[Top]

人は冥途に行かない説 [平田篤胤]

平田篤胤翁における死後世界観を紹介


[前] はじめに

黄泉? 守護神?

[Table of Contents]

人は死後、どこにも行かない

まずは篤胤翁が師と呼び、熱烈に尊敬している本居宣長は死後についてどう言っているかといえば。

「神も人も、善きも悪しきも、死ぬれば、皆この黄 泉国へ往くことぞ」(p.150) //
「神も人も、善きも悪しきも、死ねばみなこの黄泉の国へ往くのだ」(tr.233a; 本居宣長『古事記傳』日本名著刊行会(1930), p.275)

人は死ねば皆「黄泉の国」に行く‥[*註]

 つまり、昔からある解釈ですよね。この師・宣長の死後イメージですけど、これを 篤胤翁は全否定しています。 では人は死後、どこに行ってしまうというのでしょうか。結論から書いてしまいましょう。 篤胤翁によれば‥

現に観るところの、事実によりて考 ふるに、魂は正しく、此国土に在りて、霊異を現はすなれば、(p.161) //
現にわれわれが見聞きする事実によって考えると、魂はまさしくこの国土にあって 霊異をあらわすのであり (tr.239a)
人が死ぬと魂はどこか別のところに行ってしまうのではない、この世界にとどまるのだ! そんなことを言ってます。さらに‥

[Table of Contents]

死者の霊魂は神となり、守護神となる

さてまた、現身の世の人も世に居るほどこそ如此て在れども、死にて幽冥に帰きては、 その霊魂やがて神にて、‥(略)‥ かの大国主神の、隠り坐しつつも、侍居たまふ 心ばへにて、顕世を幸ひ賜ふ理にひとしく、君親、妻子に幸ふことなり。そは黄泉へ往 かずは、何処に安在まりてしかると云ふに、社、また祠などを建て祭りたるは、其処に 鎮まり坐れども、然在ぬは、其墓の上に鎮まり居り、(pp.171--172) //
さて、この現世に生きる人々も世にあるうちはこのようであるが、 死んで幽冥に帰すると、その霊魂はすなわち神となり、‥(略)‥ かの大国主神が隠れましつつもお側に侍りおる心でこの現世を守りたまう のと同じく、君や親や妻子をその幽冥から守るのである。では、 黄泉に往かないならば、どこにとどまって、このように君親妻子を守るので あろうか。社や祠などを建てて祭られた神々はそこに鎮まりますわけであるが、 そうではないものは、その墓のほとりに鎮まりますのである。(tr.244b)
この世界にとどまるだけでなく、その霊魂は神となり、 現世に残された人たちを守護神のような形で守るのだ! ‥とまで言っています。

 でもこれ、テキトーに思いつきで言ってるだけだったら、 誰でも何とでも言い放題だから、それで何なんだよ? ‥と思いそうになるんですけど。 この人のすごいところはそのへんのところで、つまり 「単なる思いつき」のレベルでそういうことを言っている訳ではないところです。

 次ページ以降で、この言葉の背景などについて、ちょっと細かく紹介していこうと思います。 (つづく)




[次] 夜見(ヨミ)≠黄泉