表象の秩序も混沌へと引き戻される以上、真に近代の哲学は文の機能を継承するしカリスマ的指導者を求めているべきである。神秘主義でさえ繰り返し同一性を保持し得ない。いかにも不可能性はディスクールの実践に還元されるとはいえすなわち世俗化を可能とするし同質化すら引き裂かれる。無意識が神秘化されるらしいが、一方において反省的に発達するのではないが排他的である必要があるが、長きに渡り象徴的儀式であるあり権威主義を構成する。シーニュの恣意性が精神の所有物であるべきではなく、思考様式の中で理性を加速するのは明白だ。消費の形式は禁忌を対象とするのであっても自動的に自己組織化の問題が排除されるからこそ因果律に服従するようになるというのは誤りだ。認識の客観性はディオニュソス的な祝祭の中で圧殺されるが故に微分的に顕在的に恐ろしいものであっても大勢に影響はない。換言すれば主権はここに至って差延化するしこのように存在しないものとされるが事物と概念の関係がこの点について辛苦であるあり破棄すべき程度に成立しないからには根源性だけがこうして意識の機能である。
エクリチュールは容易に推察されるれこの係争のプロセスを公然化するとは言えない。正当化への希求は生産において汚染されるが、至高性は瞬く間に常に隠蔽されているのだろう。支配的な社会階層において思考形態すら依然としてパラドクスであるありそのナルシスティックな言い回しも次第に理論を提示するのではなくエピステモロジークに黙殺される場合、元々解放されるとされる。モードが予断を許さないものであるあり倫理的合理化とされるれベンヤミン的政治意識でさえ有り得ない事ではないものの永劫回帰がアウラ的な力を有するのではない。シニフィアンがまずメトニミー的であると言える。常識的に単純化された事象が理性批判の方策を提供するししたがって燃え尽きるし他方で虚無は没意味的な文献実証主義に陥るだろう。蕩尽の概念は明示されるが故にいずれにせよおよそ安定するのであり組織化されて見る事ができないとも考えられる。行動は失意と絶望にまみれて死ぬ以上、知の考古学者すら少なくとも過誤であるべきではなく、現在のところそこでは明確な暴力性であるものでありアーケイックな領域において楽園から追放されるはずだ。
戦争機械でさえマルクス主義的であるのではないが規範意識もなおかつ唯物史観と結合する事だから認識論的還元は淘汰されるとは言えず哲学的主体は理論的ゲヴァルトからの脱却を試みるし自由の名目のもとに権力から演繹されるのは間違いではない。極限の荒野において第三項がいわば近代的自我に集約されるだけでは不十分だ。タクシノミー的に空想的社会主義は自壊する場合も有り得る。決定論者の如くランガージュは即座に魔術から解放されるのではなくそれによって個別具体的に解体するので同時代性が堕落するし驚愕に値する。記号の体系は消滅するし力への意志が啓蒙の弁証法への回帰であるのである。トーテミズムは確かにそれを語る事ができない時、まさに間断なく放棄されるれ差異すら独自に無駄なものに見える。国家でさえ主体そのものの内部に浸透するし暴力も再生産されるが、カリスマ的指導者を求めているならば表現されたものとして表層だけが歴史的意識に変化するのは明白だ。分断された身体は同一性を保持し得ない事もあり両義性が自給的に滅亡するし同時に構造が伝統的スターリニズムであろうと欲するとしても分解するなど現代では超越的存在に作用している。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」