伝 日蓮上人 撰(伝 1254(建長6)年)『十王讃歎鈔』の大雑把訳です。
[前] 4:五官王/普賢菩薩 |
五七日は閻魔王、本地は地藏菩薩である。
「閻魔」とは天竺の言葉。 唐土では息諍王である。この王の前では諍を息(やめる)ことによる。 王宮は地下500踰繕那である。縦横も同じくらい。座所は縦横60由旬。 城は七重にして、周囲を鉄塀で囲み、四方にそれぞれ鉄門あり。 門の左右に壇荼幢あり、それら幢の上に人頭あり、人々の振舞を見通し、 亡人の善悪をすべて記して大王に奏上する。 その札によって大王が裁定なさるのだ。
次に光明院という別院あり。この院内に九面の鏡があり、八方にも鏡を懸けてある。 真ん中の台にある鏡を淨頗梨鏡という。
[Table of Contents]この王はつねに猛惡忿怒の表情である。 これを拝すると罪人どもは気絶する。 なぜなら王の眼は大きくて光り、日月のようであり、 顔面を赤くして怒るその威圧感に、罪人は見ただけで気絶するのだ。 また罪人を辱め怒るその御声も大きく、百千の雷が同時に鳴ったようだ。 罪人どもに「汝がここに来たのはもう何千万回か、数えきれぬ。 娑婆世界で仏道修行をなせ、もうこの悪処に来てはならぬぞと、 毎回言ってるのに、その甲斐なくまた来るとは。 きわめて幸運にも人として生まれ、さらに幸運にも仏法流布の国に生まれたのに、 人々が [p.1979] 仏道修行するのを他人事に思い、心のまま振舞ってまたこの悪処に来たのか。 宝の山に入りながら手ブラで出てくるようなものだ。 汝は生前、放逸無慚にして慈悲なく、ケチケチためた財宝は 冥途の糧になっているのか? かわいがっていた子どもが、 汝の今の苦しみの代わりになるのか?」と責められれば、 その道理ゆえ黙って嗚咽するのみ。
大王はさらに「汝の一生における罪業は全部正確に倶生神が鉄札に書いた。 一つ一つ読み聞かせよう」と御自らお読みになる。その声は大山が崩れるような音だ。 「これが汝の生前の振る舞いではないか? こうして悪業のみ造り、 一念懺悔の意思もなく、今ここに来たのだ。後悔して泣いても無意味である」と 地獄堕ちと裁定なさる。
悲嘆にくれる罪人は逃げ道はないかと思い、泣く泣く「ただいま仰せの罪業のうち、 一部は間違いありませんが、ほとんど記憶にありません。 倶生神の御筆の誤りではないでしょうか。また少しの罪ならばご慈悲にてお許しくだされ」と 震えながら申し上げる。
[Table of Contents]すると大王は顔色を変えてお怒りになられる。 しばらくして「よく聞け。 汝が生前は死後の知見を気にもせず、ただ目の前の欲得のみに従い、 今こうして憂目を見ることを忘れて、妄語悪口しまくっていたのを、 その癖が直らずに、この正直断罪の庭でも裁定をおこなう冥衆を騙し疑い、 [p.1980] すでに明白となった罪業を誤魔化すと、さらに苦しみが重くなるぞ。 我は悪意あって汝を呵責するのではない。罪の一つも我が追加することはない。 自業自得の果報であるので、自分の心を恨め」と宣い、 獄卒を召して「この罪人は倶生神の報告を疑いアレコレ言う。 倶生神というのは汝と同時に生まれて、影のように汝に付き添い離れず、 それで記した報告なれば、毛の先ほどの間違いもない。 それでも違うというのなら、よしよし淨頗梨の鏡で確認してみよう」と仰せ。
鬼どもが罪人の両手を持ち上げ、光明院の宮殿を開き九面の鏡の中にその罪人を置くと、 生前なした罪業が鏡のそれぞれの面に残らず映る。 本人しか知らない悪業までもが残らず映る。 すると倶生神などの獄卒たちが皆、指さして口々に「よく見ろ罪人。 これは倶生神の間違いか? 冥官三寶は汝の振舞すべてをハッキリご覧になっているのだ。自分の眼が闇いように 隠せると思ったのか。すべてお見通しだ、すぐ地獄に堕ちるべし」と宣えば、 獄卒どもが激怒し、眼を見開き、口から炎を吹いて鉄棒を持ち直し、罪人の後ろに立つ。
罪人あまりの悲しさに、泪ぽろぽろ流し俯く。獄卒が髪をつかんで顔を引き上げて 鏡に向かわせ「それ見よそれ見よ」と責め、 [p.1981] 棒で打ち叩く。 はじめは叫び声をあげるが、やがて息絶えて微塵のごとく砕け散る。 ここで「活活」と唱えなでさすれば、また生き返って苦を受ける。
そのあと罪人は「倶生神の間違いではなかったか。こうなると知っていたら、 罪業なんて造らないのに。 夢幻のごとき一生のせいで万劫の間、重苦を受けるとは」と後悔するが、 どうしようもないので泪の尽きることなし。
[Table of Contents]願うことといえば、娑婆の妻子眷属が、わが菩提を弔ってほしいということだけ。 本当にそういう気持である。 目に見えぬこととはいえ、よく考えてみると身に染みるほどの道理である。 父母のことは当然のこと、毎日顔を合わす朋友、毎日言葉を交わす従者の中にも 先立つ者は多かろう。その中には今このときに三途の重苦に沈む者も多いはず。 そこに思い至らず、弔わないのでは、情けないことである。 昔から「一死一生、交情を知る」とも言う。生きてるときの情はお互い様なのだから、 つまり自分のためである。亡き後の弔いこそが真実の志である。生きてるときだけ昵懇にし、 死んだらそれまで、まして弔いもないのは人倫に背いている。 必ず必ず亡魂の菩提をお弔いくだされ。
「化の功、己に帰す」の道理によれば、亡者の弔いも自分の為である。 亡者の浮沈は追善の有無による。だから自身も信心を [p.1982] 持ち、親族へ回向すべし。 とくに閻魔大王の御前での苦しみが大きいので、35日の追善こそ肝心である。 そこで善根をなせば、それが鏡面に映るため、大王や冥官らが大喜びされる。 罪人も弔ってもらい大喜び。
このように作善の多少、功徳の浅深を分別され、成仏か、人界行きか、天界行きか、 あるいは次の王のもとへ送られるかが決まる。
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