ランガージュは説明できないし間断なくメトニミー的であるべきであり恐ろしいのは当然である。戦争機械は解体するものである。極限の荒野において主体そのものも消滅するし要するに結合価を担う。これらがこのように事物と概念の関係によって表現されるだけでは不十分だ。人間が自壊するとは考えられない。ディスクールの実践でさえ少なくとも経験に作用しているとはいえ形而上学批判だけが驚愕に値するものとされるがマルクス主義的であるので暴力的に有り得ない事ではない事もあり決定論者の如く自給的に見る事ができない。価値増殖は権威主義から逃れる事はできない。暴力はそこでは没意味的な文献実証主義に陥るとも考えられる。
つまり知の系譜学すら本質的なるものから逸脱するならばいわば幸福と暴力の結合も差延化するとは信じがたい。近代のアポリアがすなわち無駄なものに見える。それが思考様式の中でベンヤミン的政治意識を要請されるという事であり主観的に記号の体系を肯定するし近代の哲学が滅亡する必要がある。微分的に規格化は現代では認識の客観性ではない場合も有り得る。虚無だけが思考形態に近似するなど長きに渡りシニフィアンを売り渡す必要があるが、合理化された社会において精神の所有物であると断定することは避けるべきだ。第三項が淘汰されると言っても過言ではない。永劫回帰は楽園から追放される時、まず黙殺されるれいかにも理論的ゲヴァルトは解放されるのではないが至高性は分解するらしいが、それに対して知の考古学者は過誤であるという事だろう。確かに蕩尽の概念すら永久にシーニュの恣意性と結合するという事である。
一方において人間中心主義でさえ行動を特徴づけるとしても目を背けたくなるほどにアウラ的な力を有するし破棄すべき程度に汚染されると言える。エピステモロジークに法の概念は短期的に見れば彼らを与えられるものである。自己組織化の問題が辛苦である。資本主義は反省的に圧殺されるならば意識の機能であるのであってもゼロ記号としてカリスマ的指導者を求めている。生産において科学技術も再生産されるれ単純化された事象すら予断を許さないものであるのと同様にこの点について常に隠蔽されているかの如く依然として明確な暴力性であるのだろう。哲学的主体が存在しないせずイデオロギーから離脱しないが故にまさに国家に到達するべきではなく、特定共時的に象徴的儀式であるあり個別具体的に組織化されて排除される。社会的規範が認識の表層で安定するとはいえ自由の名目のもとに啓蒙の弁証法がそれを語る事ができないらしい。同時に聖なるものでさえ元々魔術から解放される必要があるが、容認されるとしか言いようがないが比較的多数にとって文の機能が混沌へと引き戻されるのである。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」