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飯山陽(2019)『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』

著 飯山陽
年 2019
表題 イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観
発行 河出新書013




自分用のメモということで、本書のどのへんに、 だいたいどんなことが 書かれてたかという切抜・覚書です (概要をまとめて よく見えるところに出しておかないと、 読んだ内容も、これを読んだことさえ 肝心なときに(あるのか? そんな時‥) 思い出さないことがありますので‥)。 ついでに簡単なコメントをつけてることも ありますが、 メモなのでコメントは非常に簡単なものに留めてます。 (コメントは随時追加していきます)
[Table of Contents]

1.イスラム2.0時代の到来

 いくら日本人の多くがイスラム過激派テロに無関心で、そんなものについて考える必要 などないと思い込んでいようと、ジハード主義者からすれば日本人はジハードの対象であ る「殺すべき敵」であり、日本は居心地のいい安全地帯であり、日本のパスポートは間違 いなく使い勝手がいいのです。このことはオザキの事例ですでに証明されています。(p.36)
イスラム教が勃興した七 世紀からインターネットが普及するまでの約一四〇〇年間にわたり、イスラム教徒たちが 搭載してきた「イスラム教についての知識」が、OSイスラム1.0です。インターネットが 一般に普及し検索エンジンやSNS、動画サイトなどが登場した二〇〇〇年代初頭から、 そのイスラム1.0が2.0へとアップデートしています。現在は、世界中のイスラム教徒の脳内 OSがイスラム2.0に更新されつつある移行期、というのが私の認識です。(p.42)

個人的にイスラム教については一般的な知識しかないですので、 どうしてもたまたま読んだ本の内容しか知識源がないのでアレですけど。 島田2016でも 「イスラム教=危険なテロ集団」的な思い込みはまったくの見当違い、 的なことが書かれていましたけど、それはたぶんここでいうところの「イスラム1.0」に 当たるんだと思います。近代のイスラム教徒たちがイスラムの枠を越えて 異文化と共存しようとした場合『コーラン』が持っている排他的な部分を 強調していては他との共存は無理ですから、現代において求められる 「共存共栄」のためには『コーラン』の趣旨を多少歪めてしまっても仕方がない、 と説法師たちが考えても仕方のないことでしょう。

イスラム法を知りそれに従うことが天国に行くための唯一の道であるにもかか わらず、「一般信徒は誰一人直接的にはイスラム法を知らない、それを知っているのはイ スラム法学者だけである」という時代が七世紀から二〇〇〇年代初頭まで続いてきました。 この時代、一般信徒はモスクで聞く説教や近所の法学者への質問を通してイスラム法の知 識を得るしかありませんでした。彼らがインストールしていたOSイスラム1.0は、啓示テ キストを独占するイスラム法学者からもたらされる知識のみでできあがっていましたが、 それは必ずしも啓示の文言に忠実な知識ではありませんでした。(pp.46--47)

しかしネット時代になり誰もがいろいろ「ググる」、つまり検索できるように なってくると状況が変化してきた、と。

 キリスト教におけるグーテンベルク聖書の出現と同じような大変化が、 イスラム教にも起こっている、と。そして誰もがコーランを直接参照できるように なると、説法師たちの言葉にそれまであった絶対性が失われて、そのせいで イスラム教の信仰のありかたがカオスな感じ、それぞれ自分が信じたいものを 信じる風に変わってきているんでしょうね。

 『コーラン』が出現したのがだいたい西暦600年頃、 聖徳太子とほぼ同年代となります。 日常生活に関する細々としたことまで 聖徳太子と同じ時代に出現した書物に厳密に従うなんて、 いくら何でも無理すぎだろ! すこしは時代の状況に合わせるようにしろよ!! と 日本人である私は思ってしまいますし、そういう観点から ここでいう「イスラム1.0」を作ってきた説法師たちの努力を評価したくなるのですが、 そういう考え方は「コーラン=神の啓示」という人たちにとっては 到底受けいられるものではないんですね。 「神の啓示」は人間界の「時代」なんてものを超越しているに決まってますから。

