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「宮城(郡)三十三」といいながら、 最初の4札所が名取郡・柴田郡になっています。 このことについて、吉岡1992は「未知のところへの憧憬」と推測してます。 江戸時代における「観音札所めぐり」というのは単に宗教的動機のみで行われるのではなく、 現代における「巡礼」と同じように 物見遊山的な要素もあったとされていますが(「西国三十三」については、 速水侑(1996)『観音・地蔵・不動』講談社.p.193など。宮城三十三のような 「写し」も同様と思われます。 [ かんのんさま概説 ] もどうぞ。)、 その「物見遊山」的な需要をかなえるため、 いくつかの札所を宮城郡からちょっと離れた場所にわざわざ設けた、ということですね。
個人的には、愛子のほうも宮城郡のはずだから、遠くに行きたいんだったら そっちでも いいじゃん‥と思わないこともないですが。愛子のほうは逆にちょっと交通の便が 悪すぎるとか、そういう事情でもあったんでしょうかね。
[Table of Contents]札所の所在については、今どうなってるのか皆目見当もつかない札所がけっこう 多いのですが。ちょっと調べてみると、実のところ 江戸時代どこにあったのかさえよくわからない札所も多いです。 そこで gameticketさんの「時の散歩・仙台寺社巡り」[URL]というサイトなどに、いくつかの札所についての情報があります。 それらも参考にしながら 「こんな感じかなー」というレベルのものも含めて備忘録的にピックアップしてみます。
また、これら地域の江戸時代(1770年頃)の様子を知るための資料として 「封内風土記」「風土記御用書出」(通称『安永風土記』)などがあります。
このうち「封内風土記」については、 国立国会図書館・近代デジタルライブラリーで公開されています。 ただこの本、どの場所にどの邑についての情報が書かれているかがわかりにくい という問題があります。そこで宮城郡の各邑への「しおり」を作成してみました。 こちら ([しおり] 『封内風土記』宮城郡)をどうぞ。
[Table of Contents]なお国分尼寺は五番札所というだけでなく納めの札所でもあったらしく、 五番札所のご詠歌と異なる歌が用意されてます。
ここまではともにつれそう旅衣 / ぬぎておさむる宮城野の原 (吉岡1992, pp.82-83.)でも結願の札所が(ぎりぎり)仙台御城下にあるということは、つまり おもな巡礼者として仙台御城下の人たちが想定されていた、って ことですよねやっぱ。
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