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私聚百因縁集(4)十大王


 

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Introduction

以下ノ文書ハ、

愚勧住信(1257)『私聚百因縁集』(巻4のうち『十大王』のところ)
コノ本ノ 国立国会図書館蔵ノ 1653(承応2)年ノ刊本ヲ用イタ、 大雑把訳デアル。本地仏ニ関スル説明箇所ハザックリト割愛シテオル故、 利用ニハ十分注意スベシ。

 他ニNet上ニテ閲覧可能ナ資料等ニツキ、

此方ニテ整理スル予定故、随時参照致ヘシ。


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大雑把訳

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[01] 秦広不動

冥途黄泉(こうせん)の秦広王の本地は不動明王。冥途に王の姿でいて、 官司獄録を左右に走らせ、罪人を呵責して悪をいかり善を讃して、 人が悪を行なわず善を行なうよう仕向ける。罪人どもが奈河を渡る前に 生前の行為を点検し、殺生系の罪を推問して反省させる。 罪が軽ければ反省させて転生させる。重罪の者は(1)等活地獄へ。

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[02] 初江釈迦

初江王の本地は釈迦牟尼如来。王の姿で冥途の江辺にいて罪人を点検する。 夫婦の官獄司を使って罪人を呵責し、葬頭河を渡らせる。 そこには(1)山水瀬、(2)江深淵、(3)橋、の3つの渡があり、 罪の軽重によってどれで渡るかが決まる。

 河辺には衣領樹という大樹あり。奪衣婆・懸衣翁という夫婦が 罪人に盗罪があったとき両手の指を折る。また衣服をはぐが、 衣服がないときは身皮をはぐ。翁は不義をとがめ、 発覚したら頭と足を縛りつける。王は反省を促し、 罪が軽ければ転生、重罪ならば(2)黒縄地獄へ。

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[03] 宋帝文殊

宋帝王の本地は文殊師利菩薩。王の姿で冥途にて、邪淫業を戒める。 三目、四目の獄鬼司を使って罪人を呵責し反省させる。 罪が軽ければ反省させて転生、重罪なら(3)衆合地獄

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[04] 五官普賢

五官王の本地は普賢菩薩。王の姿で三江のあいだにある大殿にいて、 妄語罪を戒める。殿の左には秤量舎、右には勘録舎という建物がある。 秤量舎には秤幡が立っていて、そこにある秤で身口七罪の軽重を量る。処分には3種類あり、 (1) 斤目の者は重罪、十六地獄行き。(2) 両目の者は次罪、餓鬼送り。 (3) 分目の者は軽罪、畜生送り。 つぎに鏡台に映る姿によって 罪の軽重をはかる。口罪が重いときは(4)喚叫地獄行き。

 勘録舎には童子が2人いて罪を記録する。一人は證明善童子といい、影のごとくに 離れずに善行もらさず聞き記す。一人は證明悪童子といい、 声と不可分の音のように人の悪事をすべて記録する。 このようにして人が悪をやめ善に向かうよう仕向ける。

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[05] 閻王地蔵

閻魔大王の本地は地蔵菩薩。ここより500ヨージャナ離れた預弥国という大城があり、 そこは鉄の塀、鉄の門をもつ。その左右に檀荼幡があり、その上に安置された人頭形の神が 人々の善悪を見抜くこと、さながら手中のアマラ果を見るが如し。左の神は羅刹のような姿で 悪を記録し、右の神は吉祥天のような姿で善を記録す。 かくて人々の善悪が人頭神により記録され、罪業はもれなく閻王に報告される。 また右には黒闇天女の幡、左には太山府君の幡あり。 同生神・同名神がいて人々の日々の罪業福業を記録している。 また光明王院と善名称院という二つの院あり、そこに浄頗梨鏡があり、 人々の善悪を記録する。十王経にもこう言われる:

「五七日 亡き者たちの 怒声やむ 恨みのこころ まださめやらぬ
無理矢理と 業写す鏡 見せられて やっと気がつく 生前したこと」

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[06] 変成弥勒

変成王の本地は弥勒菩薩。王の姿をして冥途にいる。司命令神司録記神を使い、 五官王が量った罪福、閻魔王の業鏡による善業悪業を点検する。 善福の人は迎遣し、悪罪の者は地獄に堕とす。罪福のことは全部自業自得であるから、 善人は天堂に至り、悪人は地獄に入るとしても他者を恨むべからず。

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[07] 太山薬師

太山大王の本地は薬師瑠璃光如来。王の姿をして冥途にいる。虎頭・牛頭の獄司、 一目・三目の獄司を使い、人々の両舌の罪を勘誡される:

「中陰や 冥途に入りて 七七日 父母情を 通わすを待つ
善行の 判決まだまだ 未確定 亡者にもたらす 追善あるなら」
亡者どもの嘆き:「飲まず食わずで 寒くてたまらん 我が子らよ 戒律きちんと守りぬき 追善作善 我を助けろ 亡き親が 禁められて 地獄堕ち 知らぬ子どもは 静かに暮らすか」と。 (※「地蔵十王経」に対応部分あり)

 これに獄司が答えて曰「汝の自業自得であろう。なぜ子や一族を恨むか。自分の心を恨むべし。 おまえが舌を抜かれたとしても、儂が抜くのではない。自分で両舌の罪を犯したのだ」と。