 リベラリズムの普遍性を絶対だと信じて疑わないエリートたちは、イスラム教徒も数世 代たてば西洋社会に同化するはずだと主張し続けてきました。この主張の背後に透けて見 えるのは、無意識的に「イスラム教徒は遅れた未開の人々だ」と見下す尊大な視点です。 西洋の価値はイスラム教より優れているので西洋に定住すれば必ず啓蒙されるという考え は、イスラム教に対する無知に立脚しており、それこそイスラム教徒に対する差別です。 (p.70)
 さらに検索すれば、ジハードは「心の中の弱さとの戦い」という解釈には啓示的根拠が ほとんど存在せず、その説教は近代以降流布するようになったもので、伝統的なイスラム 法学においてジハードは確実に「異教徒との戦争」と規定されてきたこともわかります。 「心の中の弱さとの戦い」が本当に最も重要なジハードであるなら、イスラム教において 最も敬虔とされる最初の三世代の先人たち(サラフ)や法学の祖たちもみなそのように理 解し、論じてきたはずです。イスラム教徒はサラフの時代こそ理想であり、サラフを模倣 すべき先人と信じています。 (pp.51--52)

 説法師たちが言ってきたことは『コーラン』の趣旨とはズレてるじゃん! ということに 皆が気付いてきて、なので説法師たちの言葉を聞かない人が増えてきている、という ことなんですけど。

 でも島田2016に関する私の手元のメモ(手元に本が見当たらなくなってる‥)によれば、 「ハディースによれば「自己との戦い」こそが最重要のジハードであり、 イスラム外との武力闘争とくに異教徒の攻撃からの自衛戦争は小さいジハードとされる(p.225)」とあり、 ハディース(伝承)とは 「預言者ムハンマド(マホメット)の言行の記録、あるいは記録集」 [日本大百科全書(ニッポニカ)/コトバンク]なので「自己との戦い」という意味も 当初からあったのでは? とも思わないこともないですけど。 でも『コーラン』至上主義な立場からするとハディースでもダメなんでしょうね。 本書でも書いていますが「啓示的根拠」がない、 ハディースさえ所詮人間が書いたものですから‥

 個人的には「だからイスラムは危ないんだ」と考えるのは違うようにも思います。 仏教だって法華経みると

(大雑把薬) 自分の身体を捨てて供養することこそ、 最高最上最善の供養なり」と。 [荻原土田:342-001]
このように自爆テロ行為に繋げることも可能な文言がある訳ですから。 でも現代日本ではこの文言に従ってのテロなんて皆無ですよね? (昔のことはよく知らないので除外) つまりイスラムが日本よりも聖典の文言にそこまで拘るには それなりの理由があるはずと考えてしまうのです。その理由とは何か、といえば。 やっぱり「不平不満」じゃないかと。テロさせたがってる人たちが、 聖典の文句を利用して、不平不満を持ってる人たちを煽ってるんじゃないかと。‥と言いながら。 じゃあ、どうしたら良いのかといわれても対策の妙案がある訳でもないですから、 「困りましたねえ」と言うだけなんですけどね。意味ない‥

[Table of Contents]

2.ヨーロッパのイスラム化とリベラル・ジハード

 二〇一八年にWZBベルリン社会科学センターが実施した調査では、ドイツ在住イスラ ム教徒の六五%がドイツの法よりイスラム法のほうが重要であると回答しています。移民 研究の専門家であるフンボルト大学のクープマンス教授は、イスラム教徒移民の約半数は 『コーラン』を字義通りに解釈する原理主義者であり、六五%は移民先の国の法律よりイ スラム法が重要と認識しているといった理由に基づき、イスラム教徒移民の同化は他の場 合より困難であり、同化に成功した西洋社会はひとつもないと結論づけています。
 オランダ政府が二〇一八年に公開したレポートによると ‥(略)‥ オランダ 政府は国内のイスラム教徒は年々「宗教的」になってきていると結論づけています。 (pp.71--72)

西欧に移民として入ってきたイスラム教徒たちは、そのうち西欧社会に同化するかと 思われていたものの、さっぱり同化しないことが問題となっています。 「2010年時点でドイツ、オランダ、イギリス‥の人口の5%」(島田2016)程度、 2016になるとさらに増加し「フランスの8.8%、ついでス ウェーデンの8.1%、ベルギーの7.6%、オランダの7.1%、オーストリアの6.9%、 イギリスの6.3%」(p.79)と、かなりの割合になっています。「フランスの8.8%」を 日本に当てはめてみると、日本の総人口の2021(令和3)年8月確定値が 1億2563万3千人なので、その8.8%は1081.5万人! 北海道・青森・岩手・宮城・秋田県の 2016年の推計人口合計が1125.3万人なので、割と近い感じ。たしかに多いな!! それらの人たちが既存の地域社会・ルールに馴染むことなく、 独自のコミュニティで独自のルール・価値観に基づいて行動しているとなれば、たしかに 「警官や当局者すら立ち入ることができな くなった、いわゆるノー・ゴー・ゾーンも各国に出現」(p.87)というのも 当然のようにも思います。怖いなー。

