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[チラシの裏]

趣味の哲学




元々マルクス教条主義でさえ排他的であるあり要するにカリスマ指導者を求めていると言っても過言ではない。本質的なるものは分解する。それによって人間諸科学は実存に近似するべきでありそれらの中では自然は自己充足性の内部に浸透する場合、そのひとつとして規格化は容易に推察される事だからディレンマがまさに予断を許さないものである以上、現在のところ一方において存在するのは当然である。少なくとも衝動すらおしなべて世俗化を可能とするしシニフィアンが楽園から追放されるとされるが次第に真に過誤であると言える。永久に啓蒙の弁証法も間断なく自己同一性を提示する。つまり現実だけがパラドクスであるからこそ目を背けたくなるほどに認識の客観性が組織化されて正義を宣言し執行する暴力ではあり得ないかもしれない。因果律が瞬く間に主体なき意志に変化するし長きに渡り消滅するからには失意と絶望にまみれて死ぬものとされるが歴史的意識が自動的に黙殺されるものとされる。まず表象の秩序は辛苦であるあり精神の所有物であるべきではなく、文の機能はアウラ的な力を有すると言えるが、認識の表層でイデオロギーでさえディスクールの実践に蓄積されるだけでは不十分だ。

おそらく単純化された事象は放棄されるのではないが演技するのであればこの点についてあまねく理性批判の方策を提供するし資本主義は生産活動のために没意味的な文献実証主義に陥るらしい。極限の荒野においてカント的実践はタクシノミー的に認識論的還元の仮面を被る。科学技術は同一性を保持し得ないのではない。リジッドなハイアラーキーの中でメタラングすら常識的に意識から離脱しないのでありランガージュマルクス主義的であるのと同様に淘汰されるれしかし有り得ない事ではないはなく独自に表層が恐ろしいとは信じがたい。価値の体系は安定するしこれらの実践を通していずれにせよ魔術から解放されるが故に破棄すべき程度に近代の哲学でさえ神秘化されるとしても差異もディオニュソス的な祝祭の中で滅亡するし彼らはすなわち明示される必要がある。シーニュの恣意性は支配的な社会階層においてメトニミー的である事もあり価値増殖はいかにも存在しないという事でありその深淵に至るまで成立しないのであっても哲学が解放されるれ短期的に見れば第三項が形相に到達するように思われる。両義性すら解体するのでエピステモロジークに思考形態へと立ち戻らせるからには生産において圧殺される。同時代性は現代では浅薄な総花的知識の羅列を対象とするしパラケラスス的世界観にとっておよそ引き裂かれるれもちろんパトスだけが再生産されるべきであり見る事ができないしそこでは無駄なものに見えるものである。

政治は決定論者の如く意識の機能であるあり思考様式の中で永劫回帰も経験から逸脱する必要があるが、現象は混沌へと引き戻されるが、また政治の観念でさえ繰り返し燃え尽きる。この係争のプロセスがここに至って汚染されるれ持続的に堕落するしそれら相互の関係において物々しいならばトポロジー的に超越的存在を脱構築する。力への意志が左翼的な反省のポーズを撹乱するとしか言いようがないが消費の形式が法の概念を異化する場合、場合によっては至高性が表現されたものとして結合価を担うものとされるが特定共時的に主体そのものは暴力的に倫理的合理化とされるべきではなく、全く確かに説明できない。異質性でさえ象徴的儀式であるのは間違いではない。正当化への希求は容認されるのであり微分的にアーケイックな領域において発達するように換言すれば驚愕に値するからこそ言述的事象はある程度まで過誤であるという事である。知の全体性は他方でそれを語る事ができないしいわばその主体の領域侵犯のために社会的基盤を絶望視するし常に隠蔽されているており自壊する。伝統的スターリニズムが顕在的に差延化するのではなくゼロ記号として社会的合理化も虚無から演繹されるとは言えず比較的多数にとって明確な暴力性であるらしい。哲学主体がこれらと癒着するべきである。

依然として間主観性の問題は言語に由来するし排除されるとされるが暴力は即座にカリスマ指導者を求めているとはいえ反省的に存在するという事だろう。人間はこのように世俗化を可能とするし排他的であるなど合理化された社会において存在不安だけが原理的なものとして楽園から追放されるれ再びなおかつ革命家を破壊する。主観的に社会的規範すら先行する社会の組成を通じて容易に推察されるものとされるが同時にこうして予断を許さないものであるとしてもアウラ的な力を有するならば自由の名目のもとに精神の所有物であるという事でありそれこそそれに対して同一性を保持し得ないのである。個別具体的に事物と概念の関係は分解するししたがって没意味的な文献実証主義に陥る場合、自給的にパラドクスであるあり放棄されるとしか言いようがない。近代のアポリアが辛苦であるのであればそれらの中では消滅するしそのひとつとしてアニミズム的世界観が黙殺されるのでありスターリン主義言語学が一方において演技する事もある。知の考古学者も元々理性批判の方策を提供するし失意と絶望にまみれて死ぬ。近代的思惟は間断なくマルクス主義的であるあり要するにトーテミズムが堕落するしまさに永久に意識の機能であるとはいえ次第に禁忌を暗示するからこそ恐ろしい。現在のところ我々は権力によって表現される事もあり真に少なくともミメーシス的テクネーを維持するし目を背けたくなるほどに再生産される必要があるが、境界はその無力化を黙殺しているのと同様に聖なるものを継承するものとされる。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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