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東北の地獄絵 死と再生 (三弥井民俗選書) [ 錦仁 ] |
「地獄変」「地獄変相」とは、要するに地獄絵のことです。昔はそう呼んでたんですよね、たしか。
[Table of Contents]本経と関係してくるのか、こないのか、よくわからないですけど とりあえず書いておきます。
本経と関係あるのかないのかよくわからない地獄極楽図、たとえば天徳寺(秋田市)や 源正寺(秋田市)が所蔵している『往生曼陀羅』(天徳寺は盆、源正寺は春彼岸に公開?)は 「仏説観薬王薬上二菩薩経」(T1161)という経典をベースにして描かれているようです(錦2003,p.50)。 どうもこの経典は真言宗で用いられているものらしく、この経典を用いることにより 地獄極楽図「全体として上部は、薬王と薬上の兄弟が人々への善行によって往生を遂げ、 やがて浄蔵・浄眼如来となるというストーリーをものがたっている。また、人々はそういう 薬王と薬上を尊敬し念じることによって地獄に落ちないし、堕地獄の亡者たちも救われる、と 説くための絵画になっている」(錦2003,p.97)という感じらしいのですが。 薬王薬上経て、そんなに人気あったってことなんでしょうか。 薬王菩薩は、法華経でかなり目立ってます( 参考: [URL] )から、まあ、それ絡みで人気があっても不思議ではないですけどね。
ところで 「仏説観薬王薬上二菩薩経」(T1161) をちょっと見てみたのですけど。関連する箇所は以下ですかね:
太宰治が幼少期に見たことで有名なのが曹洞宗雲祥寺の「地獄極楽の御絵掛地」。 この手の地獄極楽図のパターンとして、絵の上のほうに諸王とその本地仏。 たとえば二番目であれば初江王と釈迦仏。この二尊が描かれ、ずっと下のほうには 地獄で苦しむ人の有様が描かれる、と。そして太宰は幼少期で背が低かったため結果的に、 天井付近に吊られた この絵を下から見上げていた、つまり 地獄絵のいちばん下にある凄惨な地獄絵がいちばんよく見えたという感じみたいです。 たぶんそんな事情もあって 地獄絵の印象がかなり強烈に残ったみたいですけど。‥とまあ、それはいいとして。
図説地獄絵をよむ (ふくろうの本) [ 澁澤龍彦 ] |
雲祥寺など、日本にありがちな地獄絵の構成についてのメモです。 この地獄絵、7枚組なんですけど。それでどうやって十王を 描くかと言えば。7枚目の上に、7:薬師仏と、8:観音・9:勢至・10:阿弥陀仏の三尊来迎図ぽいのを 並べて描いているようです。阿弥陀三尊形式となると確かに9は勢至菩薩がいいのは確かですけど、 地蔵十王経では9:阿閦如来‥ [URL]。 んー。 Wikipedia でも 9:勢至菩薩 とあります [Wikipedia]から、9:都市王の本地仏については 諸説あり、という感じになってしまったんでしょうか。 (今回用いた底本の誤り、という訳ではないみたいです。宮1999, p.112 にも確かに「都市王=阿閦」と 書いてありますし‥。) (Wikipediaには(十王について)「『往生要集』に、その詳細が記されている」とありますけど、 それがどこなのか、ちょっと現状では不明ですので、Wikipediaのネタ元は不明です)
‥と、それはそうと。この最後の絵に阿弥陀三尊来迎図があるということは‥
しかし、日本における十王信仰の源流とされる「地蔵十王経」を見るかぎり、三年経過の段階でも 「とにかく追善してくれー。じゃないと地獄堕ちだー」的なことだけ書かれていて、 亡者に関する記述は とくに何の救いも提示されないままブツリと終わってますよね。 つまり地獄絵図では、元ネタの「地蔵十王経」のストーリーの最後を改変して、 その最後に阿弥陀三尊を入れることによって、改心さえすればきっと 阿弥陀様に遭遇できる、俺らは救われるんだ! という感じにストーリーを変えている ということですよね。そういう点からすると、 9:都市王の本地仏が阿閦如来から勢至菩薩に変更されたのは「それだと最後は三尊形式で まとめることができて収まりがいいから」という簡単な理由ではなく、 そこに阿弥陀三尊による亡者救済という強いメッセージを入れたかったから。 ‥という解釈も可能ですよね。やっぱり救済がないと、辛すぎますから‥
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