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能代三十三 (札打ち) -- 久保田三十三との比較

The 33 Kannons of Noshiro, as a resemblance of the 33 Kannons of Kubota (Akita City).

 

Introduction // はじめに

(Brief summary in my poor English) Pilgrims of the 33 Kannons of Noshiro do "fudauchi", to dedicate the slips of paper on which the posthumous Buddhist names of the dead family members are written. Isn't it a bit like the slips of "the 33 Kannons of Kubota"?

なんか久保田三十三所(秋田市)の付録のような 扱いで申し訳ありませんが、能代三十三について現状で私に語れることが ほとんどないこと、また能代三十三について私がはじめて言及したのが「久保田(秋田市)の 札打ちに似たもの」としてであったという(私自身の)歴史的経緯により、 現状このような位置づけになっております。あしからずご了承ください。

 能代にも「戒名を書いた札」を、三十三観音札所に納めて回る、札打の風習があるようです。 『能代市史 特別編 民俗』の記述から、能代の札打の特徴をまとめるとこんな感じのようです:

  • 日時は五月一日二日と、九月一日二日。二日ずつ年二回
  • 亡き人の供養が主目的 (遺影持参が基本な感じ。しかもずいぶん古そうな写真もある感じ)
  • 「札打ちはたいてい女の人が、鉦コを鳴らしてくるとされ、札所となる各観音堂に 行くと、札を納めて、念仏三十三番、フダラクをあげて、木魚・リンを鳴らして拝む」(p.647)
  • なぜ、いつから供養の観音巡りをするようになったのかは『能代市史』には書いてない
  • 札打ちに先導がいる。長慶寺というお寺のお坊さん(ご住職?)[*1]。ただ札打ちは宗派関係なし
  • 札打ちは三年以上続ける。続けないと「供養も届かない」
  • 写真を見ると「南無大悲観世音菩薩」(大慈じゃないはず)という文言が札の真ん中に 書いてある。戒名はその脇に
細かい点にいくつか違いは見られますが、大まかな点では かなり似てると思います。 秋田と能代といえば どちらも江戸時代の佐竹領、 そして佐竹領になる前の段階からすでに片や檜山安東氏、片や湊安東氏の本拠地の近くですので、 どっちが先とかいうのはともかく、昔からお互いに色々と影響を与え合っていても 何の不思議もない、というかものすごく自然な感じですからね。 『能代市史』には「海難死の人の供養は、特に供養を 怠らないようにとして、札打ちには命日と合う番号のフダラクをあげてくれる」 (p.648) とありますが、この「フダラクをあげる」という言い方、また「三年」という期間の決め方を 久保田以外では私はほとんど見かけない ものでしたので、個人的には そのへんにも共通点を感じることができます。

 ただ久保田三十三のほうは「1月16日になったら、巡礼したい人が自分で勝手に札を用意して、 勝手に札を(所定の位置に)貼って回る」ものなのに対し、こちらは長慶寺さんという 先導さんがいらっしゃいますので、巡礼を希望する際は長慶寺さんへ事前に連絡して 所定の札を実費購入する必要があるみたいです。 実際に巡礼する際の いちばんの違いはそれかもしれません。

*註1
久保田三十三との関係を考えるうえで、この長慶寺さんの存在というのは結構重要かもしれません。 秋田市寺内にある西来院さん[*]のページの 「歴史由来」のところに書いてあったんですけど、西来院中興の祖(になるのかな?)の 良殿和尚が能代長慶寺のもとで修行し、のち郷里に五百羅漢堂建立の計画を立てるが (長慶寺の、ですよね?)師に「能代じゃなく久保田御城下に作れ」と助言をいただいたので 廃寺同然となっていた西来院を復活させて五百羅漢堂を建立した(これが1800年頃)、と。 この西来院さんには自前の(?)三十三観音の 石仏がありますので、西来院と三十三観音を間にはさむと、久保田と三十三観音と札打ちと 長慶寺さんが繋がってくるわけです。わけですけど‥我ながら、こじつけくさすぎだな(^_^;
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