『レインボーマン』分析編
[Table of Contents]はじめに
不覚にも熱くなりすぎて前ページが非常に長くなってしまいました。
ということで前ページの続きです。
[Table of Contents]師(guru)
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ダイバダッタ。
主人公ヤマトタケシの師ですね。そしてまたヤマトタケシ的には「ありえねえ」と
思うようなことをやるよう、次々と指示される。タケシは「ウソだろ?」と思いながらも、
師の命令だからというだけの理由で従う。毒まで飲まされてますし。でも、
後になると その師の意図がわかってくる
‥‥完全にグルですねこれ。
ヤマトタケシは「お師匠」と呼んでますし。
(このように「騙されたと思って、やってみる」というのは結構重要だと思うんですけど。
でも昨今は「騙されたと思ってやってみたら、本当に騙されてた」というのが多いですからね。
そのへん難しいところですけど。ヤマトタケシはそのへん幸せな出会いでしたね)
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第二話の後半での台詞
「おのが命を尊いと思えば、他人の命も尊い」‥
子ども向けの特撮番組で、これをこのまま堂々と語ってサマになるキャラって、
滅多にいないと思うんですけど(とくに
特撮ヒーローの基本は、「悪は、殺せ(退治しろ)」ですからね)。
そういう点でこの「聖者」の設定は活きてますね。
無論、ダイバダッタ役の井上昭文さんの熱演も素晴らしいのは間違いないですけど。
[Table of Contents]神通力
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超自然的な力を持っていますけど、これは、
「さとり」を開くための修行の途中で身に付くとされる「リッディ」(神通力)の一部だと考えれば、
十分アリですかね。リッディより先にある「さとり」の域まで到達してたかどうかは、
よくわかりませんけど。でも「奇蹟の聖者」を体現する存在として描かれてますから、
たぶん「さとり」に達していたんでしょう。
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でもリッディを行使する際に、ダイバダッタ師が「遠当ての術」でしたように
「呪文ののち「どわぁ」と叫んで両腕を振ると、
岩石が粉々」‥という手順を取るのかどうかというのは謎です。
個人的には、呪文を唱えてる最中に その呪文のチカラによって岩石が粉砕される‥
となってると面白かったんですけど。「呪文ののち両腕を振って」だと、まるで
目に見えない「かめはめ派」ですよね。呪文のチカラというよりは、
呪文によって心統一をおこない「気」をためて撃つ! と。‥‥ん?
そっちの方が「修行の成果」としても、特撮ヒーロー物としても、いいのか。
インド的でなくなってしまう感じはしますけど、まあ、
最終的に大事なのは「見てる人がグッとくること」ですから‥
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「若い男が私を訪ねてくるというお告げがあった」
「この男がワシに遣わされた者なら」などの台詞があったんですけど。
これはつまり、ダイバダッタ師よりも上位にいる何者かの存在を予感させますけど。
けどまあ、それは浄土真宗における親鸞上人と阿弥陀仏の関係的なイメージでOKですかね。
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先輩がタケシにダイバダッタを紹介するところ。何故、先輩はタケシに
ダイバダッタの話をしようと思ったんでしょうかね。
「とにかくプロで生きるには、技だけではなく、たとえ相手に刃物を持たれたとしても
かすり傷ひとつ負わないぐらいの特殊な訓練と、肉体を持たなければダメだ」
‥とありますから、ここから考えると、どう考えてもダイバダッタの
超自然力が念頭にあったんだろうと思いますし、その後にある
「この老人は、世界でただ一人、奇蹟を行う力を持っている人だ」の「奇蹟」についても、
やっぱ、その文脈で考えると、超自然力が念頭にあるんでしょうね。
要するに「世界で唯一の、ホンモノの超 能力者だ」と。
[Table of Contents]超能力
(ここはもうちょっと整理が必要)
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あと、どうでもいいですけど。先輩がタケシにダイバダッタを紹介するシーン。
「一種の、超 能力者だ」と言うんですけど、その言い方が「ちょう、のうりょくしゃ」
‥つまり、「ちょう」と「のうりょく」を区切って発声してるんですよね。
今だと「超能力」というのが一単語になっていて、だから、どこも区切らず「ちょーのーりょく」と
言うと思うんですけど。その頃はまだ「超能力」という単語は一般化してなかったと
いうことなんでしょうか。
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‥‥ということが気になったので、
Wikipedia の「ユリ・ゲラー」の項目 [URL]見てみました。
これによると、日本での超能力ブームは1974年とあります。
レインボーマンの開始は1972年で、それより前!
‥なるほど。つまりユリゲラー以前は、子ども番組においても「常人が持たない
超 能力を身につけるには、常人を越える修行(訓練)が必要。
だって「超」なんだから。
「たまたま生まれついて持ってた」なんて、子どもだってシラけるよ」という
感じだったんでしょうか。
(でも。ということはつまり「超能力とは、(それをすでに持っている人が)覚醒するもの」という、
今となっては あまりに当然すぎる設定って、
ユリ・ゲラーがその出発点ということなの? とか考えると、ちょっと面白い)
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いや、でもダメか。覚醒型の超能力系のお話ということで
パッと思い浮かんだ幻魔大戦(マンガ版)が1967年スタート‥。
でも打ち切りだからなー。「子どもだってシラける」の典型例の可能性もあるし。
さらに。「超能力は、生得的なものに覚醒するもの」となると、超能力者になる者に
それまで必須だった特訓が不要になるため、そうなると「グル(鬼コーチ)的な人」が不要に
なり、だからダイバダッタ師みたいな人がだんだん出現しなくなるのか。
(そっち系の有名人としてピーター・フォルコス(Peter Hurkos)という人もいますけど、
この人が日本で話題になったのはいつ頃かというのがよくわからない‥。
テレビ朝日が「水曜スペシャル」で1976/10/06に特集番組を放送してるみたいなので、その頃か? とも思いますが、
「チャージマン研!」(1974)の主人公ケンのモデルになったという話もあり、そうすると1974年より前には、日本でもそこそこ有名人ということか?)
