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餓鬼について

[佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經]に 端を発して作成している「めも」です。


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可視化された「前世の悪業」?

すでに述べたとおり、 日本における「餓鬼」の一般的なイメージって、たぶん 『救拔焔口餓鬼陀羅尼經』『佛説盂蘭盆經』の影響が ものすごく大きいんだろうなー、という気がしています。

 あるいは。別の可能性として「中世期の寺院、縁日などの門前や境内で 喜捨を受けていた人たち」のイメージもあったかもしれません。 たとえば琵琶法師などの盲人、あるいはハンセン病患者、 近代であれば傷痍軍人など。 その多くは、いわゆる身体に障碍を持つ人たちが多かったと思いますけど。

 当時、そういう障碍を持った人たちは 現代とは異なり、 満足に働くことができず、それでいて社会の保護や支援を期待できるわけもなく、 自力で生きていくとしたら 寺院の門前などで喜捨を期待するしかなかった‥。

 そんな人たちの姿は、きっと当時の人びとには「前世の悪業を抱えたまま 転生するとは、こういうことなのか」という感じで見えたのではないでしょうか。 「『地獄』の生き証人」といった感じですね(川村邦光(1996)『民俗空間の近代』情況出版. p.241)。

 そのイメージが「餓鬼」のイメージ形成に何らかの影響を与えた可能性はありそうです。 餓鬼のイメージのうち 「人間世界や天界の片隅にスペースをもらってそこで細々と存在している」系のものって、 なんか、非常にピッタリ来る感じじゃないですか?

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[ふろく] 身体障碍者差別と近代

ちなみに。近代になると、身体障碍者(「地獄の生き証人」?)が 人々の目の前から姿を消すことになって現在に 至る訳ですけど。それは「差別がなくなった」というより、 差別され得る人たちは隠されるようになった、人々の前に出ることができなくなった ‥‥ということで実のところ、身体障碍者への差別意識・忌避感覚というのは 実は近代になってさらに強化されている、と考える人もいるようです(川村1996, p.255.など)。

 このことと関連したこととして、私は実際には見たことはないんですけど 「ミゼットプロレス」の選手などもインタビューで

「自分が唯一輝ける場所がリングなのに、人権団体がうるさいからプロレスが出来なくなった。生き甲斐も仕事も失った」 (Wikipedia:: ミゼットプロレス)
俺という人 間、小人という人間を見限りたくなくて、プ ロレスに賭けたんです。僕はショーマンとし て生きてゆこうとして、いつか日の目を見よ うとして生きてきたのに、やりもしない外野 の人たちから意見を入れられてね、とうとう 日の目を見ないで終わってしまうということ に、とても虚しい面があるんです‥‥。 (高部雨市(2002)「小人プロレスの憂愁」『現代思想臨時増刊号 総特集プロレス』, p.124a)
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このように発言しており、「差別反対」のムードが障碍者である自分の 社会参加・生き甲斐をツブしている、と考えていることがわかります。 「自分が見たくないものを見なくて済むようにするため、 誰もが逆らえない『人権』という言葉を使って相手を恫喝している」という見方ですね。 その考えの真偽について私は何も言えません‥。

 他方。2012年になって、NHKのEテレで 「バリバラ」 [Wikipedia]なる番組が 放送されるようになりました。NHK、攻めてますね! この番組、近代における障碍者忌避がどれほど強いか、そしてその意識が 知らず知らずのうちに自分の中に どれほど浸透しているかを 思い知らされますね。「見てはいけないものを見ている感」の重圧がスゴい‥。

 しかし、やっぱりそのような「場」を作為的に作ることは どうよ?? という意見もあって、

客の多くは女子プロ レスを見に来ている。そこへ登場し、その場 の雰囲気を逆転させ、自らの笑いのエンター ティンメントの世界にいかに引き込めるか、 それが小人プロレスだ。しかし、障害者プロ レスは、あらかじめ障害者プロレスを楽しも うという大前提をもった、あえて言えばボラ ンティア的感覚のファンが多数を占めるので はないのだろうか。そこでは果たして、笑い のエンターティンメントは研ぎすまされてゆ くのだろうか。 (高部2002, p.131b)
つまり「障碍者の人たちが人前に出る」ことを前面に押し出しすぎな場所を つくっても、それはいったい誰得なの?? 誰にとっても嬉しくないのでは?? という指摘ですよね。うーむ。

 私個人の思いとしては、このような点を考えると 障碍を負ってしまった人たちが 堂々と人前でプレーできるパラリンピックというものの 重要性をひしひしと感じますし、また同時にパラリンピックは いわゆる「健常者」と「障碍者」を完全に区分してしまう排除と偽善の塊のような ものにも見えてしまいます。んー。それ以上のことは何も言えません‥

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