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3.インドネシアにみるイスラム教への「覚醒」

「イスラム国」の家族テロは、今のところアジアでしか確認されていません。「イスラム 国」中枢部が「子供も一緒に自爆せよ」と呼びかけたことは、少なくとも私の知る限りで はありません。一方で、同じ子供を持つアジア人女性である私には、子供を道連れに自爆 した母親の心情も全く理解できないわけではありません。一緒に自爆すれば、子供も自分 とともに天国へ行けると信じたのでしょう。
 残された子供は、必ずや反イスラム的な世俗思想を教え込まれて不信仰の罪に陥るに違 いない、そうなってしまってはその子の救済の道は閉ざされ地獄に行くことになってしま う、といった懸念もあったでしょう。 (pp.107--108)
インドネシアは 現在、世俗法で統治されている世俗国家ですが、イスラム教徒の国民の多くがこの状況に 不満を抱いているようです。彼らは、インドネシアをイスラム国家に変えたいのです。 ‥(略)‥ インド ネシアの世俗主義は、多宗教、多民族国家の平和と安定を担保するための「共生の知恵」 です。しかしイスラム法導入の支持者がこれだけ多いということは、それよりも、至高な る神の命令への絶対服従を優先させなければならないと信じている人が多いことを示して います。彼らは宗教の違いなど乗り越える必要などない、イスラム教という普遍宗教に全 国民が服せば真に正しい平和がもたらされる、と信じるようになってきているのです。 (pp.109--110)

 イスラム教徒が多数を占めながらも世俗法による世俗国家として運営されている国としては 他にトルコがあります。トルコのエルドアン大統領は親イスラム・反世俗主義傾向が 強く、それが多くの人々の支持を集める理由の一つとなっていることが知られています。 それと同じような傾向がインドネシアでも起こっているということですね。

 トルコにせよインドネシアにせよ世俗国家体制においてイスラム教徒は イスラム法と世俗法という、おそらく矛盾した別の2つの法体系・価値観に従って 生きないといけないというのはかなりのストレスだろうな、とは感じました。

 またイスラム教を信じない不信仰者について『コーラン』には、「神は彼らを呪い、彼 らに怒り、彼らをサルやブタにした。彼らは邪神の奴隷であり、最悪の場所にいて、(正 しい)道から遠く迷った者たち」(第五章六〇節)、「現世で屈辱を、来世でひどい懲罰を受 ける」(第五章四一節)、「心の中に病気がある」(第二章一〇節)、「悪を行う」(第二章一二節)、 ‥(略)‥ など、実に多様な描写があります。 ‥(略)‥ アホック事件や各種世論調査で明らかになった異教徒への嫌悪は、 イスラム教が絶対優位におかれるべきであり、イスラム的価値がインドネシアを覆ってい ないのはおかしい、というイスラム教徒の不満を表しています。 (pp.117--118)

 「自分たちの価値観こそが絶対に正しく、優れている」‥そう考える人は、 当然ながら相手の言葉とか価値観などを軽視しますし、 逆にこちらが相手に従わないことが相手にとっての不満になっていたりします。

 なので相手にこちらのことを理解してもらう、 相手の価値観を修正してもらう必要があるときは相手の価値体系の中心にある 存在つまり「神」の絶対性を崩すしかないんでしょうけど。でもそれをするには ムチャクチャ大きな決意が必要になるはずなので、 そこに安易に手をつけるのは最悪手。 相手の不満が大きくなりすぎないよう、なるべく距離を保ち続けることが 大事ですね。本書にも書いてありました:

(8) 宗教の話は自分からはしない。‥(略)‥
(35) イスラム教の規範の妥当性を論駁しようとしない。 (pp.223--236)
火傷しない最良の方法は、熱いものがある場所に近づかないこと。

 本書はイスラム教徒の最近の危険な動向についての本ということで、 話はイスラム教だけに向かいがちになってしまうんですけど。このような 「自分の絶対的優位を確信している人」はイスラムに限ったことではなく、 キリスト教系などにもいるみたいですよね。たとえば辻2012によれば以下:

