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カーマスートラ

泉芳璟訳(1923)。


[前] 2-1 性交の考察

2-1 性交の考察(2)

[26-30]婦人は長時間強性の動作を続ける男子を愛し、これに反して短く弱き交接にて婦人が満足に達し得られないやうな男子を憎む。こ れは婦人が最後の性交の快感を引き出すや否やに関しての表示であ る。然しさうではない。最後の満足の問題は別として婦人は痒感の 連続的な除去と、それから起る快感のためにすらも男子の方の長時 間に亘る動作を好むものである。この説明は甚だ可い。かくて婦人 [p.32b]の快感と男子のそれとは等しきか否かに関しての問題は残存する。

[31]アーウダーラキの意見を表はした頌がある。曰く、

男子との交接によつて婦人の生殖器に於ける痒感が除き去られる。これが接吻抱擁の如き他の情事に伴ひて婦人の快感である。

[32]バーブラヴィーヤに随へば、

交接の間に婦人は最初からすら液の連続的分泌で快感を覚える。男子の満足は最後に於てのみである。

[33-34]これは一層佳い意見だ。蓋し婦人が男子の発射と等しい快感を得ない場合に如何して婦人に受胎があらうか。

[35-36]此に亦同じ疑問が提出せられ同様に答へられる。若し婦人が最初から性交の間を通じて満足を感ずるならば、何故に長時の強き動 作をなす男子を好み短く弱き動作の男子を憎むか。答へて曰く、痒 感の除去が長きに亘るを好むと同じに亦性的分泌とそれに続く快感 [p.33a]の長きに亘るを好むのである。前者の場合にこれを得るからその男 子を好み後者の場合にはそれを得ないからその男子を好まないので ある。然しその場合にこの疑問がある。若し婦人が交接の間を通じ て分泌の快感を覚えるならば何故に最初情人の突撃に熱心でなかつ たり又これに堪へ得ないのか。又何故に身体の苦痛に全く無関心と なり而して最後には止めやうとするに至るやうな熱情に漸次の増進 があるのか。これらは矛盾ではないか。

[37-40]否さうでない。例を製陶師の轆轤若くは小児の独楽に取れ。たとひ回転の同じ動作が終始を通じて連続してゐても、始めは 緩徐にして次第次第に早くなるではないか。今の場合もさうだ。最後 に止めようとするのは液の分泌が止むからである。かくてバーブラヴ ィーヤの説明に対しても何等の反対は無い。同様の意見がバーブラヴ ィーヤの頌に述べられてある。曰く、

男子の快感は性交の最後である。婦人は終始を通じて快感がある。止めやうとするのは愛液の尽きるためである。 [p.33b]

[41-48]二つの反対する意見を述べた後作者は自分の意見を述べて云ふ。さればラサ(精液)の発射は男子の如く婦人にもある。類似の身体 を有する二人が同一の動作に従事して異つた結果があるべき筈が無 い。かかる差異は姿態と感情の差異から起り得ぬか。否それはさう あり得ない。姿態の差異は創造の本質の異りから起る。男子は能動 で婦人は受動である。能動者の感ずると受動者の感ずるとは自から 差異あるは当然である。動作の行はるる場処異ればその動作より起 る感覚の性質も異る。男子は性交の目的に対して我は「為せり」と感 じ婦人は同じ目的に対し「為されてゐる」と感ずる。これのみ、結果 即ち液の発射は双方に同じである。かくヴァーッチャーヤナは云ふ。

[49-54]又もや疑問が提出される。交接の間男子と婦人と過程に於て差異ありとすれば何故動作の結果に於ても亦差異が無いのか。然しな がらさうでは無い。動作に於ける差異は男女の本性の差異によるも ので当然である。然し結果に於ての差異は不当である。蓋し双方共 に同じ種族に属し同一の目的を以て従事してゐるのだから。

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