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餓鬼について

[佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經]に 端を発して作成している「めも」です。


[前] なぜ餓鬼に

餓鬼か地獄か

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さて。いちおう「六道」的世界観では、餓鬼は地獄のひとつ上、という位置付けになって いますけど。ここで気になるのは 「どこまでなら餓鬼止まりで、何を越えたら地獄堕ちか」ということではないでしょうか。 これに関して簡単に。

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嘘つきは地獄(パーリ)

 パーリの場合。スッタニパータ(Sn)、ダンマパダによると嘘つきが地獄だそうです。曰

661 嘘を言う人は地獄に堕ちる。また実際にしておきながら「わたしはしませんでした」と 言う人もまた同じ。両者ともに行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような 運命を受ける(地獄に堕ちる) (中村元訳(1991)『ブッダのことば』岩波文庫(ワイド版), p.146; 中村元訳(1978)『ブッダの真理のことば感興のことば』岩波文庫, p.53 にも)

 文脈としては、Snによると‥

コーカーリヤが『サーリプッタとモッガラーナに邪念悪心がある』と仏に密告して 間もなく、デカい腫れ物ができてそれが破裂して膿と血を吹き出して死んで 紅蓮地獄(最悪の地獄)に堕ちた (参照: 中村1991, pp.142-144; 岩本1979には、Snにはないコーカーリヤの物語が記載されてます。 註(パラマッタジョーティカー)にあるのかな?(p.212))
こんな感じのエピソードが示されて、その後で仏が上記の偈を唱えたり、地獄についての説明を してたりしますけど。ここでちょっと気になることもあって、上で紹介したように、 コーカーリヤが地獄に堕ちたのは「嘘をついたから」のはずですけど、他のところを見ると
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、 紅蓮地獄に生まれたのである (中村1991, p.145)
こんな感じで解説されている箇所が何個も見つかります。

 堕地獄の原因は嘘か敵意か。敵意だけで地獄に‥となると、かなりキツいですよね。

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ケチ、高慢ちきは地獄(目連変文)

中国の唐代に作られた『大目乾連冥間救母変文』。これは 『仏説盂蘭盆経』をベースにして、 話をもっと膨らませて作られた物語なんですけど、この中に出てくる‥

目連母がケチゆえ阿鼻地獄(!)に堕ち、 目連の願いにより仏が地獄を破壊(!)、しかし母は餓鬼化、食物が燃える、 盂蘭盆供養、母畜生化、目連大乗経典読誦、母人間化、そして西方往生へ、と (盂蘭盆経について [URL])
こんな感じの展開になっています。目連母はケチだったから阿鼻地獄、これは地獄の中でも 最も苛烈な地獄という位置付けになっていますが、その阿鼻地獄に堕ちてしまう、と。 ‥‥えええ?!

 おそらくこれは当時の中国がちょうど地獄思想が進展していたとか何かで、それゆえ、 目連母は餓鬼になっていた という話よりも、地獄に堕ちた者をいかに救済するか、 という話にした方がスッキリするから とか、そんな感じの理由で設定が変更されちゃった んでしょうね。つまり歴史的には、たぶん こんな感じ: 「目連母は餓鬼に(理由は不明) → 目連母はケチだったから餓鬼に → 目連母はケチだったから地獄に → 目連母はいろいろ悪事をしたから地獄に」の変遷があって、 その変遷の途中段階だったんだろうな、と。 (類似のことは 「盂蘭盆経について」 [URL] に書いてありますので、ご参照ください。)

 ‥と、そんな感じの背景があっただろうことは妄想できますから、ですから「ケチだと地獄か。 そりゃないだろ!」と嘆く必要はないとは思うんですけど。でも、あまり 嬉しい話ではないですよね。 俺をそんなに地獄に落としたいのか、とか思ってしまいます。

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人を悩ませると地獄(往生要集)

 なお個人的には、『往生要集』をベースにしているはずの日本では 「殺生したかどうか」というのが、もっとも基本的な「餓鬼」と「地獄」の 分水嶺の設定になるはずだったんじゃないかと思います。(でも実際は 「地獄か極楽」という究極の二者択一になってしまいましたが‥。)

 なぜかと言うと地獄に関する記述の最初のところを見ると‥

  • 1:等活地獄が「殺生せる者、この中に堕つ」(p.14; [SAT])、
  • 2:黒縄地獄が「殺生・偸盗せる者、この中に堕つ」(p.18; [SAT])、
  • 3:衆合地獄が「殺生・偸盗・邪淫の者、この中に堕つ」(p.22; [SAT])
‥という感じで、まず最初に「殺生」があり、 地獄のレベルが上がるたびに新たな犯罪が追加されていってるからです。 これを見ると、やっぱり「殺生」こそが地獄行きの最も基本的な要件といえそうじゃないですか。

 しかし話はそう簡単ではないかもしれません。同じ『往生要集』の 1:等活地獄の別処のひとつ1-04:多苦処についての説明を見ると:

昔、縄を以て人を縛り、杖を以て人を打ち、人を駈りて遠き路に行かしめ、嶮しき処より 人を落し、煙を薫べて人を悩まし、小児を怖れしむ。かくの如き等の、種々に人を悩ませる者、 皆この中に堕つ (p.15; [SAT])
‥こんな感じに書かれてます。1:等活地獄の他の別処を見てみても、 この1-04:多苦処 以外は全部「殺生した者」という文言が入ってるんですけど、この1-04:多苦処だけ 「人を悩ませたもの」が堕ちるところとなっていて、殺生は条件になってません。つまり、殺しはせず 「子供を怖がらせる」だけで地獄行きなんて! マジかッッッッ!!!

