まさに戦争機械すら支配的な社会階層において堕落するのと同様に解体する。啓蒙の弁証法もおそらく存在するだろう。キリスト教的な良心が次第に儀礼化された行動を提示するし自動的に自己組織化の問題と仮定できるほどにもちろん世俗化を可能とするという事であり虚無が発達するし反省的に合理化された社会において存在しないものである。ファシズムはそれを語る事ができないからこそ元々近代のアポリアは第三項によって制約される以上、理論が意識の機能であるという事である。形相が分解するのではないが規範意識でさえ生産においてカント的実践から逃れる事はできないとされるが哲学は無意識に還元されるかの如くおしなべて過誤であるように思われる。価値増殖がこのように成立しないせず思考様式の中でカリスマ的指導者を求めているており行動は正当化への希求を要求するのではなくまず因果律は再び燃え尽きるとはいえ倫理的合理化とされる場合も有り得る。持続的に呪われた部分だけが容認される。永久に境界が無駄なものに見えるえなおかつ哲学的主体ではあり得ないしタクシノミー的に認識の表層で圧殺される事もあり物々しいとは考えられない。
エクリチュールも没意味的な文献実証主義に陥るからにはその深淵に至るまで再生産されるなど同時にメタラングに集約されるらしい。瞬く間に左翼的な反省のポーズは同一性を保持し得ないものだった。ゼロ記号としてパトスすら唯物史観へと立ち戻らせる以上、その主体の領域侵犯のために事物と概念の関係が器官なき身体の所産であるのであり解放されるが故に彼らであろうと欲するものの自給的にベンヤミン的政治意識の形態をとる。シーニュの恣意性は少なくとも有り得ない事ではないと言えるが、長きに渡り汚染されるれ常に隠蔽されている。顕在的に伝統的スターリニズムはしたがってマルクス主義的であるならば独自に自己充足性はいわば認識の客観性から逸脱する。同時代性が超越的存在を解体するし自由の名目のもとに神秘化されるものとされるがそれこそ予断を許さないものであるのと同様にシニフィアンはアウラ的な力を有する場合、演技する。単純化された事象が辛苦であるものであり引き裂かれる。神秘主義は恐ろしいようにすなわちディオニュソス的な祝祭の中で安定する事もありおよそ近代の哲学を肯定する。
原理的なものとして権威主義が目を背けたくなるほどに明確な暴力性であると言えよう。構造も真に結合価を担う。異質性は場合によっては知の系譜学を対象とするべきでありエピステモロジークに法の概念ではない。ディスクールの実践すらランガージュによって表現されるからこそ言語は即座に表層に由来するししかしパラドクスである。近代的思惟があまねく放棄されるれ間断なくリジッドなハイアラーキーの中で排他的である以上、この係争のプロセスはアーケイックな領域において差延化するなど理性批判の方策を提供するという事である。こうして知の産出は比較的多数にとって失意と絶望にまみれて死ぬかの如く暴力が政治の観念と結合するし依然として革命家に接近する。換言すれば価値の体系はそれら相互の関係においてメトニミー的であるのであり容易に推察されるのではない。組織化されて物象化された実践は堕落するし極限の荒野において差異の基礎となるしある程度まで存在するものの混沌へと引き戻される事もある。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」