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概説カーマスートラ

たぶん1995年頃に、ちょっと書きかけて止めてしまった「概説カーマスートラ」なる文書。 それを、ハードディスクを整理してたら発掘しました。せっかくなので中身にはほとんど手をつけず、 タグなどをちょっと調整した程度で公開してみます。 (なので「準備中」となっていても、今後の作業再開は、たぶん ないです‥)

別途「カーマスートラ」というページもありますので、 もっと詳しく見てみたい‥という方はそちらをどうぞ。


 

Introduction (in Japanese)

オーム。
聖ガネーシャに帰依いたします。

まだ準備中ですけど、とりあえず、 カーマ・スートラとそのインド古典文化中における位置付けに関する 記述の引用(抜粋)を以下にあげておきます。(「引用」もマズいのかな?)

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辻『文学史』(pp.8-9)にある記述

古典 Skt. の美文体詩も戯曲も伝統的思想・信仰に支えられ、深刻な社会問題を 扱った作品や、苛酷な運命を内容とする悲劇は生まれなかった。 これには古代インド人の抱いた人生観が常にその背後にあったことを 忘れてはならない。彼らはカーマ「愛」・アルタ「利」・ダルマ「法」を 人生の三大目的とし、結婚後の家庭生活・家長としての利財活動・敬虔適法の 生涯を理想とした。(後にはこれにモークシャ「宗教的解脱」を加えて 四大目的とした。)この各項は特別な学問分野として発達し、詩人はこれに精通して その蘊蓄を作品中に披瀝しなくてはならない。 各分野はそれぞれ多量の文献をもつが、今は代表的典籍の名を挙げるにとどめる。

ヴァーツヤーヤナのカーマ・スートラ「性愛綱要書」(4世紀?) は散文を主体とし、 性愛のほか、結婚儀礼、高級娼婦とこれをとり巻く風雅な生活を描き、当時の社会・ 文化を偲ばせる貴重な資料を含んでいる。

アルタは一切の実益・利得を意味するが、狭義においては政治に関して用いられ、 カウタリア(またはカウティリア)のアルタ・シャーストラ(およそ 150 A.D.?)に より代表される。15 巻・180 章に分かれ、主体をなす散文の中に詩節をさしはさむ。 政治・密偵政略・司法・外交の要訣を説き、Skt. 文献中ユニークな存在として 尊重される。

カウタリアのアルタ・シャーストラの流れを汲み、一般に知られるものに カーマンダキーヤ・ニーティサーラ(またはカーマンダカ)「カーマンダキの 政治精髄」(おそらく8世紀)がある。韻文で書かれ、文学的作品の形態をとり、 箴言詩の様相を呈する部分も少なくない。

最後にダルマの領域は、「マヌの法典」として知られる有名なマーナヴァ・ ダルマ・シャーストラ(またはマヌ・スムリティ)によって代表される。 12章からなる韻文の法典で(前2世紀ないし後2世紀)、各階級の権利・義務・生活法を 規定し、現今の民法・刑法に属する諸般の事項を含み、古来絶大な権威を 賦与されている。多くの注釈を有し、近代 Skt. 文献学の勃興と共にいち早く 熱心に研究された。

他の法典中、マヌ・スムリティに次ぐ重要な地位を占めるものに、 ヤージュニャヴァルキヤ・スムリティ(およそ4世紀)がある。 3章からなる韻文の法典でマヌより簡潔である。多数の注釈書を生んだが、 特にヴィジュニャーネーシュヴァラのミタークシャラーはそれ自体独立の 権威をもっている。

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泉(p.11,ll.7-10)にある記述

カーマスートラ(今これを『性愛の学』と命名したのであるが)は男女間の愛情、 性交に関するあらゆる問題を精細に取り扱つた古典である。太古の祭式を網羅せる ヤジュル・ヴェーダの行法を組織的に叙述して一定の教本とした、 かのスートラ文学、即ちグリヒヤ・スートラ、ダルマ・スートラの如きと列を 同じくすべき文書であつて、断じてかの劣情挑発を目的とする淫本などの類ではない。 紳士淑女の世に立たんとするに当り、必ず先ず修得せねばららぬ知識の一部分なので ある。
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簡単な、まとめ

以上、まとめると古代インドにおいては「ダルマ・アルタ・カーマ」が 人生の3大目標と考えられていて、そのひとつである「カーマ(性愛)」に 関する根本聖典を意図して作成されたのが、この「カーマ・スートラ」で ある、ということです。

 さらに、このカーマスートラの作者とされているヴァーツヤーヤナは、 いわば「出家」の人であり、彼自身は特に「性愛」に親しんでいたとは とうてい考えられないため、作成の動機としては

  • この方は「性愛」なる現象を(インド人らしい)真摯な態度で解明しよう とし、その結果として「性愛の本質」についての本を残すに至った。
  • 上の泉本でも述べられているとおり、カーマスートラは他のスートラ 文献と極めて類似した形式を持っている。また、上の辻『文学史』を見ても わかるが、このカーマスートラは他の同類の文献と比べると、成立年代 がかなり新しいと考えられている。ということは、他の文献の 形式を真似て「性愛」について語ってみた、一種のパロディとして 作成された可能性もあるのではないか。
などが考えられますな。この後者の解釈に関しては、 古代ローマの詩人オウィディウスによる 『恋の技法』という本の存在が意識されています。

 この『恋の技法』に関して沓掛良彦氏は以下のように解説しています。

「恋の技法」(ars amatoria)というそのタイトル自体が 「弁論術」(ars rhetorica)のもじりであることから推察できるように、 エレギーア詩形を用いたこの作品は、実はギリシアのヘシオドスに始まる 教訓詩のパロディとして書かれているのである。当時の読者はその筆法に、 たとえばウェルギリウスの『農耕詩』などの真面目な教訓詩のパロディを 読み取って、おかしさを感じずにはいられなかったであろう。 (『恋の技法』和訳.,p.188)
で、それからの類推で、カーマスートラも
  • 他の分野のシャーストラ文献と内容が類似している
  • 作者のヴァーツヤーヤナは、何といっても「出家」の人だから、 基本的に性愛に対する興味は薄かった(薄くしていなければならなかった) のではないかと考えられる
などの理由から、ひょっとして、他のシャーストラ文献のパロディとして 作成されたのではないか、なんて考えることもできる、と。

 しかし古代ローマのオウィディウスは色恋沙汰を得意としていた 詩人であったのに対して、我らがヴァーツヤーヤナ師は決して詩人 であった訳ではありませんので、そんな簡単に類推しちゃっていいの? という気がしてきます。さらに沓掛良彦氏は以下のようにも書いています。

扱う主題が「戯れの色恋」などという、本来ならば教訓詩の主題に なるはずのないものであるだけに、パロディとしての性格はいっそう あざやかに浮き出ることになる。(『恋の技法』和訳.,p.188)
うーむ。古代ローマでは色恋は「戯れ」なわけね。 ‥‥でも、これは重要な指摘ですよね。 だって古代インドの人にとって「かーま」は人生の3大目的のひとつ だった訳ですから、古代インド人と 古代ローマ人とのあいだの価値観の差は、すくなくとも、この方面に 関しては、かなり大きいと考えられるということです。

これらのことから「カーマスートラは他のスートラのパロディである」 という説はかなり疑わしい、ということだけ申し上げておきましょう。

※ 本概説では諸般の事情により、泉訳を底本にしています。

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