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え? ‥ということは、待てよ? ここで言われてる「超 能力」というのは、
ユリ・ゲラー以降、普通に言われるようになった「超能力」とはその意味内容が
微妙に違ってる可能性がありますね。これは別のページで紹介した、
アニメ Fantastic Voyage (1968)とかも‥いや、それはアメリカ産だから、それを
混ぜると訳わかんなくなるか。いずれにせよ、とりあえず、ユリ・ゲラーのブームの
前後で「超能力」という単語の意味内容が変わった可能性がある、と
指摘だけ しておきます。
(少なくとも、日本における超自然力を身につける方法のステレオタイプが
「苦労して身につけるもの」から「生まれつき身についてるもの」に変わった可能性は
高そうだな、とは思います。
超自然力のファストフード化というか何というか。
映画版の幻魔大戦(1983)
とかですと完全に「覚醒」ですし、これが
「サルでも描けるまんが教室 (1989) [Wikipedia]の頃になると「イヤボーンの法則」として定式化されてますからね‥)
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さらに調査を進めたところ、同じ「レインボーマン」の中にこんな台詞があるのを
見つけました。
オルガ「レインボーマンの超能力をそなえた体質は他人には移し替えられないの?」
ロリータ「残念ながら、そのようね」
(第37話「Xゾーン破壊命令!!」)
ここでオルガが言ってる「超能力」ですけど、普通に「ちょーのーりょく」と言ってます。‥‥
んー、ちょっと残念かな。ただ「超能力をそなえた体質」という言い方は面白いですね。
つまり、ここでの「超能力」というのは精神的なものではなく、あくまで物質的物理的な
イメージなんですかね。
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超能力は「獲得するもの」なのか「生得的なもの」なのか。それとちょっと関係するかも
しれないし関係しないかもしれない話を見つけたのでここでちょっと引用します:
遠野には、山の神が乗り移ったなどといって、占いをする人はよくあり、土淵村柏崎
の孫太郎もその一人。以前は発狂して本心を失くしていたが、ある日、山に入って山の
神からその術を教わり、自分のものにしてからというもの、不思議に人の心中を読むよ
うになり人々を驚かせた。‥(略)‥
ここに語られる孫太郎のありようは、沖縄をはじめとする南島
でいまなお人々の暮らしに大きな役割を担っているユタ(霊能者)にそっくりだからで
ある。
本土では山伏や修験者のように、人が霊的な力を得るには厳しい修行を必要とするイ
メージがある。人間の側が強い意志で努力して初めて神と近づくことができる。だが、
南島ではそうではない。修行などしなくても、勝手に「神ダーリ」という「巫病」にか
かるのである。自分で望んだわけではなく、神の方からやってきてとりつく「病」を経
るのだ。
(谷川ゆに(2018)『「あの世」と「この世」のあいだ たましいのふるさとを探して』新潮選書794.,
pp.125--126.)
伝統的な日本の解釈は「獲得するもの」ではあるものの、獲得の方法には大別して2種類ある
といえそうですね。本土の方法、というか仏教・修験的な方法はとにかく「厳しい修行」。
「レインボーマン」は完全にこの系統ですよね。それに対し、日本の土着信仰的な方法は
「神がかり」。本人の意志とは関係なく、ある日突然、当事者に憑いてくるもの。‥んで、
この「神がかり」は幻魔大戦とかユリゲラーの超能力に近いのか? というと、あまり
近くはないですよね。「神がかり」ではないもんなー。それよりもやっぱ「じつは生得して
いたものに覚醒」ですからね。「神がかり」というより
「憑き物筋」に近い
感じがしないこともないです。
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ヤマトタケシは最初、超 能力を身につけ、
超 能力を使って 最強のプロレスラー、「世界最強」を目指してます。
卑怯じゃね? ‥と、ちょっと思いますけど。でも考えてみると。
いわゆる「突発的に覚醒した超能力」の行使であれば、その能力をもたない者が
圧倒的に多い状況の中では「卑怯」に該当するかもしれません。しかし今回のように
先天的な潜在力ゆえの超能力ではなく、まさに死ぬ思いをしてまでの猛特訓の結果、
ようやく超 能力にたどり着いた! という場合「タケシは卑怯だ」と思った人たちにも、
じゃあ お前らもあの特訓すればいいじゃん、あれに耐えきれるならさー、という
反論も可能ですから、それなら卑怯とはならないのか‥な?
[Table of Contents]その他
レインボーマンは私が愛してやまない作品ですので、ストーリー等について
語ってしまうと収集がつかなくなるので語りませんけど、語りません。