[前] 『大野の撫斬』(1935) |
奢侈遊情の風情の中にも、堅実豪毅の士風の衰へなかった元禄九年
七月二十四日、久保田城下を離れること小一里ばかりなる、大野部落の
南方直下を流れる古川辺の清兵衛宅(勘四郎宅といふ説あるも記録不明)
付近で、悠々釣糸を垂れてゐた久保田藩士黒沢一兵衛なる一人の武士が
あった。水辺近く、よしさりがけたたましく鳴き、流水は人生流転を
思はせる如く、七月の太陽の下を匍匐してゐた たまたま大野部落の
市蔵、仁蔵の兄弟が船に柴を満載して(当時船の航行自由であり柴は
現在柳原と称する個所より積載したものらしい)地唄を張りあげながら
真菰の間を滑り抜け出た所、柴の端が過って武士の釣糸に引っかかった。
突然の妨害に今まで浮子に全神経を集中してゐた武士は烈火の如く
[p.3]
怒って
「其処な二人の土百姓動くな! 見れば下賎の身、如何なる意趣遺恨が
あって拙者の風流の釣を邪魔立て致す、むむ百姓風情に侮られた
とあっては武士の名折れ、生かしては帰さぬぞ」
と叫んだ。
「これはこれはお武家様、何んでお恨みなどありませうぞ、全く
わし等の過ち故、どうぞどうぞごかんべんの程を‥‥」
といひながら市蔵、仁蔵は平謝りに謝った。だが武士は益々
威丈高になって
「いいや、さうはいはせぬぞ、ならぬならぬ、放った矢は
戻らぬも道理、わけて大小たばさんだ武士に臆面もなく
妨害したるは身の程を知らざる面魂、早う岸に上って首をのべろ!」
といひながら刀の柄に右手をかけて二人の上陸に身構へた。
「お武家様、これこの通り、何んの他意もない通りがかりの過ち故
どうぞお見逃し下され」
二人は船ばたに頭を擦りつけて再三再四武士に謝罪を乞ふたが
聞き入れなかったので、遂にこれまでと決心して
「お武家様、頭を下げて謝まるをお許し下さらぬとはちと御無体、
逃がしなされた獲物が惜くばわし等二人で早速獲って進ぜます」
「な、なんと申す、いはして置けばよくも、下賎の身二つ一刀の下に
叩き斬ってやる」
「百姓を下賎とは解せぬお言葉、お武家様が頂戴します御禄は、一体
誰が進上するとお思ひなさる?」
「無礼者!」
[p.4] 遂遂論戦が白熱化し若者二人は棹を持って岡に跳上り、武士に打って かかった。そして暫く争ふも武士は遂に二人のちからに壓迫されて 堰にはまり込み、人事不省になってしまった。それを死んだと思った 若者たちはその侭帰宅したのであった。
一説には武士を打った棹がその身体にあたらないで堰の向ひ淵のみを 打ち、かなはずと見た武士が死人をよそふてゐたとも言い伝えられてゐる。
1696(元禄9)年の、旧暦7月24日(現在の暦では8月21日)のこと。 久保田城下の南にある、大野部落の南に接する古川にて事件は起こった (右図は相場1981より。1800年頃の菅江真澄の絵には「潟中島」は描かれてないが‥)。 たぶん清兵衛宅のあたり。そこで釣をしていた久保田藩士・黒沢一兵衛なる一人の武士。 そこにたまたま、舟に柴を満載した市蔵・仁蔵なる兄弟が通りかかったところ、二人の舟が 黒沢の釣糸にひっかかった。黒沢は激怒。兄弟は平謝りに誤ったが、黒沢の激怒はおさまらない。 そこで、思い切って兄弟はこう提案した。 「逃がしたお魚がそんなに悔しかったのでしょうか。 よければ我々二人が変わりに魚を捉えて差し上げますが」
すると黒沢は逆上し「下賎の分際で! 叩き斬ってやる」 「下賎の分際ですと?!」‥‥そして、ついに。事態は両者の武力衝突にまで発展したのであった。 さすがの武士といえど 一対二では分が悪く、黒沢は二人の勢いに押されて堰にはまり、 意識を失ってしまった。二人は黒沢が死んだと思い、放置して(!)帰宅したのであった。 伝承の中には「黒沢は気絶したのでなく、勝てぬとわかって死んだフリをした」というものも あるが、真偽は不明である。
[Table of Contents]放置はまずい(苦笑)
ちなみに。ここで紹介した地元・大野村の伝承では一対二で黒沢がやられた、 という感じになっているようですけど。 他の情報を見てみると、大野村の人らが大勢で黒沢をフクロにしたという感じみたいです。 一説では「藩士は四人で、百姓は十四、五人」(秋田魁新報社編集局文化部編(2004)『時の旅 四百年 佐竹氏入部』秋田魁新報社, pp.234b.)とも。 どっちが正しいか? ‥んー。大野村の伝承では「とにかく悪いのは市蔵仁蔵の二人だけで、 残りは皆 純粋な被害者なんだ!」としておきたい気持ちが働いたのかなー、なんて思ったりします。
ところで本書pp.8--9 に掲載されてる「過去帳」の写しを見てふと思ったんですけど。 全部で22人+(悲しみのあまり悶絶死した(?)女性)1人の名前が並んでるんですけど。 そのうち21人は「新田村」、1+1人が「大野」と書かれているように見えます。 「撫斬」の場所が大野だから「大野の撫斬」と呼ばれているものの、 騒動の主役は大野村民よりも二井田本村民なんでしょうか。 それなら確かに現・東光寺に如来堂があった話も合点いきますよね。
場所について。たぶん清兵衛宅のあたりの古川、とありますけど。
清兵衛とか言われてもなあ‥(^o^;;
‥ということで、
具体的な場所については不明です。でも古川って大野からそんなに近くない気がするんですけど。
古川だからなー。江戸時代の古川は今よりもっと大きかったみたいですから(そもそもが雄物川そのものですからね)、
コメリとかナイスとか北都銀行とかサンデーとかマルダイとかあるあたりかな?‥もし
そうなら、騒動の主役が二井田本村民だという話は腑に落ちますね。どうなんでしょう?
‥いや、伝承では
大野部落の
南方直下を流れる古川辺の清兵衛宅(勘四郎宅といふ説あるも記録不明)
付近
とあるので、南方となるとやはり現在の仁井田浄水場近辺なんですかね?
‥でも昔は墓地より南は何もなかったという話を聞いたような気がしますが‥
(右図は現在の古川。今では単なる用水路ほどの規模しかないが‥。 古川のどこで事件が起こったのか不明なので、場所はいい加減)
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