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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


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伝説はどこまで本当か

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撫斬でなかった可能性

話は1935(昭和10)年に戻る。

上で書いたような記事が新聞に載ったことを契機として、 若干の論争が起こったらしい。そして、 ここから話の中心は「撫斬は黒沢らによる私刑であったのか、 公式の沙汰によるものだったか」ということに移ってくる。 この論争については『大野の撫斬』(S10)の15ページ以降で 紹介されているので、それなりの雰囲気を掴むことができるが、 まず武藤一郎氏という人が当時の撫斬事件に関する 口上書・條目なるものを持ち出してきて、 私刑ではなかったという論考をおこなっている。 この論考、非常に筋が通ってる。さらに「切上」の 由来についての疑問も呈しているけど、この切上伝説は 私自身も信じられない---「切り上げ終わったよ」なんて 会話をするシーン、いったい誰が見たっちゅーねん?! それに「梅津氏から使者が出た」が事実だったと仮定しても、 それが処刑取り止めの使者かどうかをどうやって 地元の農民が確認するねん?? ‥なんてことを考えてみると、 あまりに現実離れしすぎだ (^_^;;

 ‥‥てのはともかく。このような武藤氏の主張に対し、 また物好庵という人も補足をおこなっていたりする。

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不祥事の隠匿では?

 ‥‥でも信太郎氏は屈しない。上記口上書などは、 事件が済んだ後に 22人斬殺という不祥事を隠蔽するための辻褄合わせ、 すなわち捏造されたものであり、 撫斬行為そのものは黒沢らによる私刑ではないかというのである。 たしかに元禄といえばすでに天下太平となった時期。 22人もの人間が本当に公に処刑されたならば、 その跡を公文書からほとんど探ることができないと いうのは不自然すぎる。 それに武藤氏のあげた條目によると、 全員が斬殺されたというわけではなくて 磔刑にされた人が2人いることになっている。 しかし地元にはそんな伝説は残っていない。どう 考えても斬殺よりは磔のほうが見る人間に与える インパクトは大きいはずなので、それが伝説に 伝えられていないのは不自然としか言いようがない。

 つまり私刑が行なわれてしまった後で、 2人が(本当は行なわれていない)磔刑に処せられたように 書類を捏造することにより、22人もの人数を私刑にした 黒沢ら、そして黒沢らの主君である梅津家(梅津半右衛門家. 仁井田堰 [URL]とか、 キリシタン弾圧 [URL]とか、 仙北三郡の小野寺旧臣下の取り込み [URL]とか いろいろやってる、藩内では かなりの大物)、 そして、ひいては藩主・佐竹家の大スキャンダルを揉み消した 疑いが出てくるのである。

 これらのことから、「結び」において信太郎氏は 「私は私刑の撫斬として確信する次第である」と 文章を締めくくっている。

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事件から撫斬まで三ヶ月

ただ黒沢らによる私刑説を取るときに気になるのが、 私刑は私怨に基づくはずだから、事件発生が7月(旧暦。現在の暦では8月)、 22人が生命を落としたのが10月(旧暦。現在の暦では11月)、というのは時間が 空きすぎではないか? といったあたりです。

 さすがに黒沢らもバカではないはずですから、 私的に22人もの人を殺すのは非常にヤバい行為だという 認識くらいあったはずです。そして事件発生から3月も 経過してるわけですから、その場の怒りでの衝動殺人として 理解するには時間がたちすぎている点はやはり気になりますよね。 (「カッとなって殺した」の「カッ」という感情は 三ヵ月も続かないですよね普通、という話。)

 なお、武藤氏があげた公文書(らしきもの)をどう解釈するか については、『大野の撫斬』(S56)という同名のもう一つの 冊子[URL]の登場を待つことになります。

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