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摩訶摩耶經

摩訶摩耶經 (大正No.0383,Vol.12 [SAT];曇景譯)の大雑把訳です。

(まだ準備中です)


 

はじめに

[Table of Contents]

準備中です。

このページには、簡単な「かいせつ」が入ることになると思います。

この摩訶摩耶経、博物館とかに行くと 「釈迦金棺出現図」[京都国立博物館] などの 仏教美術のネタとして時折見かけますので、 前からちょっと気になっていました。どのへんが仏教美術で使われるかというと。 このお経は後半、釈迦仏の涅槃の様子を描写するのが主な内容となっているんですけど (それゆえ「涅槃部」に分類されています)、そんな内容のあちこちに 釈迦仏の母親・摩訶摩耶のシーンが混入されていて、そのシーンが 摩訶摩耶の強い母子愛を感じさせる内容、および「親孝行」がなんとなく強調されてる展開で、 それがおそらく 昔の日本女性たちの心を捉えたんでしょうね。だから美術作品のネタとして 時折使われたんだと思います。 なかでも個人的に「おお」と思うのはやはり、 一度「涅槃」に入ったはずの釈迦仏が 摩訶摩耶の強い願いに応えるため、ほんのちょっと復活して 母と最後の別れをするという [ いわゆる「釈迦金棺出現図」の場面 ] です。 これは初めて見るとやはり「じぇじぇじぇじぇじぇ!!」と非常に驚きですよね。 これについてはキリスト教の、イエスの復活のエピソードが影響を与えたのでは? という ことを言う方もおられるようですけど、正直よくわかりません。 ‥なんて感じで、このへんも今後書き足していく予定です。

現状、この大雑把訳はテキストの途中(上下巻あるうちの下巻の途中から)から始まって、 テキストの途中で終わるという感じになっています。これ、何故かというと、 仏涅槃のあたり、(私も含めた)多くの人たちにとって最も関心がありそうな 本経典のクライマックスのシーンだけとりあえず纏めたいという 私の欲望に従った結果、そんな感じになっております。まあ、そんなに長い 文献でもありませんので、将来的には文献全体の大雑把訳ができればいいなあ‥とは 思いますけど。でも、自分もそれはあまり期待できない気がしないこともないです。

[Table of Contents]

年代的なもの

本経の成立時期を探るうえで大きな手がかりとされているのは、 仏滅後になんか唐突に述べられている、末法的な記述です。 [ 仏去りし後 ]などのところですね。

 仏教が滅びる、いわゆる「法滅尽」の記述について、どうやら中国で 5〜7世紀くらい(? 南北朝時代から隋唐初期)にブームがあったみたいです。 その端緒となったのがどうやら『大般涅槃経』の法滅に関する記述[このへん?]らしいんですけど(菊地2000, p.126)。 その時期に『涅槃経』の記述をベースにして、それにさらに自然災害に関する記述も追加して、 「法滅尽」について述べる 中国原産のいわゆる「偽経」がいくつも作成されたみたいです。たとえば 『法滅尽経(T396)』 『般泥洹後比丘十変経(敦煌写本スタイン2109)』 『像法決疑経(T2870)』 『首羅比丘経(T2873)』 『普賢菩薩説証明経(T2879)』 ‥といったあたりが、その関連の文献のようなんですけど。

 どうやら本経もそれら経典群と同時期に作成されたのでは? という推測もあるようです。 菊地2000 は『法滅尽経』について

ユベール・デュルト氏は『摩訶摩耶経』との比較をもとに、これにいくらか先んじて劉宋時代(420 〜479)に成立したものと見なされた。 (菊地章太(2000)「「あの世」の到来--『法滅尽経』とその周辺--」『死後の世界 --インド・中国・日本の冥界信仰--』東洋書林, p.137)
これが『大般涅槃経』以後の成立であるこ とはもとよりであるが、‥(略)‥ 涅槃部の経典の中では『摩訶摩耶経』に最も近く、類似の内容を語る『般泥洹後比 丘十変経』には先んじており、月光童子信仰の展開のあり方から考えて『首羅比丘経』に先行し、弥 勒信仰の変質過程において『普賢菩薩説証明経』にも先駆け、法滅世界の描写において本経もしくは 類似の経典に取材したであろう『像法決疑経』より早い成立であることは間違いなさそうである。 (菊地章太2000, p.138; 省略は引用者である私による)
こう指摘しています。つまり『摩訶摩耶経』の成立は『法滅尽経』よりすこし後、 たぶん5世紀末頃成立したのでは? ということですよね。

 ただし『摩訶摩耶経』がインド・西域産なのか中国産なのかについては諸説ある みたいで(菊地2000,p.142)、ですからこの推測も「有力な可能性のひとつ」という 感じにすぎないのですが‥

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