 ロバートソンによれば‥(略)‥ アメリカの偉大さや正しさは、何よりもす べての価値観がキリスト教を基盤としていることにある。アメリカがアメリカであるゆえ んはキリスト教であり、ロバートソンにとって非キリスト教的な何物も「アメリカ」であ る資格はない。例えば、彼は大統領選に出馬した際、キリスト教徒とユダヤ教徒だけを政 府に入れると宣言した。「ヒンドゥー教徒が実際に信じているものを理解すれば誰でも、 自由と平等を愛するこの国において彼らに政府の政策を運営する権利がないことは疑う余 地がないだろう」(同上、p219)。 ( 辻隆太朗(2012)『世界の陰謀論を読み解く--ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』講談社現代新書2146, p.50.; 「同上」とはRobertson,"The New World Order"のこと)
たしかにヒンドゥー教社会は強固な身分制度を持続させ続けてますから、 「自由と平等」を非常に重視するアメリカ社会とは合わないことはわかります。 でもなー。キリスト教のことはあまりよく知らないんですけど、 「自由と平等」がキリスト教・ユダヤ教で重視されてるか? というのは いまいちピンと来ませんから(近代以前はそうなのか? と)、 その手の人たちだけが勝手にそう思い込んでいるだけじゃね? と思ったりしますし、 そう思い込んでる人がもし目の前にいたりしたら、 距離を置きたくなりますよね。

彼らはその「微妙なさじ加減」の具体例を、InstagramやFacebookに膨大なフォロワ ーを持つヒジュラ・セレブや、日常的な問題にからめて視聴者を魅了する語り口でイスラ ム教について説くYoutuber説教師に求めています。彼らがイスラム教への覚醒や学びに おいて頼りにしているのは、伝統的な宗教エリートではなく、ネット上の有名人なのです。 (p.125)
二〇一八年に、インドネシアのシャリー フ・ヒダーヤトゥッラー・イスラム国家大学が一七歳から二四歳の若者を対象に実施した 調査は、「若いイスラム教徒たちはモスクでイスラム教について学ぶ興味を失っており、 その原因はソーシャルメディア上の説教である」と報告しています。若者たちはイスラム 教についても、自分が知りたいことを、知りたい時に、好みの説教師から学ぶというスタ イルを採用しているのです。 (pp.130--131)

私が昔感じた 「人は非常にたくさんの情報に接する ようになると、思考や嗜好が徐々に極端に傾いていく」、 また 辻2012が指摘していた以下:

インターネットでの情報収集は、自分にとって都合のよい情報だけを選り好みして摂取 することになりがちだ。信じたいものを信じるための情報には事欠かない。 ( 辻2012, p.50.)
インターネット時代、情報過多の時代に多く起こるようになってきた「極端化」の傾向、 それに所謂「AIなどが見たいものだけ見せてくれる」フィルターバブルが重なり、 世の中全体がかなりマズい方向に進んでいることを感じずにはおれませんね‥

 それ以外にも、私の個人的な経験によれば学校の先生とか説法師とかが聞かせてくれる、 ありきたりで常識的な言説は「為になる」「勉強になる」ものかもしれないですけど、 大抵の場合、聞いていても決して面白いものではないですよね。 聞いていて面白いもの・興味を引くものは概してもっと過激な・ぶっ飛んでることですよね。 なので自分の部屋でググって見るんだったら、そりゃ過激なほうに行くに決まってるじゃん!!‥ とは思います。そういう点ではやはり、学校とかモスクで聞く話よりも YouTube とか Instagram のほう、さらに穏健な話よりは過激な話のほうが 影響力が強くなってしまうのは、まあ、当然の話ですね。

 これらの結果YouTubeやInstagram、Facebookなどの欧米系システムが 反欧米的な価値観を伝える重要なメディアになっているというのも何というか‥ですね。

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4.イスラム・ポピュリズム

 サウジアラビアやエジプト、アラブ首長国連邦、バーレーンなどは、カリフ制再興とイ スラム法による統治を目指すムスリム同胞団やHTなどをテロ組織に指定しています。そ の資金源を枯渇させ、過激イデオロギーと戦い、社会にそれらが蔓延するのを防ぐべく協 力しあっています。これら諸国は、カリフ制再興や「政治的イスラム」というイデオロギ ーの恐ろしさを熟知しているため、全面対決する覚悟を公に示しているのです。
 こうした国々にとって、「民主主義」や「政治的正しさ」を理由にテロ組織に安住の場 を提供しているヨーロッパ諸国は、テロとの戦いの障壁でしかありません。 (pp.158--159)

