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西院河原地蔵和讃について

「西院河原地蔵和讃」 [URL]
(賽河原、賽の河原、佐比の河原‥とも)
に関するメモ。まだ整理できてないですが‥


[前] お地蔵さま (概説)

お地蔵さま (ナデナデ)

おぢぞうさま、「いたきかかへてなてさすり。あはれみたまふぞありがたき」だそうですけど。 それってつまり気の毒がって抱っこしてナデナデしてくれる程度、つまり「同情するけど、 それ以上のアクション(成仏させる等)は取らない」ということですよね? その仏菩薩らしくない振舞いはちょっと気になりますね。 そのへんにこの和讃を作った人の意図が絡んでいたりするんでしょうか[*1]

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代苦の地蔵様

 お地蔵様と地獄との関連について。『今昔物語(巻17)』(12c)には、 地獄に堕ちた人、冥官の前に立たされた人が お地蔵様に救いを求めたところ

  • お地蔵さまが冥官と交渉してくれたりしてその人は蘇生した(17-21,23-26,28-29)、あるいは
  • その人の替わりに地獄苦を背負ってくれた(22,27,31)
‥などの物語が語られています(速水1975.pp.79-85,105-106.)。

 この前者は「蘇生した」、つまり地蔵様が地獄から救出してくれた(極楽往生とか 生天とかじゃなく、現世に差し戻しなんですね‥)例。

 後者は「たとえお地蔵様であっても地獄から人を救出できない。 そのかわり地獄で本人が受けるべき苦をお地蔵様が 替わりに受けてくれた」という例になるわけですが。 蘇生できた前者の例に対し、蘇生できない後者の例は 「地獄必定」の意識が進んだからと速水は述べています(p.105)。

 確かに「地獄必定」、つまり「死んだら地獄に堕ちるに決まってる」という意識が強まった場合、 地蔵様に地獄から救出いただいて現世に戻ったとしても どうせまた死んでまた地獄に堕ちるんじゃん、 地獄行きがほんの少しだけ後回しになるだけで、救出されても意味ないじゃん‥という 話になっちゃいますからね[*2]。 それならイッソ、地獄から救出してくれなくてもいいから、私どもの地獄ライフをほんの少しでも 快適(ラク)にしてほしい‥ということで人々の願望が代苦に向うのは当然といえば当然の話ですよね。

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代苦も無理になってきた?

 話を地蔵様に戻すと。 つまり11世紀あたりだと地蔵様は「地獄から救出してくれる」役割だったのが、 前世の因縁がどうにもならないほど強力、運命は人が生まれる前からほとんど全部決まってるんだぞ、 と考えられるようになってくるとともに お地蔵様も無力化していき地獄からの救出は無理になり(そもそも救出しても無意味)、 「地獄苦をかわりに背負ってくれる」のがせいぜいになった、と。

 んで、ひょっとしてその流れはその後もさらに続いていき、 この和讃(18c?)までくると「地獄苦を替わりに受けてもくれない。ナデナデしてくれるだけ」 ‥‥ううう(;_;) (十王信仰が このへんに何かの影響を与えてるとは思うんですが。全然わかりません。) (地獄のひとつ上、「餓鬼」だと外部からの介入で救済される可能性はまだ 残ってるみたいですけど[URL]。)

 本人にはとにかく頑張って「ゑかふのとうをく (廻向の塔を組)」んで もらい、その功徳ポイントを貯めることで 自力救済されることしか救われる方法はないよ、というのは厳しいですね。

 大人であれば、どんな悪事をはたらいた人でも「臨終の十念」を 果たせば一発逆転の極楽往生の可能性がある[URL]という話を知っていると、 この子どもへの仕打ちはどうしたものかと‥。 (無論、「臨終の十念」は日本に浄土思想が浸透した初期の頃(10c)の話であり、 和讃は「葬式仏教」化がすすんだ頃(18c)の話ですから、800年くらいの時間差がある ものを単純に比較しても何の意味もないんですけど‥)


*註1
本文に「われをめいどのちちははと。おもふてあけくれたのめよと。」とありますが、 まさにそのとおり、親の冥途での代理人としての役割しか お地蔵様には与えられていない‥。 このへんから察するに、おそらくこの和讃の作者は空也上人のような、いわゆる「出家の方」では ないだろうな、という気がしてしまいます。その理由には2つあって、 (1)普通の人は 冥途にいってしまった子どもの親には なれないから、「冥途でも自分の意思のまま行動できる、善意あふれる方」を代理人に立てたい、 それは誰かと考えるとやっぱお地蔵様か‥という程度の発想しかなかったのではないか、 だから「抱きかかえて、さすってくれる」程度のことしかしてくれないのではないか。 (2)「出家の人」はお地蔵様にその程度の役割しか持たせない なんてことはしないだろう、 出家の人がこの和讃を作ったのならきっと お地蔵様は子どもらを無事に成仏させる方向で動くはず。‥と、このように妄想するからです。
*註2
 日本国外の例では「蘇生」、つまり「現世に差し戻し」以外の救出のしかたもあるようです。 たとえば「地蔵菩薩本願経」(大正0412)で地蔵菩薩の過去生を語るところ[SAT]。 過去生なので、正確にはお地蔵様による救出という訳ではない点にはご注意いただくとして。 地蔵菩薩が過去にバラモン女(聖女)であったとき、無間地獄に墜ちてしまった母親(悦帝利)のため 全財産を投げ打っての仏塔供養・布施を行ったところ、 「云承孝順之子爲母設供修福。布施覺華定自在王如來塔寺。非唯 菩薩之母得脱地獄。應是無間罪人此日悉得受樂倶同生訖」(779a20) (大雑把訳)「親孝行な子が母親のため覺華定自在王如來塔寺を供養・布施したので、 (地蔵)菩薩さまの母親が地獄を脱することができた‥のみならず、 無間地獄にいた者どもの罪もみな消えた」‥‥という話なんですが。 ここで、この母親は地獄を脱してどこに行ったのか。鬼王は聖女にこう言ってます: 「無至憂憶悲戀。悦帝利罪女生天以來經今三日。(779a19)」 (大雑把訳)「お嘆き悲しみなさいますな。悦帝利なる罪女は 3日前に天界に生まれましたから」 ‥「天界」とは あの六道のひとつ「天道」なので、あまり安心できない状況のようにも 思うのですが。とにかく「蘇生」以外の可能性もあるということで。(まあ『今昔』以外は 地蔵様話の内容をチェックしてないので、日本で「蘇生」以外の救出が本当に ないのかというのは現状では不明です為念。)
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