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10世紀の、貴族たちの来世ブームの頃から、人々の観音寺院参詣が盛んになってくる。 参詣の目的の多くは、病気・出世などの現世利益中心。
参詣者が多かったのが(当時からみても)「昔から霊験あり」とされた名刹古刹、 そして観音像に集中していたことから、参詣者の増加は来世ブームの高まりに影響されたとかでなく、 それまで国家権力に独占されていた仏教信仰が、家・個人のレベルでも行われる ようになったことの現れではないか。それゆえ、 現世に悩む人々がその悩みを解決するため霊験寺院にやって来るようになったのではないかと (つまり、経典に書かれている いわば「理念」としての観音様は来世信仰の対象で、 名刹霊場に鎮座しておられる「実体」としての観音像は現世利益の対象という感じ?)。
10世紀以降、観音寺院参詣が盛んになってきます。とくに「霊験あり」と有名な 名刹古刹、観音像への参詣が集中したことから、 「お悩み解消」的な役割を期待されるようになったんでしょうね。 ということは現世利益中心? と。
[Table of Contents]また11世紀後半になると、庶民参詣がかなり盛んに。これは勧進聖の活躍が大きい?。
しかしこの図式も12世紀頃になると逆転してくる。貴族の来世ブームが終わると、 天台教団などの密教化・現世利益化、形式主義化、俗化が進んでくる。これに異議を唱える 聖・沙弥たちが諸国名山霊場などを歴遊(巡礼)するようになり、結果、浄土教が地方に庶民に浸透。 人々は験力ある聖たちとの結縁による来世往生を求めるようになり、 聖の住処としての霊場へ参詣するようになる。 やがて、この「巡礼」が、観音様と関係が深いとされた33という数字とともに、 どの霊場を巡るかが固定化され「三十三所」として定着していく。 この固定化においては、天台宗の「寺門」(園城寺(三井寺)系)の影響が大きいらしい。
鎌倉時代に入る頃になると、名刹古刹の形式主義化・俗化が進んできたらしく、 あまり有り難みが感じられなくなったんでしょうね。名刹古刹を離れて 諸国歴遊する修行者たちが出てきた結果、浄土信仰が全国に広がったようです。 そして諸国に散った聖たちが有り難がられるようになり、新たな聖地霊場が諸国に生まれ、 参詣の対象となります。この結果、いわゆる「三十三所」的なものが 創設されることになります。
[Table of Contents]15世紀頃になると、それまでは聖・修験・山伏が行うものであった「三十三所巡礼」を、 一般人が(貴族、庶民ともに)行うようになった。巡礼者は東国人が多かったと考えられている。 現存する古い巡礼札で、出身地などが判明している札、速水1970,p.313で列挙されている 札29枚の過半数(とくに陸奥10枚、出羽9枚(内、天童が5枚!))が東国からの巡礼者の札。
このように東国からの巡礼者が多かったことが、現在の「西国三十三」の札所の順番に 大きな影響を与えたのではないか。また「西国」という名称(これは「坂東」や「秩父」との 区別のための命名であろう)や ご詠歌がついたのも 15世紀頃と考えられており、これらは全部「巡礼の民衆化」の流れで生じたと思われる。
15世紀以降の巡礼の目的については、純粋な信仰のみではない、物見遊山的な要素は 無視できない。これは江戸時代に最も盛り上がっていたのが西国でも坂東でもない、 秩父三十四であったことから伺える。秩父三十四は西国・坂東と比較すると (狭いエリアに札所が密集しているので)巡礼が容易であり、また道中は風光明媚な箇所が 多く、行楽にはピッタリという事情がある。
15世紀、戦国時代の頃から「聖地巡礼」「三十三所巡礼」が大衆化してきます。 じつは巡礼者は東国人・東北人が多かったとの見方もあり(反対に、近畿地方の人が多かったとの 説もあります。後述)、物見遊山(今風に言うと「行楽」とか「レジャー」)としての役割も持ちながら、 いつしか「ご詠歌」まで伴うようになり、現在に至っています‥ とさ。
死の国・熊野 [ 豊島修 ] |
ここで「巡礼者は東国人が多かった」と書きましたが、それを否定する人もいます。曰:
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