[前] 文献の成立について |
『盂蘭盆経』と類似するエピソード、断片的にはインド仏教文献の中にも見いだすことが できるようです。個人的にはちょっと追えてないので紹介だけしておきますけど。 目連救母についてはディヴヤ・アヴァダーナ(Div)のプールヴァ・アヴァダーナが (岩本1979, pp.172--174)、 目連の餓鬼救済についてはアヴァダーナシャタカ Nos.41--45 が(岩本1979, pp.175--179)が、 それぞれ対応しているようです。
またこのDivの目連救母のエピソードのネタ元として、岩本1979は「紀元1,2世紀頃以後に ディオニューソス伝説が仏教の中に採り入れられ、神通第一といわれた目連に仮託されたことも、 当然想像されるところである」(p.194)と述べています。
[Table of Contents]スリランカ、タイなどに伝わるパーリ語の仏教経典の中に "Petavatthu" (餓鬼事) という文書があるんですけど。その14番目「舎利弗の母」というエピソードが 盂蘭盆経と内容が関係していて、その原型ではないかとの説もあるみたいです。
話の内容としては、こんな感じです。---
‥んー。どうでしょう。
私が知らない、他の証拠などもあるのかもしれませんけど。餓鬼供養の対象が
たまたま「母親」と呼ばれる人物だった、という程度の関係しか見当たらない感じにも
思えますので、個人的にはこれが「盂蘭盆経の原型だ」と言われてもちょっと眉唾‥
というのが正直なところです。
だって‥主役が目連じゃなくて舎利弗ですし。それに『盂蘭盆経』では 生母がおそろしく苦しんでいる状況を目撃してしまった目連の悲しみと苦悩というのが、 盂蘭盆経を見る私たちの心にも伝わってきてしまうのに対し。 こちらの舎利弗のほうは「過去生における母親」が自分で語ってるだけですからね。 なんか正直いまいちピンと来ないというか何というか。 あと盂蘭盆経では食べ物がすべて炭になって何も食べられなかったものが、 こちらでは吐瀉物とか血とか膿などではありますけど、一応、何か食べてますし (食べ物は燃えないんですね。そのかわり、他のものを食べようとして手に取った瞬間、 吐瀉物とか膿に変わってしまう設定になっているはずです)。 そのへんもちょっと別モノ感があります。 それと世界観的にも、盂蘭盆経は強固な「先祖供養」的世界感を持っている訳ですけど、 こちらは あくまで「過去生における母親」ですから「ご先祖」という血統の繋がりは あまり感じませんですし。
‥なんて思っていたんですけど。その藤本さんによる 藤本晃(2003)「『仏説盂蘭盆経』の源流 --- Petavatthu II.2 「舎利弗母餓鬼事」との比較考察 ---」 (パーリ仏教文化学17) という論文があって、そこにこう書いてあるのを見つけました:
[次] 註 |