文献の成立について
[Table of Contents]中国産の、産地偽装
冒頭に「西晋月氏三藏竺法護譯」と「訳」とありますので、文献はインドで作成され、
中国には翻訳文献として伝わった‥ようにも見えますが、じつはそうではなく、
中国原産のものをインド原産と偽った産地偽装、いわゆる「偽経」の疑いがきわめて
濃厚、というかほとんどクロであると考えられています[*1]。
また、それゆえ「7月15日は「僧自恣」の日で、その日に供養を‥」と書かれてはいますが、
それはいわゆる「当て馬」というやつで、本当のところは中国の「中元」の日に供養を‥
と書きたかったけれど それだとこのテキストが中国産なのがバレバレなので「僧自恣」と
いうことにしておいたのでは、ということは あちこちで言われています。しかも
日本では「祖霊崇拝」「餓鬼供養」をキーにして それと「施餓鬼会」[佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經]とが
合体してしまい、さらに混迷(?)を深めています。
ちなみに。「祖先供養」的要素の強さ、というのが本経が中国産であるとされる
主な要因とされています。これはどういうことかというと。まずインドでは輪廻思想というのが
主流のため、遠い先祖を供養するという考えが起こりにくいこと。また
インドの僧侶は家族や親族を「捨てた」者であり、僧侶が自分の家族
や親戚のために修行したり、祖先崇拝のための儀式に専念するということは考えにくいことで
あった。(立川武蔵(2015)『弥勒の来た道』(NHKブックス1229), p.192)
‥という理由もあるようです。そんなに先祖を大切に思うなら、そもそも出家したらいかんだろ。
ということですね。
他方、中国は仏教伝来前からの強力な先祖崇拝信仰があり、これが仏教にも強い影響を与えていたようです。
中国仏教の特色の一つは、インドには見られぬ、儒教的家父長的家族関係の容認にあり、そ
の結果、仏教は、支那人一般の祖先崇拝の信仰に順応し、北魏時代の無量寿像碑文には、「七
世父母所生父母」の冥福を祈る場合が多数含まれているというが、かような特色は、同時代の
観音信仰にも、明らかに認め得るところである。 (速水侑(1970)『観音信仰』塙選書72, p.16)
仏教が中国に伝来して間もない北魏時代の碑文ですでに七世父母所生父母、
つまり父母のみならずご先祖までの冥福を祈る記述があるみたいです。つまり
仏教は「新しい思想」ではなく、昔からある先祖供養のための新しい有力な手段として
受容され広がっていった面もある、という感じなんですかね。
[Table of Contents]徐々にできあがった経典
この文献の成立について。
「盆」の解釈が、経の前半と後半で異なっている点に岩本1979は注目します。
後半では「盆」は完全に盆器として書かれているが、前半はそうではない、というのです。
これを手がかりに調査した結果‥
-
前半部分は西暦510年頃より前で、しかも510年とはそんなに近いわけではない時期に中国で作成され
(これらに関するp.19あたりの岩本の推測についての批評(金倉1971)がp.349に)、
-
後半部分は6世紀中頃に追加されて原形になったのでは? と(p.17)
つまり。「盂蘭盆経」は ある日ある時に誰かある特定の一人の人が何かの意図をもって「ニセモノ」を
作った‥というのではなく。
物語が人から人に渡っていく途中で、最初は口述だったものが やがて記録され、
さらに記録が補足され‥といった感じで、
それなりに長い時間をかけて、ちょっとずつ改訂されながら、現在の姿になった。
‥そんな感じに作成されたんだろうことが予想されます。
(もちろん、そんな感じで作成されたのは「盂蘭盆経」だけではなく、
現存する仏教経典はほぼ全部 多かれ少なかれ そんな感じで作成され熟成された文献のはずです。)
[Table of Contents]水との関連?
また澤田1991は本経の成立について「この経は実は東晋時代の末期(400年前後)に出現したものと
推定されている」(澤田瑞穂(1991)『修訂 地獄変 --中国の冥界説』平河出版社., p.127)と
述べています。
東晋などとの関連については、お盆などの行事においては「精霊流し」など、川など水辺と関連した
行事との関連が無視できない、と澤田1991は考えているようです。たしかに
「お盆」のネタ元とされている
『佛説盂蘭盆經』や
『佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經』を見ても、
川なんて全然出てきてないのに、ちょっと不思議な感じはしますよね。この点について澤田1991曰:
江南地方は水の多いところだから、水による
横死者が多い。施餓鬼法や水陸会は、その水死者を度脱し、かねて代替を討める水鬼を宥め、あるい
はすべて水辺より発する疫病などの災厄を除こうとするものである。ことに水陸会は梁の宝誌禅師によ
って制定せられたとし、京口金山寺を発祥地のように伝えるのは、梁の武帝時代に仏教が栄えたから
というだけでなく、江南文化の中心地だったからである。この伝統が盂蘭盆会にも滲透し、水の少な
い北方でも、やはり供養の場所を水辺に選ぶことになったのである。
(澤田瑞穂(1991)『修訂 地獄変 --中国の冥界説』平河出版社., p.127.)
つまり、中国で施餓鬼会、盂蘭盆会などの仏教系行事が
広く行なわれるようになったのは梁(南朝)の武帝時代(6世紀前半)からであり、
その梁は江南文化の中心地であり、つまり水に関する事故、災厄、そしてその供養に関する需要が
非常に多かった、と。それゆえ中国で行なわれる仏教行事の中に
水、そして河川に関係したものが いろいろと入り込むことになった、と。
そしてたぶん、日本における仏教的・民俗的行事(とくに先祖供養関連)の中に
川に関するものが含まれている場合、
ひょっとしてこの影響もあるのかなー、と。そういうことを妄想したくなりますよね。
ただ、「『この世』と『あの世(異世界)』をつなぐ川」というモチーフって、意外と
あちこちに 共通要素がありそうなものでもあるんですよね。んー、あまり簡単にはいかないか。