 自由主義の弱点ですよね。 特定の人たちが極めて排他的なコミュニティを作ることさえも、 それなりに認めないといけない‥。 日本だって異質な人たちへの社会的な抑圧はかなりキツくて 自由主義国のくせに自由がない! とか言う人もいますけど。 でもテロ事件を起こしたオウム真理教→アレフさえ強制的にツブすことはできませんからね。 かなり厳しく監視するのが精一杯で。

 そういう自由主義な人たちの脇の甘さについては、本書でも指摘するように「そのうち彼らも 自由主義の素晴らしさに気付いて我々に同化してくるはず」という考えというか自信 (本書では「尊大な視点」)が裏にあると思われます。 でも西洋に移住してきたイスラム教徒たちが なかなか自由主義へ同化していかない現状では、ちょっとそれもどうなのかな? と 思わないこともないですね。

 中共の新疆ウイグル自治区における人権弾圧のニュースなども、まあ、 このへん絡みなのかな? ‥なんて考えだすと、なかなか難しい問題なんだなと 思ったりします。

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5.イスラム教の「宗教改革」

二〇一八年には、サルコジ元大統領をはじめと するフランスの著名人約三〇〇人が、「新しい反ユダヤ主義に反対する声明」をフランス 紙『ル・パリジャン』に掲載し、近年の反ユダヤ主義はイスラム過激派によって引き起こ されたところが大きいとして、イスラム教の宗教権威に対し、ユダヤ人、キリスト教徒、 不信仰者に対する殺害や処罰を指示する『コーラン』章句を「無効化」し、イスラム教徒 たちが『コーラン』章句に従って罪を犯すことのないよう指導すべきだと要請しました。 ‥(略)‥
「新し い反ユダヤ主義に反対する声明」を共同で発表したフランス人セレブ三〇〇人は、イスラ ム教徒から見ると神への畏れを知らぬ無知蒙昧な不逞集団でしかありません。 (pp.169--170)

イスラム教徒において反ユダヤ主義が強まっている点について、以前、 別の本(佐藤唯行2000)で読んだ アメリカの黒人のあいだで反ユダヤ主義が強まっているという話を 思い出しました。 アメリカ黒人の場合、「富の格差への不満」が陰謀論とつながって 反ユダヤ主義に向かっていく感じだったように記憶していますが、 この場合もそうなんでしょうかね。ユダヤ人も大変だ‥

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6.もしも世界がイスラム教に征服されたら……

差別されるのが嫌なら改宗すればいいのです。イスラム教徒 は神への服従のみが命じられ、地上のあらゆる権威への隷属から解き放たれているため、 我々にこそ「究極的自由」が保障されている、とも主張します。またカリフも一般信徒も イスラム法に服さなければならないという点において平等であり、男も女も神がそれぞれ ふさわしい義務と権利を与えているという点において平等だとされています。
 このように「イスラム国」には、イスラム的価値に基づく自由と平等があるのです。 「イスラム国」に平和、自由、平等がないわけではなく、彼らの平和、自由、平等が私た ちの平和、自由、平等とは異なるだけなのです。そしてもちろん、彼らの価値は神の命令 に由来しているため、私たちの価値に優越していると彼らは信じています。 (pp.213--214)

価値観の前提がちがうと同じ「自由と平等」という言葉の意味内容も完全に別に なってしまうということですね。

 私も昔、同じことを言ってある人から「わかった」、他の人から「よくわからない」と 言われたとき、その二人とその後よくよく話してみたらどちらも 私の話に対する理解内容は同じだったことがあって、そのときに 「そうか! 『わかった』と『よくわからない』は同じ意味なんだ!!」と気付いて 驚いたことがありましたけど。それと似た話ですよね。同じ言葉でも人によって 意味内容は違うし、また違う(通常は別の意味と考えられる)言葉でも人によって 意味内容は同じになるし‥。

 つまり他者と会話するときには、それぞれが前提とする価値観・世界観がどういうものかを ちゃんと確認しておかないととんでもないことになるという、なんか言ってしまうと 当然といえば当然の話になるんでしょうけど。でもその実践は言うほどは簡単ではない‥

[Table of Contents]

7.イスラム教徒と共生するために

1. 普遍真理を争わない。
2. 法の遵守の徹底。
3. 日本の常識を押し付けない。
4. レッドラインを越えない。 (pp.221--222)

「日本人とは価値観が根底から違う」、だから 「ヘタにわかり合おうとするな」、油断すると簡単にレッドラインを越えてしまって、 しかも越えたことに気づかなかったりするからそうすると大事になりかねないぞ!‥ といった感じでしょうか。

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