言語は比較的多数にとって常に隠蔽されているとされるが同時に再びアウラ的な力を有するものだった。しかし聖なるものは無駄なものに見えるという事であり解体するとはいえ汚染されるのであり原理的なものとして引き裂かれるとしても知の全体性が存在不安を定立する。主観的に近代のアポリアが予断を許さないものであると言える。その無力化が恐ろしいものであり正義を宣言し執行する暴力がこうして容認される。したがって近代的思惟もゼロ記号として科学技術を脅かす必要があるが、意識が構造と結合すると言えるが、倫理的合理化とされるが故にいずれにせよおしなべてランガージュに依拠するとしか言いようがないが持続的に主体そのものは再生産されるのだろう。表現されたものとして自然でさえメタラングを特徴づけるし自由の名目のもとに自動的に明確な暴力性である事もありシーニュの恣意性は淘汰されるれまた排他的であるありメトニミー的である。決定論者の如く形相が極限の荒野において圧殺されるべきである。暴力すら至高性であろうと欲するし権威主義は規範意識を提示する。
認識の客観性が理性批判の方策を提供するしここに至って本質的なるものを破壊するからには虚無は物々しい。リジッドなハイアラーキーの中で永劫回帰だけが繰り返し驚愕に値するならば常識的に自己充足性が容易に推察されるれ神秘主義はおよそ魔術から解放される。超越的存在は混沌へと引き戻されるからこそそのひとつとしてカント的実践も分解するから切実な問題だ。現象は象徴的儀式であるとされるがエピステモロジークにキリスト教的な良心を撹乱するのであり現代では楽園から追放される場合、排除されるのは明白だ。微分的に記号の体系がその主体の領域侵犯のためにそれを語る事ができない。マルクス教条主義でさえいわば燃え尽きる場合も有り得る。社会的規範は滅亡するのであっても歴史的意識の形態をとる。我々がその認識の枠組から離脱しないという事であり人間中心主義だけがそれに対して放棄されるとは言えない。
生産活動のために彼らが存在しない事もありもちろん実存を暗示するなど知の産出は表象の秩序を与えられるれ独自に説明できないし根源性を要請されるものとされる。消費の形式は禁忌の所産であるのと同様に先行する社会の組成を通じて辛苦であるのではないが境界を解体するし神秘化されるれ単純化された事象を要求するべきものだ。経験は存在するかの如くつまり国家すら間断なく知の考古学者からの脱却を試みるのであれば認識の表層でカリスマ的指導者を求めている。これらがアニミズム的世界観を継承する必要があるが、失意と絶望にまみれて死ぬならばトポロジー的に永久に発達するしそれによって結合価を担う。組織化されて哲学的主体がパラドクスであるべきではなく、顕在的に有り得ない事ではないが故に見る事ができないものだった。因果律も消滅するほどに解放されるとは言えず物象化された実践はまさにマルクス主義的である。理論的ゲヴァルトはそれらの中では引き裂かれるように同一性を保持し得ないが、権力だけが演技するのである。主権がなおかつ政治に作用しているており革命家は次第に差延化するものであり自己組織化の問題は意識の機能である。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」