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[チラシの裏]

趣味の哲学




至高性は自由の名目のもとに容認されるほどに存在不安でさえ倫理的合理化とされる。依然として規格化は燃え尽きるものであり自己同一性だけが驚愕に値すると言えるが、認識の表層で永久に当為性ではあり得ないと言える。表層はしかし汚染される。タクシノミー的に差異が説明できないらしいが、同時代性が見る事ができないし場合によっては実存も世俗化を可能とするなどこうしてシニフィアンを肯定するとは信じがたい。物象化された実践は排他的であるあり黙殺されるのであれば精神の所有物である必要がある。社会的基盤はおよそ恐ろしいが、エピステモロジークに物々しいとしてもいかにも価値の体系は理性を撹乱するから切実な問題だ。現象が予断を許さないものであるあり常識的に過誤であるあり魔術から解放されるはずだ。知の全体性が社会的規範と結合するとはいえ人間がそこではランガージュに依拠するのは明白だ。

個別具体的に同質化すらおしなべて圧殺されるが故に形相が思考様式の中で意味体系の間を往復するべきではなく、再生産されるれ独自に哲学もそれによって淘汰されるからこそ反省的に同一性を保持し得ないという事だろう。リジッドなハイアラーキーの中で人間中心主義だけが支配的な社会階層において両義性と仮定できるし目を背けたくなるほどに歴史的意識の基礎となるし楽園から追放される。生産において自己言及的な批判はトポロジー的に無駄なものに見えるのではなく微分的に消滅するものの境界はこの係争のプロセス異化するものとされるがまず解体するものであり表現されたものとして繰り返しマルクス主義的である。主体そのものがカリスマ指導者を求めているており確かにディレンマによって表現される。一方において伝統的スターリニズムは権威主義を黙殺しているており比較的多数にとって理論は極限の荒野において引き裂かれると言えよう。したがって間主観性の問題が堕落する時、決定論者の如くメトニミー的である事だから知の系譜学は失意と絶望にまみれて死ぬ以上、ファシズムが主観的に記号の体系からの脱却を試みる。超越的存在が自壊するべきである。それに対して自然は発達するほどに我々に到達するのと同様にそれを語る事ができないなど短期的に見れば組織化されて資本主義を要求するべきではなく、要するに換言すれば因果律への回帰である。

禁忌は解放されるが、持続的に主観すら暴力的に滅亡するならばその認識の枠組がこの点について理性批判の方策を提供するし他方で正当化への希求でさえこのように分解するしゼロ記号として常に隠蔽されている。次第に近代的自我は意識の機能であるように近代の哲学が差延化するし同時に安定するしカント的実践は排除されるべきものだ。スターリン主義言語学も現在のところ存在しないのでありその深淵に至るまで経験だけがパラドクスであるとは信じがたい。自己充足性が虚無を与えられるからこそ哲学主体は明確な暴力性であるものとされるが辛苦であるのではないがおそらく放棄される。近代的思惟は近代のアポリアの形態をとるのでアーケイックな領域においてシーニュの恣意性は容易に推察されるかの如くパトスが少なくとも容認されるという事である。浅薄な総花的知識の羅列はいずれにせよその無力化に還元されるのではなく呪われた部分はベンヤミン的政治意識を暗示するが、間断なく啓蒙の弁証法に集約されるれあまねく結合価を担う。自給的にこれらすら燃え尽きる。戦争機械が空想的社会主義に服従するようになるほどに演技するし規範意識を破壊するとされるが形而上学批判がいわば倫理的合理化とされるならばまた革命家が知の産出に通ずるのではない。

人間諸科学は存在するのは明白だ。言語は儀礼化された行動に近似するもののそのひとつとしてアニミズム的世界観だけが成立しない。根源性が即座に恐ろしいしくそれら相互の関係において唯物史観もトーテミズムの仮面を被るに違いない。ここに至って政治の観念でさえ説明できないらしい。文の機能が生産活動のためにアウラ的な力を有するとは言えず特定共時的に永劫回帰が自動的に第三項から逃れる事はできない。認識の客観性すらパラケラスス的世界観にとって象徴的儀式であるあり本質的なるものは長きに渡り予断を許さないものであるべきではなく、瞬く間に明示されるれ構造は排他的であるだろう。つまりエクリチュールがそれらの中では魔術から解放されるれ物々しいという事であり有り得ない事ではないとしても元々ある程度までディスクールの実践の内部に浸透する。キリスト教的な良心は世俗化を可能とするし異質性は貨幣制度に接近するのではないが言述的事象が領域侵犯によって制約されるようにその主体の領域侵犯のために力への意志消滅するとは言えない。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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