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古典日本にみる外道ども

「外道」が日本においてどのように受容されてきたかを調査してみます。 すでに暴走の域に入ってしまってます (^_^;

[前] はじめに

『日本霊異記』(9c) (その1)

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Text Information

「日本霊異記」は正確には「日本国現報善悪霊異記」といい、平安時代の 初期に編集された、上中下の三巻からなる説話集です。 編集者は薬師寺の僧、景戒という人みたいです。 編集は平安時代の初期に行われたみたいですけど、 霊異記の話の背景は大部分が奈良時代及び奈良時代以前という感じみたいです。 (以上、東洋文庫版 p.240 から適当にパッチワーク的引用)

 成立年代については、あまり正確なことはわかっていない模様ですけど、 ほぼ9世紀前半頃のものと見ておけば問題はなさそうです。奈良時代の背景を 含んでいるそうですけど、結局は景戒が咀嚼して記述したという点を考慮すると、 この話に出てくる「外道」の概念が奈良時代的用法・全国的展開を受けたもの であるかについては非常にあやしそうですよね。よって、この文献からわかるのは 景戒の時代・地域(薬師寺周辺)における「外道」概念にすぎないことは あらかじめ意識しておく必要はあるかもしれません。

 残念なことに私は東洋文庫に収められた以下の訳本しか持っていませんので、 基本、以下の訳本に基づいた調査となっています。

訳本
原田敏明,高橋貢 訳,『日本霊異記』(東洋文庫 97),平凡社,1967.
それと、ときどき他の本を参照することもあります。 ( [参考]: 『日本霊異記』しおり )

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「外道」関連箇所

 上記訳本を調査したところによると、「外道」について 以下の2例を見つけることができました。

  • 下巻「肉の塊から生まれた女が善をおさめて人を導いた話 第十九」 (p.192)
  • 下巻の「いやしい僧の乞食を打って、現に急に悪死の報いを得た 話 第三十三」(p.218)

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破戒の仏僧でも外道よりマシ(下33)

 まずは後者の事例から。じつは後者の事例は『大方廣十輪經』(大正410)からの 引用みたいです。なのでこれ、「日本における用例」には入れられないですよね。 入れられないですけど、せっかくなので一応紹介しておくと‥

そこで十輪経に「くちなしの花はしおれても、 なおほかの多くの花にまさってよい香りを放ち、戒律を破った大勢の僧も、なお大勢の外道者よりはす ぐれている。出家の人の過ちを説くのは、戒を破っても、守っても、戒があってもなくても、過ちがあ ってもなくても、それを説くのは万億の仏の身から血を出すより以上のことである」といっている。 (原田高橋1967, p.218)
所以に十輪経に云はく「薝匐の花は萎むといへども、なほ諸の余の花に勝る。戒を破れる諸の比丘も、なほ諸の外道に勝る。出家の人の過を說くは、もし戒を破るひとももし戒を持つひとも、もし戒有るひとももし戒無きひとも、もし過有るひとももし過無きひとも、説く者は万億の仏の身より血を出すに過ぎたり」とのたまふ (所以十輪経云、薝匐花雖萎、猶勝諸余花、破戒諸比丘、猶勝諸外道、說出家人過、若破戒若持戒、若有戒若無戒、若有過若無過、説者過出万億仏身血) (出雲路修校注(1996)『日本霊異記』新日本古典文学大系30, 岩波書店; p.179,287.)
「十輪経に云はく」とあるとおり、ここは『十輪経』からの引用文という感じのようです。 なので「日本における用例」という感じではなさそうなんですけど。でも一応、 材源のチェックを行なってみましょう。

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ネタ元チェック:十輪経

『十輪経』における対応箇所があるはず‥と見てみました。 これですかね?

