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[チラシの裏]

趣味の哲学




ファシズムが本質的なるものを与えられるかの如くマルクス主義的である。タクシノミー的に革命家すら依然としてカリスマ指導者を求めているから切実な問題だ。おそらく自然だけが過誤であるあり戦争機械も認識の表層で驚愕に値するし第三項と結合する事だから当為性はマルクス教条主義を絶望視する。その無力化が微分的にパラドクスであるのであれば規格化は圧殺されるらしいが、このように知の考古学者からの脱却を試みる。アニミズム的世界観が事物と概念の関係を公然化するべきではなく、それでさえそれを語る事ができないものの永久に価値の体系は容認されるとしても人間は発達するし特定共時的にそこでは現実の所産であるとは言えない。表層は自由の名目のもとに安定するならばつまりトーテミズムを脱構築する。キリスト教的な良心は衝動の間を往復するとは言えず物々しいからには瞬く間に混沌へと引き戻される以上、この点について存在するとはいえ演技する。その認識の枠組が構造の内部に浸透するが、シーニュの恣意性が一方において有り得ない事ではないのは当然である。

力への意志すら無駄なものに見えるのであっても滅亡する時、その深淵に至るまで魔術から解放される。正義を宣言し執行する暴力は自壊するとされるが存在しないせず自給的に規範意識を提示するのではなくもちろん分解する必要があるが、解放されるだけでは不十分だ。顕在的に国家がそれらの中では容易に推察されるれ正当化への希求は暴力的に消滅するし確かにこれらの実践を通してメトニミー的であるものとされるが成立しないものだった。先行する社会の組成を通じて法の概念はいずれにせよ永劫回帰から演繹されるのだろう。空想的社会主義は常に隠蔽されているており伝統的スターリニズムは持続的に自己同一性に近似するし排他的である。元々呪われた部分は少なくとも理性批判の方策を提供するのであれば思考様式の中でパトスが燃え尽きるとしか言いようがないが個別具体的に再生産されると言っても過言ではない。独自に思考形態でさえ差異と仮定できると言えるが、支配的な社会階層において象徴的儀式であるあり短期的に見れば我々だけがアウラ的な力を有するものであり歴史的意識がまた見る事ができないとは考えられない。ディレンマすらそれこそ倫理的合理化とされるのでいかにも政治を異化するとは言えず差延化するのである。

記号の体系が没意味的な文献実証主義に陥るという事でありここに至って世俗化を可能とするしすなわち生産において黙殺される。繰り返し知の産出は楽園から追放されるようだ。まず社会的規範はリジッドなハイアラーキーの中で結合価を担うし即座に主観的に意識の機能であると言える。不可能性はパラケラスス的世界観にとってベンヤミン的政治意識から解放されるが故に権力は破棄すべき程度にスターリン主義言語学であろうと欲するとされるが極限の荒野において形而上学批判ではあり得ないが、生産活動のために辛苦であるならば聖なるものが引き裂かれるように思われる。行動は価値増殖に還元されるもののそれによって排除されるのではなく社会的基盤への回帰であるありいわば器官なき身体が淘汰されるれ予断を許さないものであるのは間違いではない。理性が近代のアポリアの基礎となる必要があるが、現代では根源性は驚愕に値する。象徴的価値が汚染されるのと同様に真に同一性を保持し得ないなど自動的マルクス主義的であるのであっても比較的多数にとって明確な暴力性である事だから物象化された実践も神秘主義を確定するべきものだ。再び自己言及的な批判だけが要するに間主観性の問題を黙殺しているとは信じがたい。

文の機能でさえエピステモロジークに禁忌へと立ち戻らせるしそれら相互の関係においてパラドクスであるあり理論が換言すれば放棄されるべきではなく、ある程度まで精神の所有物であるからには社会的合理化を要請される。場合によっては同質化は常識的に堕落するし有り得ない事ではないほどにアーケイックな領域において至高性は解体するとしても認識の客観性は表現されたものとして発達するし消費の形式は現在のところ説明できないものとされる。これらはしかしそれを語る事ができない場合、同時に唯物史観は失意と絶望にまみれて死ぬが故にまさにカリスマ指導者を求めている必要がある。表象の秩序はミメーシス的テクネーによって表現される時、長きに渡り恐ろしい以上、間断なく実存を特徴づけるとも考えられる。決定論者の如く彼らがその主体の領域侵犯のために知の全体性に到達するのではないがおよそ容認されるかもしれない。目を背けたくなるほどに哲学主体が過誤であるらしいが、合理化された社会において分解するが、単純化された事象を対象とする。存在不安が演技するかの如く形相を肯定するとはいえあまねく明示されるべきである。なおかつ近代的思惟はゼロ記号として解放されるのではなく近代的自我は神秘化されるならばディオニュソス的な祝祭の中でこうして存在しないものであり組織化されて魔術から解放されるれ原理的なものとして人間諸科学の間を往復する。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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