 罪人で罪軽きものは懺悔させて転生させる。 罪が過度に重いものは、自業自得の道理から遁れ得る者なし。 (6)焦熱地獄に向かう。

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[08] 平等観音

平等王は本地観世音菩薩であり、王の姿をして衆生の貪欲罪を誡める。 二人の童子、二人の獄司を使い、罪人を呵責する。

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[09] 都市勢至

都市王は本地大勢至菩薩であり、王の姿で冥途にいる。 二人の獄司、二人の官を使って衆生の嗔恚の罪業を誡める。 悪人に善行を行わせるために阿弥陀仏の名号を説き、教化する。 有縁の人たちは説法の声を聞けば転生する。これは宿縁によるもので、 次の人生では仏号を念じて仏果が得られる。 極悪な罪人は、説法を聞いたとしても聾の如し唖の如し。 自分で作った業に引かれて地獄に向かい、(8)無間の大苦を受ける。 慚愧することもなく、未来永劫に苦しみ続ける。

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[10] 転輪弥陀

五道転輪王は本地阿弥陀如来であり、王の姿で冥途にいる。 二官・獄司たちを使い、衆生が愚痴によりもつ煩悩を誡められる。 その中に十目四臂の獄卒がいて、かれは人間がおこなう善業悪業をすべて 手中の果物を見るようにハッキリと点検し、罪業の軽いものは転生させ、 邪見・放逸の者たちは車で送られるように三悪趣に送られてしまう。 きわめて愚痴な者には火車が来現し、牛頭・馬頭・阿防・羅刹に捕まる。 あるいは臼に入れられ、鉄の杵によって搗かれる。 あるいはフルイで濾され打たれて微塵のようにされたり、盤石で打たれたり ノコギリで切断されたり‥と、受ける苦しみは言葉では言い切れない。 十王経にも:

「放逸と 邪見それこそ 過ちで 愚痴無智それは 許されぬ罪
過と罪が 車輪のごとくに 回転し 我らは向かう 三途の地獄」 (※しかし『預修十王経』に対応なし。『地蔵十王経』のみ)

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つぶやき

(そのうち、別ページに切り分けます‥)

  • この文献は1257年頃に纏められたもので、つまり13世紀中頃における「十王」の 伝承が伝えられている、と考えてよいと思います。
  • 12世紀末頃、つまり本文献より50〜100年くらい成立が早いと思われる 『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(地蔵十王経)と 比較してみると、伝説の発展がわかるようで、なんか面白いです。
  • たとえば「5:閻魔王」のところ。『地蔵十王経』では、ここだけ記述が充実していて、 他の王たちについてはスカスカな感じだったんですけど。本文献ではその「5:閻魔王」のところは 『地蔵十王経』に書かれている以上のことは何ひとつ書かれていませんけど‥
  • 他の王たちについての記述が、かなり追加されています。そして追加の内容が、基本的には 仏教で一般的に言われている「地獄」の描写との対応を取るような感じでの追加がなされている ことがハッキリわかると思います。(そして「5:閻魔王」のところ、そこだけは追記分がないため 『地蔵十王経』と同様、地獄との対応もないし閻魔王・地蔵菩薩の存在感がまるでないまま)
  • しかし仏教における「八大地獄」というのは「大○○地獄」となっているのを除くと 等活・黒縄・衆合・叫喚・焦熱・無間の6つ、 しかし王の人数は10人。数が合わなすぎ! ‥ということもあって、 王と地獄の対応付けは、正直あまりうまくいってないなあ‥ というのが私の率直な感想です。
  • 数の不整合以外に「八大地獄」との整合性でイマイチと感じるのは、たとえば 2:初江王。 ここでは「盗罪(か不義?)があれば(2)黒縄地獄へ」とありますけど。 八大地獄の「(2)黒縄地獄」は本来、殺生・盗みの二つを犯してしまった人が堕ちる地獄という位置付けになっています(Wikipedia)。本文献を素直に読むと、殺生をしてしまった罪人は 最初の 1:秦広王のところで(黒縄地獄よりもマシとされる) (1)等活地獄 に堕ちてしまいます。 そして単に盗みをしただけの人が 殺人をしてしまった人よりも ツラい(2)黒縄地獄に堕ちてしまうように書かれてます。‥これ、どう見ても不自然ですよね? このへん、「冥途の地獄の整合性」とか「あまり説明がない王たちへの記述の追加」などを 無理無理やってみたら、なんか変になっちゃった、という感じだったりするんでしょうか。
  • ‥ということで、こりゃ理不尽すぎ! となったんでしょうか。 後代になると、それぞれの王に地獄を割り振るアイデアはなくなってるみたいですね。
  • 『私聚百因縁集』が全体的に極楽浄土指向が強いみたいですけど、その一環でしょうか。 9:都市王のところで以下:
    「悪人に善行を行わせるために阿弥陀仏の名号を説き、教化する。」
    このようにあり、ちょっと驚きました。9:都市王の本地が阿弥陀仏の脇仏とされる勢至菩薩ですから、 阿弥陀仏の名号をすすめること自体はものすごく自然に感じたんですけど。 でも肝心の阿弥陀仏そのものが本地となっている 10:五道転輪王のところでは、とくに阿弥陀名号の話が出てこないのは拍子抜け(^_^;