インドでは餓鬼=亡者(死者)
再び、「餓鬼」とは何か。
[Table of Contents]餓鬼は preta のこと
サンスクリットでは"preta"。
「鬼」は亡者(死者)のことである。その原語であるインド語pretaは、「往ける人」(the
departed person)を意味する。漢字の「鬼」もまた死者の魂を意味する。だから、
「鬼」は単に死者であって、死者が必ずしも餓えた存在であるわけではないが、たいていは
この亡霊は惨(みじ)めな境界にいるので、のちに「餓」の字が附加された。」(定方晟(1973)『須弥山と極楽』,p.81)
「餓鬼」というのはインド語 preta の訳語である。けど実際には
preta の意味は「鬼」の一文字で表現できる。古典中国語では「鬼」とは
「死者の魂」を意味する語であるが、preta もそういう意味である。
でも、諸経典を見てみると、亡霊(preta)は みじめな状況に置かれていることが
多いので、漢字圏では のちに「鬼」という訳語に「みじめな」というニュアンスを持つ
「餓」という文字を添え、「餓鬼」と呼ぶのが普通になった、と。
[Table of Contents]古典インド文学のpreta
古典インド文学における「プレータ」について、以下:
『屍鬼二十五話(ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティ)』の記す墓地の光景を見ることから始め
よう。そこは火葬の火が燃えさかり、「無数の人骨、骸骨や頭蓋骨がおぞましく散らばっており、醜悪
な亡霊や屍鬼が喜び勇んで群がって来て墓地を取り囲んで」いて、ジャッカルたちが「ゴロゴロと大
声で叫んで」いるところである。またプレータやヴェーターラの他にヨーギニーあるいはダーキニー
たちがあちこちから集まってきて群をなしているところでもある。
(田中純男(2000)「古代インドの墓地」『死後の世界--インド・中国・日本の冥界信仰』,p.3)
プレータは墓場にいる醜悪な化け物的な存在、な位置づけになっているようです。
(ただし、上村勝彦訳(1978)『屍鬼二十五話』平凡社,p.4. を見ると元ネタとおぼしき箇所は
「醜悪な亡霊(ブータ)や屍鬼(ヴェーターラ)」となっていて、
「プレータ」は出てきていません。サンスクリット文を見ても以下:
asa.mkhyanaraka^nkaalakapaalaasthivi^sa^nka.tam /
h.r.syatsa.mnihitottaalabhuutavetaalave.s.titam // SoKs_12,8.43 (Vet_Intro) //
[GRETIL]
つまり "bhūta-vetāla" となっているみたいで(松本さん、ありがとうございます!)
田中2000の単純ミス? というか田中2000はここでの「ブータ(bhūta)」が
「プレータ(preta)」とほぼ同じものと考えていて、なので「ブータ」をもっと
わかりやすい単語で言い換えてるんですよね。
この田中2000の言い換えを信じて「ブータ」=「プレータ(餓鬼)」とした場合。
ブータ(プレータ)は「無数の人骨、骸骨や頭蓋骨がおぞましく散らばって」いる墓地にいる
「なにか」ですから、やはり死者の成れの果てといえそう?
Monier-Williams(1899) には"bhūta"の意味のなかにも
こんな感じのことが書かれてます
[ [参考] 【Memo】火葬場のへんてこたち (女子院生さん) ]:
the ghost of a deceased person
(Monier-Williams(1899), p.761; "bhūta")
[大雑把訳] 死者のたましい。
また松本さん [ブログ]からの情報(私信)によれば以下:
Kathāsaritsāgaraに関する本では、もうbhūtaは人間由来といった考え方の様でした。 (私信; 2016.6)
とのことですので、インド文学の流れでは「ブータ」=「プレータ」=人間由来の死者の魂、
そんな感じのようです。なるほどねー。松本さん、情報ありがとうございます。
[Table of Contents]現代ヒンドゥー教のpreta
死に
際しての肉体の儀礼的破壊は、生物学上の誕生に類似する創造的な行為なのである。この「誕生」は、
「不完全な創造」すなわち形のない幽霊(プレータpreta)を生み出すだけであるが、後続する儀礼行
為によって祖霊として変成され完成されなければならない。このように葬送儀礼は、元来不完全な「孵
化」を完成させるものであり、元来未完成の創造を補修し完成させるものということが出来よう。
(橋本泰元(2000)「ヒンドゥー教における葬儀と霊魂観(上)--最期の供儀--」『死後の世界--インド・中国・日本の冥界信仰』,p.41)
このようにあるのも見つけました。
これによれば、人が死ねば 形のない幽霊=プレータ(preta)になる。
しかし葬送儀礼をちゃんと行うことにより、人は「祖霊」となりプレータを脱する、と。
このへん、古典インド文学の流れにあった考え方が、たぶんそのまま伝わってると見てよさそうですね。
インドにおける「祖霊」、インド文化の奥底にまでしみているいるものみたいです。
正統的なヒンドゥー教徒の一般的な社会規範によれば、人は三種類の負債を負っていて、そのうち
の一つが祖霊に対する負債である。‥(略)‥
こうして新たに創出された祖霊が、今度は逆に、子孫たちに豊
穣と物質的繁栄を約束するとされている。 (橋本2000, p.40)
芥子菜の種子は幽霊と祖霊を引
き寄せるとされている。火葬の後、肉体を離脱した亡魂は帰路を探そうとするが、芥子菜の種子に気
を取られて帰りつけない、と言われている。
故人が祖霊に変成する死後第十二日目のsapiṇḍīkaraṇaの儀式までは、故人の霊は遺族にとって現実
的な危険となる。死別に耐えられない霊魂は、他者に従うように命ずる。 (橋本2000, p.65)
祖霊が子孫に物質的繁栄を約束とか、芥子菜の種子は祖霊を引き寄せるとかを見ると、
祖霊は この世界にいて、そして簡単に移動できる、しかし物質的ではない存在。
何というか、
古代中国における「魂」のイメージと近いようにも感じますが、
どうなんでしょう? (よくわからない)