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殺しているけど餓鬼止まり

 他方、同じ『往生要集』の「餓鬼」の項のほうでも、その最初に紹介されている「鑊身餓鬼」が 「昔、財を貪り、屠り殺せし者、この報を受く」(p.48; [SAT])‥と、「屠り殺せし者」とあります。 殺してるじゃん! それなのに地獄じゃなくて餓鬼止まり、というのは何故?! ‥というのが気になるところではありますけど。 これは『往生要集』の元ネタのひとつ『正法念処経』の記述みたいですね。 つまり『正法念処経』で列挙してる餓鬼の最初が「鑊身餓鬼」で、これについて

於前世時。以貪財故。爲他屠殺。受雇殺生。臠割脂肉。心無悲愍。貪心殺生。殺已隨喜。造集惡業。其心不悔。 [SAT]
と書いてあります。しかし他方では 『往生要集』の等活地獄のところには「殺生之者墮此中」(p.33b04)とあり、つまり 殺生した者は等活地獄に堕ちる、とされています。 ‥どうなってるの? 殺したのが人間か畜生かで そんなに差が出るものなの?? (‥まあ、理念的にはともかく、実際的には差をつけない訳にはいかないと思いますけどね。 人を殺してしまう人はそんなに多くないでしょうけど、人以外の生物を殺さずに生きていける人は皆無でしょうから。) (関連: [Wikipedia])

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仇討ちと地獄(御伽草子)

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「御伽草子」の『あきみち』(室町期)における堕地獄の用例ですけど‥

夜討に襲われて死んだ父の仇を 討つために、妻にいいふくめて、かたきと一夜の契りを結んでほしい、と語ったとき ‥(略)‥ 親の仇を討たなければ、来世は地獄に堕ちて獄卒の責め苦を受ける という考え方が、ここにある。仇を討つということには、こうした観念も根底にあるのか、 といささか驚かされる。 (石田瑞麿(2013)『日本人と地獄』講談社学術文庫, p.118)
省略してしまいましたが、来世は地獄に堕ちて‥の該当部分の原文は「また来世にては 敵を討ちてくれよとて、牛頭馬頭に責められん事限りあるべからざる」のようです。

 ふつうに考えれば、仇討ち=殺人ですから、仇討ちすれば堕地獄になりそうですけど、 逆なんですね。仇討ちしなかったら地獄に堕ちてしまう、と。「罪の観念」の武士的変容といった 感じなんでしょうけど、何かちょっと「それはちがう」と言いたくなる用例ですね‥。

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[ふろく] 地獄行きの一般的基準とは

と、ここまで経典などの記述をいろいろテキトーに拾ってきて、あれは地獄、 これは餓鬼止まり‥とかいうのを紹介してきたんですけど。

 でももっと総括的に、餓鬼止まりな行為(業因)と、地獄行きの業因の違いは何か。ということに 関する話を簡単に紹介しておきたいと思います。‥思うんですけど。 結論からいうと、特に「これ」という統一基準のようなものは皆無なようです。

 地獄にも等活地獄とか黒縄地獄とか いろんな種類の地獄が知られてるんですけど。何をすれば等活地獄行きで 何をすれば黒縄地獄行きか という業因の区別について見ても 経典ごとにバラバラだし、さらに各経典内の記述を見ても内部的な整合性すらロクにない、 まさに思いつきで いろいろ列挙してるレベル、と。そんな感じのようです。

「個々の経典に触れたものはあっても、差異を説くものはなく、まれに説いても恣意的である」 「総括していえば整理の跡はなく、雑然と罪業を拾っているという感は拭えない」 (石田瑞麿(2013)『日本人と地獄』講談社学術文庫, p.20)
地獄どうしでもこんな感じですから、餓鬼行きについても おそらく 統一基準的な業因などというものは まともに考えられたこともないんじゃないかと思われます。

 そんな中、たぶん最もマジメに地獄の業因を整理しようとした痕跡が残るのが、 石田2013によれば『正法念処経』、つまり『往生要集』の最も重要なネタ元とされる経典のようで

堕獄の業因については、以後も『正法念処経』を越えるものは現れていない。 (石田2013, p.22)
このような位置づけのようです。つまり『正法念処経』『往生要集』とは異なる 業因の説明をする経典は いろいろありますけど、 それらは思いつきで言ってるレベルじゃねえの? といった感じでしょうか。

 なので結論としては、とにかく迷ったら『往生要集』を見ろ、と。 そんな感じになりそうです。

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