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古典日本にみる外道ども

「外道」が日本においてどのように受容されてきたかを調査してみます。 すでに暴走の域に入ってしまってます (^_^;

[前] 『日本霊異記』(9c) (その1)

『日本霊異記』(9c) (その2)

『日本霊異記』(9c) (その1) の、 つづきです

 「外道」ついでに、霊異記における非仏教な人たちについての描写を 見てみましょう。何といっても「外道」のそもそもの意味は「非仏教」という ことですから、その本来的な「外道」、すなわち非仏教な人たちが、 日本への仏教流入当初どのような描写をされていたかを確認することも 意味あることだと思うからです。

 ‥でも、これが意外と難しい。 「三宝を信じない」「因果の道理を信じない」者のうち、どの程度が 「仏教以外のものに対して信仰を持っているが、仏教に対する信仰は 持っていない」人間なのか、 どの程度が「単なる無知無教養」なのか、というのがよくわからんのです。

 そのあたりを意識しつつ、非仏教徒な人たちの描写を追ってみましょう。

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牛を殺して漢神(中05)

 異教徒は中巻の「異国の神のたたりで、牛七頭を殺して祭り、また生き物を放して やった善行で、現世に善悪ふたつの報を得た話 第五」に登場してきます。

 この人は、まあ、表題にもあるとおり、毎年牛一頭を殺して漢神を祭っていたみたいです。 すると七頭を殺したところで病気になって、改心して、いろいろな生き物を放して やるようにした、と。やがて その男が閻魔様の前に立たされたときに、この男の 処遇をめぐって、牛側(作中では「頭は牛、体は人間の形をした七人の非人」) と諸動物側(千万人あまりの人)が口論になった、と。こんな感じです。(東洋文庫 p.80)

  • 牛側「明らかにこの人が中心となって、われわれの手足を切り、漢神の宮に 祭って自分の利益を願い、なますに切って、肴として食べた」
  • 諸動物側「われわれはこの人の罪ではなく、鬼神の罪だということをよく 知っております」
で、最終的には多数決で諸動物側が勝利し、この男は無罪となります。 その結果かれは仏法への信心をさらに強くして云々‥というのがこの話のオチとなります。

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桓武天皇と「牛を殺して漢神」

さて。ここでの異教徒の描写について、改めて見てみましょう。 「牛を殺して漢神」について、じつは別のところでこんな話があります。 平安京遷都をおこなった桓武天皇にまつわる話のところで‥

桓武天皇の遷都が成った。以後、ライバルを退けた彼の独裁政治がは じめられるのであるが、あたかもそれを合図とするように、桓武の肉親に病人が出たり、社会 に異変や異象が発生した。そしていつしか、それが他戸親王の祟りであり、早良親王の怨霊に よるものであるとの噂が立つようになった。
 やがて彼は、さらに不思議な流言がささやかれているのを耳にする。このごろしきりに、諸 方の民衆が牛を殺して漢神を祀っている。そして漢神というのは祟り神のことだ、という。そ れならば彼らは、なぜ牛を殺して祀るのか。理由はあいまいであるが、これはさらに浮説が くっついていた。あの他戸親王と井上皇后が死んだ日も、そして早良親王が死んだ日も、みな 「丑の日」であったからだ、というのがそれだ。死者の怨霊と祟り神のはたらきが結びつけら れて、口から口へと伝えられていったのである。 (山折哲雄(1983)『神と仏』講談社現代新書, pp.131--132)
「霊異記」の成立年代は、桓武天皇の治世年代とそんなに離れていません。ですからたぶん、 ここで出てくる「牛を殺す漢神」と、桓武天皇を悩ませた漢神、祟り神は 同じものと見て間違いないでしょう。山折1983の記述からすると、たぶん、 この「牛を殺す漢神」の起源はいまいち不明ながら、当時の京都周辺では 民衆のあいだにそれなりに流行していたんじゃないかと思われます。 そして庶民のあいだで流行していたので「霊異記」にも入ったんでしょうね。

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仏教への回心を薦めてる?

