[前] 真人三十三観音 (横手増田) |
(準備中)
1705(宝永2)年開設らしいです。
蔵光院が 「宝永二(一七〇五)年、湯沢佐竹南家五代目義著侯の妻宝泉院が、 三十三観音(木造三十三体)を 観音堂に寄進し、以来「仙北三十三観音三十三番札所」 となり」(秋田魁新報社編 『秋田三十三観音霊場めぐり』1998(H10), p.25)、 また 「宝永二年(一七〇五)に佐竹悲母院が三十三観音の一体を寄進し、 仙北三十三番の札所となる」 (雄物川町郷土史編纂会編(1980)『雄物川町郷土史』,p.928)‥と、 書かれています。
この「仙北三十三」について、おそらく最も詳しい資料は以下:
島田亮三(1994)「仙北三十三観音巡拝記について」 『雄物川町教育委員会編:雄物川町郷土史資料(23)』これだと思われます。島田さんの遺稿が出版されたもの、という理解でよいんですよね。 [Table of Contents]
地図を、右に示します。かなり大雑把に「だいたい、このへんじゃねえの?」という レベルで付けてるものが多いです(Google Mapで情報が拾えない場所は、 やはりちょっと厳しいです‥)。
番号が飛んでるものもありますが、それは「だいたいこのへん」程度のものも よくわからないものです。とくに26番は、まったくのノーヒントですので、 現状では完全にお手上げ状態です。
[Table of Contents]とりあえず、島田1994で紹介されている札所の一覧を以下に示します:
- 01. 飯沢村 正善院 那智山宗洞寺 [熊野神社(観音社)]
- 補陀落や峯を伝ひて来て見れば 心の洗ふ那智の山道
- 02. 中仙道村 杜守与助 福聚山広大寺
- 古里の人に替りて情あり 中仙道の村の宮寺
- 03. 上到米村 良学院 功徳山慈眼寺
- 父母の恵みによりておもひたつ いくとしみれば身はかなひ沢
- 04. 高寺村 常楽院 七高山清巌寺 [七高山神社] [七高山神社]
- 源山路を廻りて汗の流るるは 常の泉のことくなりけり
- 05. 大沢村 喜楽院 川宝山勧水寺
- 参るより旅のつかれを喜楽院 いかなるゑんを結びそめしか
- 06. 新山村 地源院 和田山長命寺 [神明社の東らしい]
- 岩を打つ和田の山路ひらくとも 峯を続いて参る巡礼
- 07. 上溝村 宝正院 松高山宝正院 [上溝中野の観音神社]
- 今朝見れば峯を続きて白雲の 松の高根に紫のいろ
- 08. 袴形村 吉祥坊 大悲山無量寺 [袴形神社]
- 幾度も参る心を憘びて 大悲の御手に任せぬるかな
- 09. 猿田村 千手院 鉢位山持国寺 [猿田彦神社]
- 春の日は世の善悪を照らせども 見ざる言はざる聞かざるはよし
- 10. 小友村 福王寺 高寺山福王寺 [高寺山神社]
- 夜もすがら高寺山の月見れば 心の雲の跡かたもなし
- 11. 峯村 高禅寺 高寺山千手院 [秋田33-17]
- 逆縁にあふてよごれし我が姿 峯吉川に今ぞきよむる
- 12. 小杉山村 円満寺 [秋田33-16]
- 水上みの小杉山の水たえて 人の心もうるおえぞかな
- 13. 角館 弥勒院 明王山曼荼羅寺
- 後の世の弥勒菩薩の誓ひにも 只たのもしや極楽の道
- 14. 院内村 金剛院 ○○山蓮華寺 [大藏神社]
- いつ出る大蔵山に指しかかり 終に見染めし蓮華の寺
- 15. 小沼村 源東寺 小沼山蓮住院
- 昔より思ひたづぬる願ひより 蓮に住む身と今ぞなりぬる
- 16. 米沢村 蓮寿院 米沢山普門寺 [水神社] [関連URL]
- 松風乃音に えし普門寺の 鐘に眠りをさます我人
- 17. 横手 千手院 清水山無量寿院 [秋田33-04]
- 重くとも胸の木札の功徳は 祈りに濁りなきことそきく
- 18. 大倉村 正学坊 倉応山大水寺
- 我が思ふ願ひも今はみてにけり 正覚坊と聞くぞ頼母し
- 19. 三ツ梨村 観音寺 仏喜山観音寺
- 花を見てかの極楽ぞ思はるる 八千九法の舟に乗らばや
- 20. 杉沢村 広福寺 杉沢村普門寺
- 野をも過ぎ沢をも過きて来て見れは 千手の御手にもるることなし
- 21. 関口村 正喜院 金峰山観音寺
- かかる世に生れおふせの嬉しさに まさしき善の納む身とかや
- 22. 下院内村 千福寺 西宝山千福寺
- ふみわけて流る月の影見れば 西の宝の山にこそいれ
- 23. 山田村 不動院 土沢山安楽寺 [土沢神社]
- おもくとも罪を仏に任かせつつ 身はあん楽の寺に来にけり
- 24. 深掘村 医王院(泉蔵院) 宝珠山長命寺
- 野をも過ぎ長き命のあることは 大悲の誓ひ今ぞ知らるる
- 25. 宇津村 玉泉院 宇津山田沢寺
- 哀れ身や同し流れの玉泉 結ぶ心ぞ清くなりぬる
- 26. ? (記述なし。島田1994では、25の次が27になっている。原稿の紛失?)
