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西院河原地蔵和讃について

「西院河原地蔵和讃」 [URL]
(賽河原、賽の河原、佐比の河原‥とも)
に関するメモ。まだ整理できてないですが‥


[前] 賽河原は室町期から?

「富士の人穴草子」以外

[Table of Contents]

「天狗の内裏(十一段写本)」(室町時代)

詳しい年代などはよくわかりませんが、「富士の人穴草子」と同じく『御伽草子』に含まれる 「天狗の内裏」、この中にも「賽の河原」が出てくる箇所があります。

 ただ、ここで紹介する「天狗の内裏(十一段写本)」は、いろいろある写本の中で最も冗長というか 多弁というか、かなり書き足しが多い、かなり特殊な版本のようです。どれくらい特殊か? どれくらい書き足しが多いのか? ‥実は、ここで紹介する「賽の河原」のエピソード そのものがこの「十一段写本」にしか書かれてないほど特殊です^^;

 なのでここで紹介する「賽の河原」の話は、「天狗の内裏」そのものも成立年代よりさらに 後の時代の書き足しだろうなー、と。そういう推定ができてしまいます。 現存の写本は江戸時代中期頃の写しのようですから、 書き足されたのは室町時代から江戸時代初期まで、と年代にかなりの幅がありますね。

[大雑把訳] 急ぎ進むと割とすぐ、この世と迷途の境なる、「さいの川原」にご到着。 さいの川原と申すのは、十歳ならずに亡くなった、数え切れない子供らが、 父母、おん乳、乳母など、恋しく思って泣き叫び、 あわれ迷途の空の中、なさけの風よ吹いてくれ、元の世界に帰りたい、と 皆がそれぞれ泣いている。 地蔵菩薩が泣く子らを、ご覧になりて憐れまれ、 おとなし子には石積めと、幼い子には花摘めと。 あらむざんやな子ともらは、石一つくんては父のため、二つ組ては母のため、 三つ組ては諸仏のため。かような仕方で廻向する。 鬼は邪見の物だから、迷どの方から杖持って、組みたる塔を突きかえし、 摘みたる花を踏みちらし、子らを捕まえ食おうとす。 地蔵菩薩はこれを見て、鬼神の餌食にさせるかと、錫杖使って呼びあつめ。 助けを求める子供らは、地蔵の袂にしがみつき、助けを求めて泣き叫ぶ、その無残さは見てられぬ。 地蔵、子らをご覧じて、我こそここでの汝らの、父で母だと仰せらる。そのお助けは有難い。 これをご覧の御曹子、これは如何なる地獄かと、問えば天狗はこう答え。さいの川原と申すもの、 幼きものの地獄なり。 彼らは幼き者ゆえに、後生を願うこと知らず、罪業重ねることもなく、往生・堕獄ともに無く、 それゆえ娑婆と迷途の間、さいの川原に止まって、かような苦患を受けるのだ、と。 子どもを失いショック受け、子どものために法事して(?)、我が子に向けたお供えも、 ちゃんと地蔵に供えねば、地蔵も子どもも受け取らず。お地蔵様に供えれば、 お地蔵、供物を受け取って、子どもにお渡しくだされる。 子どもはそれを受け取って、悦ぶことは限りなし。 (横山・松本編(1981)「天狗の内裏(十一段写本)」『室町時代物語大成 第九』角川書店, pp.609b--610b. より大雑把訳。最後かなりあやしい)

 ここで私が興味深く感じるのは、ここです:

おさなけれは、とりわけ、後生もねかはず、さすか罪をも 作らねは、じやうどへもゆかす、地獄へも落す、しやばと めいどの、さかひなる、さいの川原に、居流て、かやうの 苦患をなしなけく (横山・松本編1981, p.610b.)
[大雑把訳] 彼らは幼き者ゆえに、後生を願うこと知らず、罪業重ねることもなく、往生・堕獄ともに無く、 それゆえ娑婆と迷途の間、さいの川原に止まって、かような苦患を受けるのだ、と。

 子どもたちは幼いから。それゆえ、善業を積むなんてことは知らない。逆に、 悪業を積むことも知らない。それゆえ善業も悪業も不十分すぎて、 浄土往生もかなわず、かといって地獄に堕ちることもない。行き先が決まらない。 それゆえ「この世」と「あの世」の境目である「賽の河原」にしか居るところがなくて、 そこで「あの世」側からやってくる鬼神どもに攻撃されるのだ。 そこで子どもらを守ってくださるのが地蔵菩薩であられる。‥‥んー。 子どもたちは何でそこにいるのか? 「地獄」というにはヌルすぎないか? という、(後述する)私の疑問に対して、それなりにちゃんとした答が出てますね。すごいですね! なんか「賽の河原」なるものの設定が進んでる気がしますね。 (ただ、地獄に堕ちるまでいかない子どもたちが行き着く「地獄でない地獄」というのは、 どう理解したらいいんでしょうね。地獄なんだか、地獄じゃないのか‥)

 この十一段写本については「本文の表記に訛りが見られる。おそらく、地方で語り物として 行われていたものなのであろう」(p.599)と書かれてますから、やはり、 語ってる最中に、語ってる人たち、そして話を聞いてる人たち、その人たちのモヤッとした 疑念を埋める方向に進化した、ってことでしょうか。

 ただこの理由は「後代の書き足し」、進化した「後付け」で間違いないと思いますから、 「賽の河原とは何なのか」の根本的な答にはならないですよね‥。 この考え方がその後広く浸透した訳でもないですし。

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