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餓鬼について

[佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經]に 端を発して作成している「めも」です。


[前] 餓鬼地獄という場所

救済可能な餓鬼

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餓鬼と地獄のちがい(インド)

 (インド仏教における)地獄との違いについて、 奈良康明(1990)「死後の世界--アヴァダーナ文学を中心として」(坂本要編『地獄の世界』北辰堂) によれば以下のような点が上げられるようです(どちらも p.197)。

  • 餓鬼世界は地獄よりマシ。これは 「仏陀が一餓鬼に向かって物欲をはなれないと、(餓鬼として)死んで後に地獄に(narakeṣu) 生ずるであろうと呵していることから知られる」(出典はAvadānaśataka)
  • 「この餓鬼は、生きている人間の側からの働きかけで餓鬼世界から脱することが出来る。 これは五道の世界の中できわめて特徴的である。」
‥あれ? 奈良1990には「以上の諸例はいずれも、餓鬼という一つの世界に住む住民のことである。 さまざまな悪業、特に悋貪の故に布 施をせず、他人の布施をさえぎり、人の持ち物をねたんで悪口をいったりする人々は死後、この世界におちる」(p.197)‥とありますね。インドだと、餓鬼専用の世界が存在しているんでしょうか。

 いや、でも人間とは別世界にいる餓鬼どもに、人間がどうやって「働きかけ」を 行なうことができるのか? というのが ちょっとわからなくならないですか? それだと‥ (今後の課題、か?)

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生きている人間が、餓鬼の命運を握る

この後者については、本ページの主題である 「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経」よりも「佛説盂蘭盆經 [URL]」の ほうがわかりやすいと思います(中国産の偽経という説が強いですけど)。 「盂蘭盆経」では、餓鬼になった目連母は 盂蘭盆供養を した途端に餓鬼苦から脱出してますよね。

 そんな感じで、 仏や比丘などの出家の方に布施をするなどの 供養を行い、それによって生じた「福徳(功徳)」のパワーを 「廻向」することによって餓鬼を救うことが可能。‥‥こんな考え方が、 インドからすでにあったようですね。

 それに対し、たとえば「地獄」などはそうではありません。 くどいようですけど奈良1990によれば‥

地獄であれ何処であれ、他の世界ではそこの住民が見仏聞法し、あるいは三宝に浄信を発すれ ば、その福徳により死後にそこから離脱することが出来るし、この点では餓鬼でも同じである。 これは福徳(功徳)をつ んでよりよき来世に至ることであって別に問題はない。しかし、餓鬼に関してはその餓鬼の 肉親が仏陀や比丘たちに布 施をして福徳をつみ、それを餓鬼に回向すれば救われることが出来るものとされる。 (奈良1990, p.197)
このように、「廻向」による救出手段が用意されているのが 「餓鬼」の特権というか特徴というか、そういう点として挙げられるようです。

 では何故、五道(六道)のうち餓鬼だけ、 現世の人たちが何らかの影響力を行使できるという設定になったか。 これこそ「餓鬼」が本来持っている、 死者霊的性格の現れであると奈良1990は指摘しています(p.198)[*註]

 ただ岩本1979は、 佛説盂蘭盆經 [URL]について

この説話における「救済」は仏教的でないことが注意されねばならない。インド仏教において 「救済」ということを言えば、それは自力による解脱か他力による往生である。 しかも、後者には西アジアにおける一神教の宗教思想の影響が考えられる。目連の餓鬼救済説話に おける「救済」も、その一つの現われと考えられる (岩本1979,pp.192--193)
このように述べています。つまり 「廻向」という、遺族(生者)による救済というのは インド的仏教的ではないのではないか、 おそらくそれは西アジアの一神教的な救済思想がインドとか仏教とかに 浸透した結果ではないか? という疑いもあるようです。 ‥まあ、インド仏教には もともとなかったもの、 どこからか混入してしまったものであったとしても、 仏教がまだ他地域に浸透していく前の段階ですでに 廻向の思想が混入したとすれば、つまり その思想は仏教の歴史とともにある、とは言えますからね。 この文脈では西アジアからの影響云々はあまり考える必要はなさそうです。

