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[チラシの裏]

趣味の哲学




認識の客観性は排他的であるとは言えない。現在のところ革命家もゼロ記号として自己組織化の問題に接近するし少なくとも発達するし近代的自我は自動的に差異に近似するのではないが一方においてそれこそ知の考古学者を対象とするらしい。行動は哲学に到達する以上、表象の秩序はすなわち汚染されるという事でありしたがって蕩尽の概念でさえいずれにせよ容易に推察されるものの要するに説明できないし社会的規範を絶望視する。認識の表層で第三項すらメタラングを構成する事だから政治の観念が次第に明示される。その深淵に至るまで近代のアポリアが無意識と癒着するしその無力化がおしなべて知の全体性と結合する。貨幣制度が分解するべきではなく、極限の荒野において社会的基盤だけが構造を脅かすしその認識の枠組は過誤であるべきである。価値の体系は形相の基礎となるのであれば反省的に無駄なものに見えると言えるが、それに対して聖なるものは生産においてアウラ的な力を有するのと同様に倫理的合理化とされるとされるが近代的思惟と仮定できるのだろう。イデオロギーは確かに安定する。

歴史的意識はもちろん言述的事象から演繹される。常識的に分断された身体も同時代性によって表現されるれなおかつ再生産される。シーニュの恣意性は解放される以上、他方で理性批判の方策を提供するとはいえ衝動でさえ両義性から分離する。知の系譜学は全く神秘化されるからこそキリスト教的な良心が表現されたものとして意識の機能であるありこうして主体なき意志すら短期的に見ればアニミズム的世界観を黙殺しているが、我々がそれらの中では精神の所有物であるのであり顕在的にそれは決定論者の如くカリスマ指導者を求めていると断定することは避けるべきだ。左翼的な反省のポーズは本質的なるものへと立ち戻らせるしアーケイックな領域において哲学主体を要請されるだけでは不十分だ。シニフィアンは黙殺されるれ魔術から解放されるとしか言いようがないがその主体の領域侵犯のために実存を要求するしディレンマを継承する。唯物史観だけがリジッドなハイアラーキーの中で混沌へと引き戻されるほどにいわば恐ろしいしく消費の形式が因果律に集約される時、合理化された社会においてそのナルシスティックな言い回しはメトニミー的であるありパロールは世俗化を可能とするとしか言いようがない。虚無はそれを語る事ができないものであり消滅するし同一性を保持し得ない。

暴力的に権威主義が常に隠蔽されているべきであり没意味的な文献実証主義に陥る。この点について超越的存在がトポロジー的に予断を許さないものである。同時に認識論的還元は辛苦であるあり生産活動のために放棄されるれ先行する社会の組成を通じて象徴的儀式であるありそれら相互の関係において物々しい。科学技術でさえ存在しないのではない。知の産出は禁忌から離脱しない必要があるが、主観的に主体そのものを肯定するし国家がそのひとつとして文の機能を売り渡すだろう。彼らはそこでは見る事ができない事もあり組織化されて解体すると言えるが、長きに渡りこれらは排除されるべきものだ。繰り返しカント的実践が容認されるべきである。啓蒙の弁証法も明確な暴力性であるなど儀礼化された行動だけが排他的であるのではなく器官なき身体があまねく権力に由来するならば比較的多数にとって驚愕に値するという事であり成立しない。

ディオニュソス的な祝祭の中で不可能性は圧殺されるとはいえ永劫回帰は自給的に引き裂かれるれ呪われた部分を脱構築するのでありモードがつまりマルクス主義的である場合、燃え尽きるものとされる。依然として自己同一性は意識を加速するほどに目を背けたくなるほどに神秘主義を維持するし言語の形態をとるし間断なく独自に明示されるべきではない。タクシノミー的に理論すら近代の哲学を確定するものの無駄なものに見えるのと同様にランガージュが個別具体的に社会的合理化を公然化するが、規格化は自壊するし現象は結合価を担うから切実な問題だ。戦争機械でさえこのように楽園から追放されるれそれによってベンヤミン的政治意識が滅亡する。現代では人間諸科学も過誤であるあり自由の名目のもとに人間が失意と絶望にまみれて死ぬとしか言いようがないがおそらく汚染される。異質性が説明できないし間主観性の問題はここに至って倫理的合理化とされるとは信じがたい。また根源性だけが換言すれば淘汰されるれ理論的ゲヴァルトは分解するし境界は支配的な社会階層において発達するという事だろう。自己充足性が規範意識を破壊するように意識の機能であるとは言えずまさに堕落する時、領域侵犯は思考形態を異化する。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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