瞻蔔華雖萎 勝於諸餘華
破戒諸比丘 猶勝諸外道 (大方廣十輪經(十輪経), 大正410;694b24) [SAT]
[大雑把訳] 瞻蔔華 萎れてもなお 華の王 破戒の比丘でも 外道よりマシ

 ‥あれ? つまり『霊異記』で『十輪経に云はく」として紹介されている部分を見てみると、

そこで十輪経に「くちなしの花はしおれても、 なおほかの多くの花にまさってよい香りを放ち、戒律を破った大勢の僧も、なお大勢の外道者よりはす ぐれている。出家の人の過ちを説くのは、戒を破っても、守っても、戒があってもなくても、過ちがあ ってもなくても、それを説くのは万億の仏の身から血を出すより以上のことである」といっている。 (原田高橋1967, p.218; 強調文字は引用者つまり私による)
この太字部分は『十輪経』になくて、『霊異記』もしくは他の文献による解説が、 あたかも『十輪経』の一部であるかのように混入してしまったんですね。へー。

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ネタ元チェック: 梵網經古迹記(大正1815)

 では。この太字部分はどこから流入したのか。どうでもいいことですけど、ちょっと 調べてみました。ここですかね?

如 本業經云。有而犯者勝無不犯。有犯名菩薩。 無犯名外道。又十輪云。占匐花雖萎猶勝諸 餘花。破戒諸比丘猶勝諸外道。説出家人過。 若破戒若持戒若有戒若無戒若有過若無過 説者。過出萬億佛身血。 ((『梵網經古迹記』(大正1815; 627b15) [SAT]; 出雲路1996, p.178脚注21,22にも情報が)
[大雑把訳] 本業経によれば「有罪ものは無罪のものよりマシ。有罪のものが菩薩であり、 無罪のものが外道なら」と。十輪経にも「占匐花は萎れても、他の花よりよい。 破戒比丘でも外道よりマシ。出家人の過失を説くのは、 破戒・持戒・有戒・無戒いずれの場合でも、万億の仏身から血を出す以上のことだ」と。

‥この『梵網經古迹記』という本に、 上の引用部分の後半部分の該当箇所もあります。『霊異記』は、ここからの引用ですかね。 (ちなみに「本業経によれば」の該当部分、探してみたら [ ここ (菩薩瓔珞本業經; 大正1485; 1021b15) ] みたいです。)

 ところで。元ネタとされた「十輪経」にある記述、つまり「仏教内部のサイテーのヤツでも、 それでも、外道よりマシ」という内容の韻文になってますけど。 ここでの「外道」、完全に「仏教以外の宗教」という意味になっているみたいです。 インドの大乗系にありがちな用例に見えます。

 そして「十輪経」の記述に、なにやら記述を追加した「梵網經古迹記」‥‥ええと、 朝鮮新羅朝の太賢(8c中頃?)という人が書いた「梵網経」の通釈書みたいで、 律、真言、法相では重視された書物、そういう感じみたいです(望月仏教大辞典から)。

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ネタ元チェック: 梵網經菩薩戒本疏 (大正1813)

「梵網経」の通釈ということはつまり、 「梵網経」にも該当部分あるかな? と思って見てみました。 「梵網経」には見当たらないんですけど、 その注釈書である『梵網經菩薩戒本疏』(大正1813)あるのを見つけました。

經云。占匐 華雖萎猶勝諸餘花。破戒諸比丘猶勝諸外 道。又經云。有犯名菩薩。無犯名外道。是故彼 犯猶不可輕。如牛雖死牛黄益人。破戒比 丘猶能生於人天十種功徳。如十輪經説。 (『梵網經菩薩戒本疏』(大正1813; 627b15) [SAT])
[大雑把訳] 経によれば「占匐華はたとえ萎れても他の華よりよい。破戒比丘でも外道よりマシ」と。 また経によれば「有罪の菩薩と無罪の外道がいても、有罪だからと菩薩を軽んじては ならぬ。牛は死しても牛黄(胆石)は人の役に立つ。比丘は破戒しても 人・天に十種功徳を与える」と。十輪経で説かれるとおりだ。

 ‥‥つまりこの表現、もともと「十輪経」にあるのを「梵網経菩薩戒本疏」が引いて、 それを「梵網経古迹記」が引いて、それを「霊異記」が引用した、そういう流れに なるんでしょうかね。 そして景戒は「梵網経古迹記」しか見てなかったんでしょうね。 「梵網経古迹記」にしかない記述を、「十輪経」と勘違いして引いちゃってますから‥。

