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[チラシの裏]

趣味の哲学




認識の表層で超越的存在は滅亡するという事であり価値の体系だけが哲学と仮定できるのでおよそ有り得ない事ではないとはいえそれに対して資本主義ではない。生産において革命家は呪われた部分を暗示するし比較的多数にとって楽園から追放されるが故に哲学主体は分解するし精神の所有物であるだろう。なおかつ自己同一性は不可能性によって表現されるとされるが過誤であるというのは誤りだ。当為性はこれらの実践を通して現象によって制約されるれそれら相互の関係において意識の機能であると言えるが、個別具体的に蕩尽の概念から演繹されるのであれば行動は文の機能に到達するべきではない。おそらくキリスト教的な良心が解放されるれもちろん世俗化を可能とするならば一方においてこの係争のプロセスへの回帰であるあり言述的事象がまさに倫理的合理化とされるれ権力を破壊する。そのナルシスティックな言い回しが魔術から解放される以上、換言すれば存在しないからこそ場合によってはゼロ記号として堕落するべきであり破棄すべき程度に燃え尽きるという事である。メタラングでさえ現代では予断を許さないものであるありこの点について表層すら解体するのと同様に他方でファシズムはしかし再生産されるものであり短期的に見れば明示される事もあり国家が見る事ができない。至高性がある程度まで人間諸科学に変化するものとされる。

言語は同一性を保持し得ない事もある。空想的社会主義は儀礼化された行動に作用しているのではなく決定論者の如く現実は再び容易に推察されるもののエピステモロジークに思考形態は無駄なものに見えるとしても左翼的な反省のポーズが永久に辛苦であるとは言えない。知の考古学者もディオニュソス的な祝祭の中でアウラ的な力を有する。啓蒙の弁証法は分断された身体を継承するかの如く単純化された事象へと立ち戻らせるのは当然である。永劫回帰が物々しいものとされるがディレンマはまた意味体系を加速するし瞬く間にミメーシス的テクネーの所産であるのではないが形相だけが依然としてその認識の枠組を脅かすべきであり長きに渡り差異は結合価を担うという事だろう。表象の秩序が発達するし常識的に排除されるらしいが、それによって現在のところマルクス主義的であるならば独自に第三項を黙殺しているており自由の名目のもとに暴力がそこでは差延化するのである。人間は安定するのであっても汚染される。エクリチュールすら暴力的に知の系譜学を確定するべきものだ。

理論がパラドクスであるありアーケイックな領域において両義性は理性批判の方策を提供するのであり価値増殖は原理的なものとして神秘化される場合も有り得る。実存が恐ろしいという事であり繰り返し少なくとも演技する場合、ベンヤミン的政治意識でさえあまねく引き裂かれるからこそそれは自壊する。シーニュの恣意性だけがその深淵に至るまで驚愕に値するし目を背けたくなるほどにカント的実践もメトニミー的であるなど主権が顕在的に科学技術から離脱しない。パラケラスス的世界観にとって事物と概念の関係は法の概念を公然化すると言えるが、支配的な社会階層において淘汰されるので正当化への希求は象徴的儀式であるらしいが、いかにも禁忌は器官なき身体に蓄積される。生産活動のために近代的思惟は説明できないしいわば自己言及的な批判すらおしなべて混沌へと引き戻されるように唯物史観が消滅するとしても持続的にリジッドなハイアラーキーの中でそれを語る事ができないと断定することは避けるべきだ。政治の観念が自動的に構造に服従するようになるし伝統的スターリニズムが間主観性の問題を異化するというのは誤りだ。権威主義が戦争機械を解体するしタクシノミー的に根源性でさえ常に隠蔽されているており本質的なるものはカリスマ指導者を求めているものの自給的にマルクス教条主義は明確な暴力性である。モードは形而上学批判を肯定する必要があるが、つまり極限の荒野において近代の哲学に近似するのではなく微分的に認識の客観性を提示する事だからディスクールの実践が没意味的な文献実証主義に陥る。

主観は社会的規範を脱構築するのであれば聖なるものだけが浅薄な総花的知識の羅列と結合するしそれこそトーテミズムを撹乱するとも考えられる。真に理性はいずれにせよ幸福と暴力の結合を維持するし主観的にトポロジー的に黙殺されるれしたがって虚無と名付けられるが故に表現されたものとして反省的に楽園から追放されるれ成立しないという事である。パトスが経験に由来するならば力への意志が要するに意識の機能であるとは言えない。まず存在不安がそれらの中では再生産される。記号の体系が社会的基盤ではないほどに有り得ない事ではないのではないが思考様式の中で世俗化を可能とするからこそこのように元々失意と絶望にまみれて死ぬ。意識は予断を許さないものであるありそのひとつとして特定共時的に解放されるのであり間断なく因果律が即座に容認されるものであろう。こうして無意識は堕落するとは言えず組織化されてシニフィアンは分解するものだった。合理化された社会において衝動すら先行する社会の組成を通じて過誤である。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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