乱は7年間の引き分けの時代であり、日本が韓国を支配してい た35年10ヶ月(原文ママ、実際には34年8ヶ月)の韓日合邦の 時のみ日本が優位に立った時期であり、歴史を全体的に見ると 非常に短い瞬間に過ぎない。上の表から分かるように日本がコ ンプレックスを感じている時には韓日間に平和があり、韓国の 文化と技術が一方的に日本へ流れた時期である。この時には朝 鮮通信使の例で分かるように我々の通信使は日本の首都・東京 (原文ママ)まで行って盛大な接待を受けたのに、日本の使臣は 釜山の倭館に着くのが最後のコースだった程韓国優位の不平等 外交が慣例のようになっていた。

(中略) 日本から入ってきた文化といったらサツマイモ、唐辛 子、煙草だけだった。韓国にやる文化がなかったのである。(『韓国人が書いた倭人伝』)

(野平俊水(2002)『日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史』小学館文庫, pp.11–13)


 ‥いろいろ思うことはありますけど、それはちょっと置いておいて。

 韓国人における朝鮮通信使の理解については、Wikipedia に [ 韓国の歴史教育における朝鮮通信使 ] という項目があって、 そこにこんな感じ:

日本は経済的に困難に陥った。ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。 ‥(略)‥ また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。
韓国では朝鮮通信使について、こんな感じで教えているそうです。 これは、まあ、上の引用文の内容と通じる中身ですよね。

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朝鮮の首都まで行けない

 ここで「日本はたいしたことなかった」の証拠として出されているのが 「この時には朝鮮通信使の例で分かるように我々の通信使は日本の首都・東京 (原文ママ)まで行って盛大な接待を受けたのに、日本の使臣は 釜山の倭館に着くのが最後のコースだった」点。じつはこれと関係している話は、 ダレ『朝鮮事情』でも語られています。

朝鮮と隣国とは、ほとんど商業関係がない。近隣の二強国である中国と日本に対して、自国の独立を よりよく保つために、この国は完全な鎖国をまもっている。法によって予測される場合を除いて、 外国と関係することは、すべて死刑に値する罪となる。国と国との条約によって、中国人も日本人も、 相互に相手の国には、誰ひとり定住することができない。ソウルに来る中国の外交使節は、彼の従者を 国境に残して、二、三の随員だけを連れて入国する。ソウルに滞在する間は、居処と定められた官邸から 外出することはできない。逆に、朝鮮の外交使節は、随員すべてを連れて中国に入り、逗留している間は 自由に北京の街を歩き廻ることができる。

(金容権 訳(1979)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫367, pp.316--317)

 当時の朝鮮は、清(中国)の属国だったわけですけど。宗主国の使節でさえ、 さすがにソウルには入れるけれど、かなり厳しい制限がつけられていた。 日本の場合、特段の主従関係があった訳ではないので、朝鮮には入れなかった (し、日本側もそのへんに特段のこだわり を持ってなかったんだろうと思います)。 そして江戸にせよ北京にせよ、朝鮮の使節のほうは自由に行動できた。 --- 基本的には清も日本も同じ待遇ですよね。宗主国だったか否かという点が ちょっと違うだけで。んで、何で 江戸にせよ北京にせよ、 朝鮮の使節が自由に行動することを許されていたかといえば。 「韓国優位の不平等外交」というより、 清にせよ日本にせよ、朝鮮を軍事的な脅威と感じてなかったから、 基本「どうでもいい人ら」だと思っていたから わざわざ禁止しなかった、 ということじゃないかと思うんですけどね。どうですかね。 何といっても、宗主国様も同じ扱いだったという話を知ってしまうと、 どうしても そう思ってしまいますけどね。

 ダレも「近隣の二強国である中国と日本に対して、自国の独立を よりよく保つために、この国は完全な鎖国をまもっている」と、 当時の外国人宣教師たちは朝鮮が日本・清よりも優位な立場にあるとは まったく思ってない感じのことを書いてますし‥

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朝鮮通信使と日本人の詰りあい

第11次朝鮮通信使が目的地・江戸からの復路、大阪に滞在していたときに事件が起こります。 1764年4月7日。一人の日本人(鈴木伝蔵)が朝鮮通信使の宿舎に侵入し、 朝鮮の上房執事であった崔天宗の喉を刀で一突き、殺害してしまうのです。 この事件の真相については諸説あるみたいでよくわからないんですけど。 朝鮮側のある記録によれば、天宗が大阪で鏡が見当たらないとして以下:

天宗云日本人能盗、伝蔵罵道却是朝鮮人最能為盗、相与怒罵、終至於天宗以鞭痛打伝蔵。 (『通信使藤録』第十二冊) (高島淑郎訳注(1999)『日東壮遊歌--ハングルでつづる朝鮮通信使の記録』平凡社東洋文庫662, p.333.)

天宗が「日本人はすぐ盗む!」と言って、それに対して伝蔵が「盗みといったら朝鮮人だろ!」と 言い返して喧嘩になり、結局は天宗が伝蔵をムチでたたいたことが殺人事件につながった‥と 書いてあるみたいです。

 個人的にここで「おお!」と思うのは、天宗が「日本人はすぐ盗む!」と言ってることです。 当時の朝鮮は鎖国状態で、それゆえ普段は京城にいるはずの官吏はたぶん朝鮮通信使の時以外に 日本人を見たこともなかったんではないかと思うんですけど。それで「日本人はすぐ盗む!」と 言ってるのはつまり、日本人を「蛮人」のステレオタイプで理解してたからじゃないかと 思うんですけど。もしくは朝鮮通信使の道中で「日本人はすぐ盗む!」と感じる経験でも したんでしょうか。

 そしてその天宗の言葉に対して(真偽は不明ですけど)「盗みといえば朝鮮人だろ!」と 伝蔵が返したのも何故なんでしょうね? 単なる「売言葉に買言葉」なのか、それとも 朝鮮通信使との接触などの中で「盗みといえば朝鮮人!」と感じる経験があったのか‥。

 どちらにせよ、まるで鏡でも見てるみたいに「俺らは優越、あっちは蛮人」と言い合ってるのは、 なんか現代の日韓関係とあまり変わらない気もしますね‥。

[ 朝鮮韓国に関する雑多なメモ(格下ニッポン2) ] に続くような感じです。


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