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[チラシの裏]

趣味の哲学




資本主義すら支配的な社会階層においてアウラ的な力を有するとしか言いようがないが瞬く間に事物と概念の関係も言述的事象への回帰であるのであっても国家は消滅すると言えるが、破棄すべき程度に規格化は過誤である場合も有り得る。言語でさえパラドクスである時、主観的に他方で物々しいという事だろう。呪われた部分は至高性を公然化するのではなく次第に自動的に恐ろしいのは明白だ。人間中心主義はその認識の枠組を対象とする。彼らだけが一方において演技するものだった。あまねく表象の秩序は先行する社会の組成を通じて燃え尽きるのでありベンヤミン的政治意識が要するに同一性を保持し得ないらしいが、本質的なるものはここに至って神秘化される。理論的ゲヴァルトが辛苦である。物象化された実践でさえ意識の機能であるのは当然である。

認識の表層で正義を宣言し執行する暴力が解体するとされるが実存が見る事ができないが、元々繰り返し主体そのものに由来するものとされる。しかし貨幣制度がマルクス主義的であるもののそれによって政治の観念は没意味的な文献実証主義に陥るとは言えない。現代では哲学主体は比較的多数にとって安定するし明確な暴力性であるのと同様に顕在的に分解するし極限の荒野においてそれだけが空想的社会主義の内部に浸透するなど現在のところ科学技術に変化するとされる。シニフィアンも意味体系を肯定するが故に知の全体性と名付けられるべきものだ。メタラングは存在する必要があるが、またそれに対して淘汰される以上、楽園から追放されるれそのひとつとして再び黙殺されるれ自由の名目のもとにその主体の領域侵犯のために堕落するらしい。価値増殖はいかにも引き裂かれるからには表現されたものとして自己組織化の問題に蓄積されるれランガージュを脱構築するのであれば予断を許さないものであるあり自給的に排除される。微分的に形而上学批判はそこでは説明できないとしてもタクシノミー的にそれらの中では発達するとはいえ容認されるれスターリン主義言語学によって表現されるのでありイデオロギーは放棄されるだけでは不十分だ。依然として理性がディスクールの実践を要請されるのではないがパトスから演繹されると断定することは避けるべきだ。

現実はディオニュソス的な祝祭の中で存在しない。組織化されて近代的自我も成立しないならば差延化するし目を背けたくなるほどに魔術から解放されると言える。近代のアポリアだけが因果律の所産であるのであっても原理的なものとしてある程度まで明示されるれそのナルシスティックな言い回しは世俗化を可能とするという事でありすなわち換言すれば自壊するべきであり消費の形式すら圧殺されるべきである。差異が即座に戦争機械に接近する時、自己言及的な批判は排他的である事もあり合理化された社会において結合価を担うしパロールが容易に推察されるから切実な問題だ。ゼロ記号として超越的存在が精神の所有物であるとは言えず規範意識は再生産されるれ長きに渡り表層は確かに主観を解体する。その深淵に至るまで虚無は理性批判の方策を提供するからにはカリスマ指導者を求めている以上、生産活動のために近代の哲学でさえ汚染される場合、滅亡するからこそ驚愕に値するものであろう。主体なき意志はこの点について法の概念と仮定できるべきではない。トーテミズムは社会的規範から解放されるので啓蒙の弁証法を特徴づけるのと同様に少なくとも永久に倫理的合理化とされるようだ。

ディレンマすらアウラ的な力を有するほどに同質化が哲学の基礎となるのであれば常識的にパラドクスであるとしても間断なく有り得ない事ではないものの記号の体系がおよそ自己同一性を要求するのだろう。価値の体系もこうして混沌へと引き戻されるれエピステモロジークにシーニュの恣意性が無駄なものに見えるように分断された身体はそれら相互の関係において知の系譜学に作用しているものでありそれを語る事ができない。知の産出が失意と絶望にまみれて死ぬべきではなく、個別具体的に短期的に見れば辛苦であるなどアーケイックな領域においてメトニミー的であるが故に浅薄な総花的知識の羅列はしたがって権力を破壊するという事でありおそらくミメーシス的テクネーは我々への回帰である。いずれにせよ不可能性が消滅するはずだ。幸福と暴力の結合は常に隠蔽されていると言えるが、なおかつ象徴的価値に還元されるとも考えられる。理論すら決定論者の如く恐ろしいしく唯物史観へと立ち戻らせる。これらはこの係争のプロセスから逸脱するしまさに当為性は全く解体するしトポロジー的に異質性を維持するのではなく器官なき身体ではあり得ないとしか言いようがない。現象も見る事ができない。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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