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キリスト教にもある、死者供養(のようなもの)

ところで。亡くなった人の運命に 生きている人々が干渉するという点については、 中世キリスト教にも「煉獄(purgatory)」という類似のものがあったようです。

煉獄とは、『とりなしの祈り(suffrages)と呼ばれる生者の力添えによって、人がそこで 受ける試練も短縮されるような中間的来世をいう。‥(略)‥日本の民俗・民衆宗教で華々しく 開花した「死者供養」に近い対処法‥(略)‥生きている聖職による「とりなし」の祈りや 「憐れみのミサ」が、苦しむ死者の救済に有効であることが明示されている。みずからの 積徳を死者に振り向けてやるという、仏教風の「追善」観があからさまに主張されている わけではない。しかし、生者による「とりなし」といった行為が、いったんは地獄行きとなった 罪人を救う可能性があるという考え方には、仏教流の追善回向・死者供養ときわめて類似した ものがある(池上良正(2003)『死者の救済史』, pp.144-148)
天国か地獄かの両極端しか用意されていない審判はプレッシャーが強すぎ、もうちょっと アナログで行くわけにはいかない? 漱石だって‥
悪い人間と いう一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型(いかた)に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。 (夏目漱石『こころ』,[青空文庫],1914初出)
こんな風に書いてるしさー、という感じの人々の要求が 教義を変えたということなんでしょうか。

 池上2003は13世紀後半の‥

この時期、 個人の死が大きな問題となり、死後に苦しんでいるかもしれない死者の処遇が、 残された生者たちの強い気がかりとなったのである。世界宗教たるキリスト教も仏教も、 その教義的理想はともかくとして、この現実の需要に応える方策を開発することで、 民衆層へ深く食い込むことに成功したのであった(池上2003, p.155)
このように述べていますけど、やはり宗教的な考え方が人々のうちに 浸透していく過程においては単純に教義を杓子定規的に人々に押し付けるのではダメで、 人々の要望を教義の中に組み込んでいく柔軟性が必要ということですよね。まあ、 当然といえば当然ですけどね。仏罰とか終末とかを強調する宗教団体は 現代日本では「ごく少数の人々によるカルト集団」の域を出ないのが普通ですけど。 きっと昔からそうなんですよね‥。

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餓鬼が手にするもの

餓鬼供養に関するインドと中国日本の相違点として、 以下があるそうです(池上2003, p.198):

  • インドでは食物等の布施は出家者にのみ与えられ、餓鬼に送られるのはその善行で得られた 福徳のみ
  • 中国日本では餓鬼に布施が与えられている

 本経でも「数えきれないほどの餓鬼と仙人たちに飲食物をお供えすることで 餓鬼どもを苦から脱出させ天界に生まれ変わらせる」 「四方にいる餓鬼の大大大群衆‥(略)‥皆が満腹する。 そして鬼たちは皆鬼の身体を捨て、天界に生まれ変わる」とあることから、 「供養により餓鬼が天界へ」というコースが存在していることはわかりますが。 ちょっと不思議なこともあります。餓鬼に直接食わせてるよ! ということと、 三宝(仏法僧)への供養が餓鬼救済と結びつけられていない点です (そのかわり、(三宝以外の)仙人たちへの飲食物のお供えと、餓鬼生天が関連付けて 述べられているように読めます。えええ?!)。

 ‥現段階では「ええ?!」としか言えない(-_-)

 また、ここまでの文脈とどう折合いをつけるべきか、よくわかっていないのですけど。 『往生要集』によれば、こんな感じの餓鬼もいるみたいです:

或は鬼あり。悕望と名づく。世人の、亡き父母の為に祀を設くる時、得てこれを食ふ。 余は悉く食することあたはず。昔、人の、労して少しく物を得たるを、誑かし惑はして これを取り用ひし者、この報を受く。 (源信(石田端麿訳注)(1992)『往生要集(上)』岩波文庫. pp.50) [SAT]
ご先祖さまのためお供えしたものを、ご先祖様が食べる‥と解釈していいんですよね、これ。 ご先祖様にお供えしたものがあったら それを勝手に取って食う、じゃないですよね? ^^;

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