[前] 註 |
「盂蘭盆」という語はサンスクリットの ullambana という語からの音写、というのが 一般的な解釈のようです。これは中国(唐初)の玄応『一切経音義』[SAT]に 書かれている解釈で、こんな感じに書いてます:
つまり「盂蘭盆」(うらぼん) とは、「烏藍婆拏」(うらんばな) が訛ったものだろう、という 解釈です。でも、じゃあ「うらんばな」って何? という話になると。それは 「倒懸」なんだそうです。何それ? という感じなのですが、これはつまり「頭を下にして ぶら下がっている」状態で、仏教以外のインドの書物にそういうのがある、と玄応は言ってます
これに基づき『荻原雲来文集』に「正しい梵語ならばavalambanaで、俗語形は ullambana」と 書かれたことが、現行の一般的な解釈の典拠になっているようです (岩本裕(1979)『仏教説話研究4地獄めぐりの文学』開明書院 (これは 岩本裕(1968)「目連伝説と盂蘭盆」京都法蔵館. の増広版のようです)., p.226)。
[Table of Contents]『うらぼん』とは、つまり『頭を下にして ぶら下がっている状態』だ‥‥ んー。正直、私にはちょっとピンと来ない説明ではあります。なのでとりあえず、 玄応が言うところの「仏教以外のインドの書物」にはどんな感じのことが 書かれているのか。それをちょっと見てみましょう。
いろいろ調べると、あの有名な『マハーバーラタ』(1巻13章)の中に、 「倒懸」と関連した記述があるようです。これをちょっと見てみましょう。 物語中に、ジャラトカールという名前の大苦行者の話が出てくるのですが、 そのジャラトカールが遊行している際の出来事です。ジャラトカールは‥
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そして彼らは、何ゆえに頭を下にしてぶら下がっているのか。これは玄応もすでに 「先亡有罪家復絶嗣亦無人饗祭則於鬼趣之中受倒懸之苦」と指摘していることでは ありますけど。祖霊たちは、子孫が絶えそうで 一族が滅亡の危機だから 「顔を下にしてぶら下がっている」、まるで罪人のように。‥と言っています。
[Table of Contents]しかし、この「盂蘭盆=うらんばな」説は、かなり根拠に乏しいみたいです。 その理由として、まず、実際のサンスクリット文中において この ullambana という語が使われているのを見た、という人が誰もいない点が 挙げられてます。 荻原がいう「正しい梵語ならばavalambanaで、俗語形は ullambana」のうち、 「正しい梵語」のほうについては使用例はあるはずで、未確認ですが上で紹介したマハーバーラタでも avalambana が使われているんだろうと思います。 しかし、それに対して「俗語形」として紹介されている ullambana という語は見当たらないぞ、 本当にそんな俗語形が使われていたのか? という話になっているわけです。 岩本1979 は「筆者の知るかぎり、今日に知られる文献の いかなるものにも跡づけることはできない」(p.226)と書いていますが、 個人的には、岩本氏が「見たことない」と言うんであれば もう完全にアウトだろうと思います。
また『マハーバーラタ』の「倒懸」は、子孫が絶えるから、 だから先祖たちは罪人のような苦しみを味わっている‥という文脈でしたけど。 『盂蘭盆経』の記述のどこを見ても「子孫が絶えることによる苦しみ」なんて話とは 全然結びつきそうにないですよね。 その点からも「盂蘭盆=うらんばな説って、本当かよ?」という疑いが深まります。 (岩本1979, p.226)。
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