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[前] はじめに

石山平和観音 (勝平寺)


より大きな地図で かんのんさま を表示

勝平寺の南隣、墓地の敷地の裏側になるのかな? そのへんが公園化してる 感じなんですけど、そこに観音様がおられます。 観音様は「石山観音」と「石山平和観音」とに分けられるのですが、 古くからあるのが「石山観音」です。この石山観音様は、伝説によれば 文治年間(12世紀末?)に、付近の漁師が漁をしていたら観音様が網にかかったので ここに安置した、ということらしいです。一方の「石山平和観音」は 1952(昭和27)年に戦没者供養のため建立された三十三観音様を指すようです。 右の写真の観音様は「石山平和観音」のほうなんですけど、菩薩様の 右肩のあたりに小さなお札が貼られていることが確認できます。 戒名のみの、久保田スタイル[URL]でした。

 石山平和観音様の配置は、ちょっと不思議なところがあります。観音様の大半は、 墓地の片隅(?)にある特大の観音像の横のあたりにまとめて配置されているのですが、 一部の観音様、十体ほどでしょうか、こちらは公園化された場所に ちょっと距離をおいて配置されています。一部がまとめて置かれ、 一部はバラバラに置かれている‥‥何故?

 これ、おそらく、三十三観音様が配置された後で、何か大規模な土木工事のため 一部観音様を動かしたんじゃないかと思います。 (金照寺山の23番〜32番の観音様[URL]や、 韮神山の観音様[URL]のパターンですね) あのへんの大工事ですぐ思いつくのは雄物川の大改修です。もとは山だった場所が、 その南半分(?)が今や平地、どころか川底になってしまうほどの大土木工事だったわけ ですけど。調べてみると大工事は1938(昭和13)年のことらしく、そうすると 石山平和観音様建立の1952年には山の南側はすでに今と同じように川だったことに なりますので 雄物川大工事はシロですね。 となると、山のすぐ西側を通っている国道7号秋田南バイパスか。 山のすぐ西側を通ってるはずなのにあの高低差‥‥けっこう山が削られてるんだろうな と推測できますので、それ絡みの移転かなと思います(裏付けなし)。 石山平和観音様のあたり 景色は抜群によいんですけど、思えば、元は なだらかな山の 南側が削られ、西側も削られて残った山の南西端に石山平和観音様がある訳ですから、 そりゃ景色いいのは当然、ですよね。

(写真をクリック)
 上述のとおり。 ここの特徴として、景色が非常によいことが挙げられます。 とくに夕方近くなると、現雄物川の河口から日本海までが一望でき、海岸の近くには 風力発電機が何基もあって、それらが景色にアクセントを与えています。

 とくに日没近い時間帯の景色は、かなり強い印象が残りますね。 なんて夕陽がキレイなんだ‥[*1]。 日没時刻が近づくと どこからともなく人が集まってきてましたから、 付近の人たちには知られたスポットなんでしょう。 このとき撮った写真、残念ながらカメラの設定を間違えて全部ピンボケになって しまいましたが、それでも雰囲気だけは伝わるかなとも思い、ピンボケですけど 紹介させてもらおうと思います。

(写真をクリック)

*註1
宗教学者で有名な山折哲雄さんが、夕陽について以下のような体験談を語っているのを 見つけましたので紹介させてください。 山折さんは お父さんの四十九日法要が終わったとき佐渡に旅行に行き、そこで見た 「落日の光景というのがすごかった。美しいというには、あまりにもすごい落日でした。 そのときに親父の魂が夕陽と一緒になって浄土に飛んでいったと思った、そういう実感が こみ上げてきた。‥(略)‥しかし本当のところをいうと、親父が死んだとき、浄土なんていうのを 僕は信じていなかった。その実在を信じてなどいなかったわけ。けれども心のDNAはそれを信じようと していた。心のDNAが流れつづけていていうことをきいてくれなかったということです。日本人の 浄土信仰というか落日信仰というのはただものではないと思ったね。そのときに初めて、 親父が往生した、という実感がわいた。‥(略)‥これはやはりすごいことだと思わないわけには いかない。信仰はなくとも、実在は信じなくても、そのイメージがこみ上げてくる。それが人間と いうものじゃないかな。生命というものではないのかな。」(山折哲雄、島田裕巳(2008) 『日本人の「死」はどこにいったのか』,朝日新書, pp.42--43) ‥‥その佐渡の夕陽ほどではないかもしれませんが、やっぱ海に沈む夕陽というのは いつ見ても特別な感情を喚起するものだなと思います。まあ毎日のように見てる人だと あまりに日常化しすぎちゃってアレかもしれませんが、それは勿体ない‥
あと佐藤米司(1980)「迎講と民俗」『講座日本の民俗宗教(2)仏教民俗学』によれば、 迎講・来迎会は夕方に行われることが多いんだそうです。これはやっぱ、夕日の影に 仏の来迎を期待するからでは? と推測されています(p.153)が、これは 上の山折先生の体験談とつながるものですよね。
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