いまいち よくわかっていませんけど、とりあえずネットなどで見つけた情報を 列挙しておきます。
1730(享保15)年の「六郡郡邑記」(『秋田叢書2』[NDL]) には 朝鮮村についての記述か? と思えるような 記述が見当たりませんでしたので、朝鮮(当時は「長仙」?)は 単独で「邑」と呼べるほどのものではなかったのか、あるいは長仙さんの開拓が1730年以降か‥ といったあたりのことは不明です。たぶん「邑」と呼べるほど大きな集落にはならなかったろうとは思いますけど。 (場所的にいって、八柳村系(p.102;コマ65)だと思うんですけど。とくに記述なし)
[Table of Contents]ではなんで「朝鮮」なんて名前が付いてるのか? 上で紹介したページでは 「長仙という人が開墾したから」説を、18世紀初頃? の菅江真澄が紹介している、との 三浦鉄郎(1987)『新編 秋田の地名』の記述(p.80)を紹介しています。 ‥‥ただこの三浦1987がこの記述をどこから持ってきたのかは確認できていません。 出典は「ゆきのおろちね」となっていますが、しかし菅江真澄「雪能袁呂智泥」 (『秋田叢書 別集 第4 (菅江真澄集 第4)』[NDL]; p.213;コマ124) に対応箇所が見当たりません。 いちおう「月迺遠呂智泥」とか「勝地臨毫 出羽国秋田郡」[APL] も目を通してみたんですけど、 それっぽいのは見当たりません‥
これ以外の理由として、『秋田市外旭川郷土史(2004)』は「字地上の地形が韓国に 似ていたからか」と推測しています。同書には、 石川理紀之助(1896(明治29)〜1902(明治35))『適産調』の一部が「資料」として 紹介されています。その中、大字:八柳 の 小字の13番目として「朝鮮」が紹介されています(p.701)。 朝鮮地区の地図がそこにありましたので、それを私が筆写したものを右図として 紹介してみます。
[Table of Contents]‥んー。いろいろ整理してみましょう。 1902年に完成した『適産調』に「朝鮮」が堂々と掲載されていることから、 この地域が「朝鮮」という名前になったのは1900年以前のことと考えられます。 また1900年前後の朝鮮半島の情勢についてですけど。 1894(明治27)年から翌年にかけて日清戦争、これで朝鮮が清(中国)の属国でなくなり、1897年に 大韓帝国 [Wikipedia]成立、しかし清(中国)にかわって日本の影響力が次第に強くなり、 結局は1910年に大韓帝国消滅・日本統治開始。‥と、そんな感じです。
このような歴史的変遷を踏まえてみると。まず『秋田市外旭川郷土史(2004)』には 「字地上の地形が韓国に似ていた」とありますけど。これ、たぶん朝鮮半島のことですよね。 地図を横にすれば、まあ、そう見えないこともないかな? ‥という感じですけど。 ビミョーですね。 それと「朝鮮」という名がついたのは、どうやら朝鮮人が日本に入ってくるようになる前の段階 ですね。どうなのかなー。日清戦争とか、大韓帝国成立前後に日本で「朝鮮」ブーム的、 「みんなで朝鮮を開拓しよう!」的なキャンペーンがあったりしたんですかね?? それで「なんか『朝鮮』が熱いみたいだから『朝鮮』の字に変えてみるか!」とか、 なったんでしょうか。
[Table of Contents]ちなみに当時、1900年頃の日本ではどうやら朝鮮ブーム(らしきもの)は実際にあったようで、 ネット上でたまたま見つけたんですけど、滋賀県の蒲生郡の例なんですけど:
当時の朝鮮ブーム(?)が、神社の祭神を追加したりするほどのものだとしたら、 現在の秋田市の郊外に広がるのどかな農村の名前を「朝鮮」にしてみたという話も、まあ、 あってもそれほど不自然じゃないのかもしれないですね。 実際に今でも「平成」とかいう地名、つけたりするじゃないですか。 それと似たノリもアリかなー、と。
(‥しかし、それよりも何よりも、菅江真澄が「朝鮮闢は、長仙という人の新墾せし田畠なん」と 書いてあるソースを見つけないと、話が先に進まないよなー。)
[Table of Contents]こんな感じで 由来についてはわからない、としか言いようのない状況ですけど。 しかし朝鮮の人たちとはとくに関係ないんじゃないかと思います。
まず、電話帳などから察するに、外国の人っぽい名前の人が住んでいるようには思えないこと。 そしてネットにこんな情報が: