[ 大野の撫斬 Top ]

『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


[前] チョー簡単あらすじ

[Table of Contents]

[Table of Contents]

四ツ小屋

大野、仁井田以外の地域が、治水・開拓事業以前はどうだったかという点について。 四ツ小屋については、その由来が 「四ツ小屋という地名は、寛文12年開墾の目的で雄物川の川岸にあった4戸の農家が移住したことからその名が付いた」[URL]とあり (寛文12年=1672年)、つまり、17世紀後半に入るまではほぼ無人の原野だったことがわかります。 そしてその移住から約60年後の1730(享保15)年「六郡郡邑記」(『秋田叢書2』[NDL] p.90;コマ59)には 「四十一軒」とあります。ちなみに大野村は「廿二軒」とあります。‥江戸期以前から集落があった大野村、新興の四ツ小屋村に すでに抜かれてる(^_^; というか、四ツ小屋村、発展早い‥。そしてさらに この四ツ小屋一帯を発展させたのが高橋武左衛門(平鹿郡下境出身)という人で、1783(天明3)年に藩命で 四ツ小屋地域を検田し、続いて御野場一帯の開拓事業を始めて、その結果 19世紀初めに 四ツ小屋一帯はさらに発展したようです。むむむ

[Table of Contents]

治水は意外と早くできてる?

約100年かかったと言われる治水・利水の大事業ですけど。なんで100年もかかったかといえば‥

「仁井田堰の資料によれば、資金を蓄えるためと記されている」 [URL]
つまり。事業資金の調達がうまくいかなかった時期があり、それで工事が思うように進まなかった という事情はあったようです。雄物川の流域変更そのものについては 「わずか3年足らずで完成させ」[URL]と書かれています。早ッ!

[次] 『大野の撫斬』(1935)