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西院河原地蔵和讃について

「西院河原地蔵和讃」 [URL]
(賽河原、賽の河原、佐比の河原‥とも)
に関するメモ。まだ整理できてないですが‥


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蒲松齢『聊斎志異』(17世紀. 清初)

ここでは、ちょっと新しめの 蒲松齢『聊斎志異』(17世紀. 清初) を見てみます。  和訳で済ませます(^_^)

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(2-17) 耿十八

さて、耿は自分が死んだことを知らなかった。外に出ると、小さな車が十五、六輛 ならんでいて、それぞれ十人ずつ乗りこんでおり、楷書で名が書きだされて貼られていた。 ‥(略)‥ 車はぎいぎいとやかましい音をたてて進んだ。どこへ向かっているのかわからなかったが、 そのうち車が停まり、誰かが、「ここが思郷(郷里を偲ぶ)の地だ」と言うのが聞こえた。 ‥(略)‥ またしばらくすると、高さ五、六仭(一仭は七尺、二メートルあまり)の台があって、 人がたくさん集まり、頭に袋をかぶせられた手枷足枷の男たちが、泣き泣き登り下りしていた。 「望郷台だ」と誰かがいう声がして、人びとはみな、轅を踏んで下におり、いっせいに 登りはじめた。 ‥(略)‥ 数十段も登って頂上につき、首をさしのべて眺めやると、わが家が目の当りに見えたが、 家のなかは霧がかかったように霞んでいた。(2-17耿十八) (立間祥介 編訳(2010)『蒲松齢作 聊斎志異』(ワイド版岩波文庫), pp.上 206--207.)
この後、耿は望郷台からとび降りて、さらに車に書かれていた自分の名前を消して、 一目散に走って逃げたところ、無事に生き返った‥‥こんな感じで物語は進むのですが、 やはり日本と同じで、死後の世界は 現世と同じ平面上にありそうな感じです。 首吊り自殺を図った人が 「恍惚のうちに魂が身体を離れるのを覚え、ひとり宛もなく歩いていた」(8-21嫦娥) (立間祥介編訳2010,p.下239)、とか 「席方平は家を出たが、冥府への道が分らなかった。道を行く人に尋ねながら、冥府の 県城に着いた」(10-12席方平)(立間祥介編訳2010,p.下289)、といった 描写もあります。これらも平面的ですね。

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(11-8) 晩霞

 別の箇所には、ちょっと違うパターンのものもあります。水に溺れたパターンなんですけど‥

 阿端は自分が死んだとは知らなかった。二人の人に導かれるままに歩いて行くと、水中に 別天地が開けた。振り返ると、回りには水が渦巻き、壁のようにそそり立っていた。(11-8晩霞) (立間祥介 編訳(2010)『蒲松齢作 聊斎志異』(ワイド版岩波文庫), p.下401.)
ただこの例は、上の例と一緒にしないほうがいいかもしれません。阿端が着いたのは竜宮であり、 しかも阿端はその後、竜宮で身投げして現世に戻ってくるのですから! (ただし阿端は生き返ったのではなく、幽鬼となって戻ってきたのです。墓に別途、骨があるので‥。) ‥でも「水死は皆、竜宮行き」なのか「阿端の軽業がスゴくて竜宮様に気に入られたから 特別に竜宮行き」になったのかというのは、よくわかりません。んー。 でもまあ「歩いて行くと」竜宮に着いたようですから、こちらも平面的なイメージですよね。

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(4-15) 鄷都御史

 さらに同じ『聊斎志異』には、閻羅大王の法廷との噂のある 鄷都県城外の洞窟を探検した男が 冥府にたどり着いたのち、いろいろあって そこを出るとき‥

五、六歩も行くと、あたりいちめん墨を流したように真っ暗になった。 ‥(略)‥ 「経文を誦えて行けば出られよう」と言って行ってしまった。  経文と言われても、ほとんど忘れてしまって、かろうじて金剛経を覚えていたので、 合掌して誦えると、たちまち一筋の光明が行く手を照らし出した。しかし、先を詰まると 目の前が真っ暗になり、しばらく考えてまた続けると明るくなるという具合で、 ようやく出ることができたのであった。(4-15鄷都御史) (立間祥介 編訳(2010)『蒲松齢作 聊斎志異』(ワイド版岩波文庫), pp.上 442.)
「洞穴」という小道具があって その先に冥府があって‥という設定は、日本の 御伽草子の「富士の人穴草子」 [URL] の話とかとも共通しますね。道のりは真っ暗、ただし お経を うまく唱えられてる時だけ ちょっと明るくなる、という話は他にちょっと見たことないですけど、まあ、 一般の人がイメージする「読経の功徳」の枠内的な? 感じではありそうですね。

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