 霊異記ではこの「牛を殺す漢神」を崇拝していた男は、病気を契機として改心し、 動物を殺すのをやめた、と。その結果、男が閻魔様の前に立ったとき、 閻魔様の前で多数決が行われ無罪となり、さらに仏法への信心を深めた。 ‥物語はそんな感じで続いています。つまりこれは、庶民に対して 「牛を殺す漢神」の崇拝を今から止めても間に合うよ、仏教に行こうぜ、 という回心を促すエピソードになってますよね。これについては、 ちょっと上で紹介した山折1983の、後続部分に‥

桓武の死後、平安王朝はにわかに仏教僧による加持 祈禱の儀礼を重視しはじめた。というのも怨霊信仰がしだい に広く流行するきざしをみせ、それに対応する呪的装置を制 度化する必要が出てきたからである。そしてその制度化のた めに活発に運動したのが空海であった。 (山折哲雄(1983)『神と仏』講談社現代新書, p.133)
こう書かれている部分と対応しそうですよね。民衆レベルのみならず 皇族レベルでも、「牛を殺す漢神」「祟り神」を抑え込み、人々を 最も幸せにする手段として「仏法」あり、そういう感じの流れが 作られていて、その流れが、身分の上下を問わず、大きな流れになっていた、と。

 ここで。何だかよくわからない「牛を殺す漢神」ですけど。 まあ、ざっと見ておきましょう。 すでに表題に「異国の神のたたりで」とあり、また物語中の台詞の中に 「この人の罪ではなく、鬼神の罪」とあることから、 漢神を信仰していた人であっても、 その人自身には悪の属性が染み付いてしまっているわけではなく、 単に一時の気の迷い・何かに騙されている・錯誤的状態にすぎない、 という扱いになっていることがわかります。つまりその異教徒たちは、 いま陥っている錯誤から抜け出しさえすれば それだけで問題は解決する、 だから早く仏法に帰依せよ、そういう構図ですよね。 つまり、カルトな宗教団体に属してしまった人たちに、 「おまえ騙されてるよ。はやくこっちに来いよ」と言ってる人たちと 似た感じですかね。それを考えると、割と今もあるような構図で、 あまり差別的、敵対的な描写とは言えなさそうです。

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普通人な外道、人外な内道

 視点を変えてみると、この、異教徒に対する描写って、わりと一般的というか何というか、 異教徒の人たちを、びっくりするほど普通の人間として描いています。 これはやはり「霊異記」の著者の周囲に実際そういった感じの人たちがいて、 その人たちとも(敵対することなく)割とおだやかに共生共存できていたから、 だからこそこんな「ふつーの人」的な描写になったんだろうとは思いますけど。

 これよりも時代が下って平安後期あたりになってくると、確実に蝦夷にも 仏教が浸透しているはずなのに、一般に蝦夷の人たちは まるで人間でないかのような 描写しかされないのと比べると、なかなか面白いですね。 霊異記の作者およびそれと同じ文化圏の人たちにとっては、きっと 異教徒よりも、蝦夷で仏教を信奉している人たちのほうが文句なしに 「外道」なんだろうな、と思ったりしちゃいました。

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「三宝を信じない」「因果の道理を信じない」者たちに関する記述

 「牛を殺して漢神」のような、あからさまな異教徒に関する記述は 他に見当たらないみたいですけど。それ以外の、 仏法に対する信心がない、と明示的に書かれてる者どもに関する事例を、 簡単にまとめてみます。 ( [参考]: 『日本霊異記』しおり )

僧の乞食を見て乱暴 上15(愚かな人で因果の法を信じない),
同上 上29(うまれつきよこしまな考えをもっていて、仏法を信じなかった),
同上 下15(生まれつきよこしまな考えをもっていて、乞食僧を嫌い憎んでいた)
同上 下33(生まれつき良くない性質で、因果の道理を信じなかった)
卵を食べていた 中10(生まれつき邪見で因果の法を信じない)
僧に悪口雑言 中11(生まれつき邪見で、三宝を信じなかった)
仏像を盗んでバレた 中22(生まれつき心かたくなで、殺人強盗を仕事にして、因果の道理を信じなかった)
道端にいた僧を打った 中35(よこしまな心の持主で、三宝を信じなかった)
要するに強欲 下26(うまれつき、仏道を信仰する気持がなく、欲張で人に物を与えることはなかった)

 ‥んー。仏法を信じないヤツらについては、「仏法を信じない、つまり 他の宗教(神?)を信じたことが原因で ひどい目にあってしまう」のと「(単なる粗暴で)ひどいことをしてしまうことが原因で ひどい目にあってしまう」のを区分できると面白いかも、とか思ってたんですけど。 ひどいことをしてひどい目にあってるヤツばっかりですね。

 仏法以外への信仰を持っていそうな人物もいないみたいだし。ううーむ。 イマイチつまんないなあ (-_-)

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その他

「非道」については、以下に記述がある。 上30,下26,下35

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