 ‥と、「日本における『外道』の使い方」とは 全然関係ない話になってしまいました(^_^;

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肉塊から生まれた五体不満足な尼(下19)

まず該当箇所の引用から。

そのとき詫摩郡(いまの熊本県飽託郡)の国分寺の僧と、豊前国宇佐郡矢羽田の 大神宮寺の僧の二人は、その尼を憎んで、 「おまえは外道者だ」 といって、嘲笑し、あざけってからかうと、(後略) (原田高橋1967, p.192)
時に託磨郡の国分寺の僧とまた豊前国宇佐郡の矢羽田の大神寺の僧と二人、彼の尼を嫌みて言はく「汝は是れ外道なり」といひて、啁し呰りて嬲る。 (時託磨郡之国分寺僧、又豊前国宇佐郡之矢羽田大神寺僧二人、嫌彼尼言、汝是外道、啁呰嬲之、) (出雲路修校注(1996)『日本霊異記』新日本古典文学大系30, 岩波書店; p.156,276.)

 ここでのポイント。

  • 「憎んで」「嘲笑し、あざけってからかう」意味内容を「外道」が含んで いること。
  • 「尼」すなわち出家者に対して「外道」という単語を使っていること。
ちなみに、なぜ「尼」なのに「外道」と呼ばれたかというと、それはかの尼の 身体的な特異性に原因がありそうです。曰:
  • 肉の塊として生まれた。じつはその肉の塊は卵のようになっていて、 その肉の塊のからを破って彼女が(再度?)生まれた。
  • 頭と頸がくっついて、あごがなかった。身長は三尺五寸であった。
  • 女陰がないので結婚はできず、ただ尿の出る穴だけがあった。
これを見てると「殻に入って生まれるということは、産道を通る苦しみは なかったわけか」「性器がない人って、誰かいたなあ」とかイロイロ思ったり するんですけど、まあ、それはともかく。要するに この尼は人間離れした 身体を持っていたので、出家の身にもかかわらず「外道」と呼ばれた、と。

 

 さて。 では、なぜ「人間離れした身体を持っていると外道」となるのか? --- ちくま文庫版を立ち読みしたところ(すみません>関係者の方がた)、 「根が揃っていない者は出家できなかったから」(うろおぼえ)といった 説明が書かれていました。たしかに戒律関係のテキストには 「無手・無足などの人間は出家できない」旨の記述がありますから、 ということは、こんな感じですかね:

民衆から尊敬されていた尼に対する嫉妬 --- そしてその嫉妬の裏には 「なんだ女のくせに。しかも不具のくせに」という気持ちがあった だろうことは想像に難くない。ゲスはゲスの心を知る。.. ん?! (^_^; --- を持った僧どもは、どうしても尼のイメージが悪くなるような悪口が 言いたい。そこで戒律の条文をタテにとって「このニセモノめ」すなわち 「あいつは徳が多くないから敬ったって意味ないぜ」と 言うことにより、尼の人気急落を図った。
「ヤツはダメだ。インチキだ」という意図をこめて、他の出家者(たち)を 「外道」と呼ぶのは何となく日本的だなあ、という気がしないこともないですけど。 この用例では「外道」の根拠を「身体的な特徴」に置いている点で 非常に気になる用法といえるかもしれません。

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「差別」か?

 この構図を差別問題と結び付けて考えてみましょう。 通常の人間とは異なる出自をした彼女は熱心に仏道に励んだわけですけど、 彼女を憎んだ僧どもが彼女を不当に卑しめ、彼女に損害を被らせることを 目的として「外道」呼ばわりをしたことになります。それゆえ、ここでの 「外道」という単語の用法は差別的な意図をもったものといえましょう。

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[付記]

講談社学術文庫版では、この「外道」について原文そのまま「外道」とせず、 「異端者」という訳語がつけられていました。 どう異端なのか、よくわからない。‥ですけど、想像するとアレですかね。 「不具者だから出家できない。出家できないクセに尼を自称するニセモノ」と いう感じならアリでしょうか。でもそれは「異端」とは違いますよね‥

 霊異記において、「外道」とはされていないが、 あきらかに異教徒として描かれている人、また仏教外にいる人たちの描写については、 次のページへ

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