- 27. 糖塚村 円福寺 三輪山杉林寺
- 遥ばると登れば三輪の山おろし 五つの雲を吹き払ふなり
- 28. 杉宮村 吉祥院 三輪山杉林寺 [秋田33-06]
- 浪の音杉の宮吹く風までも 三法りと聞けば御法りなるもの
- 29. 鍋倉村 勧行院 荒和山久満寺 [手足観音]
- 昔より人の心は荒和山 歩み運へは寺の志ゅ志よう記
- 30. 浅舞村 清光院 圍中山大宮寺
- 月も日も清き光を照らすとも 幾重が雲の変り浅まし
- 31. 水里村 忠応院 水福山浄円寺
- 八千年やさながら夏と思はるる 水里草の露の身なれば
- 32. 柏木村 万蔵院 智力山普門寺 [胴元?]
- あらとうと仏の力なかりせは 誠のもえのいづぬ柏木
- 33. 沼館村 蔵光院 春永山寿福寺 [秋田33-05]
- 万世のねがひことほぐ福寺の 庭はすなわち浄土なりけり
島田1994のネタ元、そして御詠歌は 32:万蔵院 住職が宝永年間(1704〜1710)に 記したとされる「巡拝記」「万蔵院巡拝記」です。この「巡拝記」、著者の島田氏は 「先輩が貸してくれたのでそれを写しとり」(p.10)と書いていますので、 たぶん、一般的なルートでは入手できないように思います。
(この島田1994さえも、私は「図書館の館内閲覧のみ可、しかも期限は1週間」という 条件つきで閲覧するのが精一杯でしたので、札所情報をざっとチェックする程度のことしか できなかったのが残念です。しかし、 かなりいろいろ調べてるなー、ということは感じました。)
[Table of Contents](準備中)
[Table of Contents]伝説としては 1705(宝永2)年創設、となっています。
1700〜1710年頃となると、 久保田 御城下(秋田市)の「くぼたふだらく」や、 佐竹領全体をエリアとした「秋田六郡三十三」について 記載された「巡礼記」の年代とほぼ同時期という感じになります。 ‥‥可能性は、大アリですね。でも、まあ、実際にはもうすこし遅くて、1730年代とか、 そんな感じじゃないかとは妄想しますけど(根拠なし)。
[Table of Contents]札所の配置を見ますと「仙北三十三」といいながら札所は仙北郡に限定されておらず、 仙北・平鹿・雄勝の三つの郡、いわゆる「仙北三郡」(仙北地方)に広がってます。 なのでたぶん正確には「仙北三郡三十三番札所」といった感じでしょうか。 でも1772(明和9)年の『謡曲拾葉抄』に「仙北の湯沢と院内の間」という記述が あるらしい(錦仁(2004)『小町伝説の誕生』角川書店. p.17)ですから、 仙北には狭義の仙北、つまり仙北郡そのものと、 広義の仙北、つまり仙北三郡の2つの意味があって、今回の場合は広義の「仙北」の 意味で「仙北三十三」と名付けている、という理解でいいんでしょうね。
[Table of Contents]札所を見てみると、 雄物川流域に札所が多いですよね。これ、(私は見たことないですが) 『金沢安倍軍記』『御領分神社仏閣縁起』(1678公開. 成立年代については「天正・文禄年間」(1573)(阿部1989)か、 「延宝5年」(1677)(志立2009)(いずれも志立正知(2009) 『<歴史>を創った秋田藩 モノガタリが生まれるメカニズム』笠間書院.pp.87--90. より)) と何か関係あるんでしょうかね。
いや、元資料となっている「巡拝記」の作者が 32:萬藏院 の住職であること、そして 萬藏院 が雄物川沿いにあったことが影響してるんでしょうか。 萬藏院さんが交流のあった寺社をベースにしている、とか‥。
わからないといえば、仙北三郡のうちで歴史的には中心地であった時期が長いはずの 金沢近辺、また江戸時代にかなり栄えた六郷地区あたりの 寺社がまったく入ってないことが不思議です。 横手も 17:千手院しか入ってないんですよね。何なんでしょうかね。 「秋田六郡」の寺社は 基本、避けたんでしょうか。 でも「秋田六郡」との重複が5カ所もありますから、 それは意図的に避けたとしては多すぎる気もしますよね。んー。
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