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餓鬼について

[佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經]に 端を発して作成している「めも」です。


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なぜ餓鬼に

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餓鬼はチョイ悪の人が行く?

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すでに書いたことですけど。--- 「餓鬼(preta)」はもともと「死者の魂」であったものが、 そののち「六道」の一要素となった。多分それとともに、 あからさまな善(天国)でも悪(地獄)でもない人たちのうち、 比較的ワルだった人らの死後世界という感じに意味内容が縮小された。 --- こんな感じに私は妄想しています。

 でも、じゃあ「あからさまな悪(地獄)でない、 比較的ワルだった人ら」って、どの程度? というのが気になるじゃないですか。 あからさまな悪人より ちょっとマシ、ムカつくけど悪事というほどでないもの、 それをどう定義するのか。

 そのへんを仏典から見てみると。どうやら 仏教の基本である「執着を捨てよ」を実践できない人への「みせしめ」という意味も 込めたんでしょうか。「ケチ」に白羽の矢が立ったみたいですね。ということで ケチな人、物欲が激しい人が餓鬼世界に落ちる、という構図になってくるようです。 『往生要集』でも「正法念経に云く」として、以下のように述べています:

慳貪と嫉妬の者、餓鬼道に堕つ。 (源信(石田端麿訳注)(1992)『往生要集(上)』岩波文庫. pp.52) [SAT] [しおり]
(でも「嫉妬」に関しては、 地蔵十王経 [URL]に 「身口など七罪の軽重を計測される (ただし意業、「そう思っただけ」は除外)。」と あるので、単に嫉妬心を持つだけならセーフのようにも思えるんですけどね。 次の閻魔王のところで引っかかるのかな?)

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ちなみにチベットでも‥

チベットにおける六道関連のタンカ(右)を眺めてたら、たまたま見つけたので 紹介させてください。

 絵の後ろのほう? 上のほうにある石みたいなのに書かれた以下の文です:

mi ser sna las kyi skye gnas yi dvags gli^n/
[大雑把訳] 貪欲の業もつ者の生まれし場所、そは餓鬼の島なり

 18-19世紀のタンカみたいです。「餓鬼」の要件として知られてる「ケチ」を もうちょっと一般化して「貪欲」としてますね。

 ところでこのタンカで個人的に「おお」と思ったのは、餓鬼どもの首です。 「喉は針身のように細く」という記述に かなり忠実に書いてて、それが興味深かったです。
(S.グロフ(川村訳)(1995)『死者の書 生死の手引』(イメージの博物誌32) 平凡社, p.39 より)

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僕らは餓鬼になるのか?

なお。私の憶測では、すくなくとも日本では「いま餓鬼になってる者は、 むかし物欲が激しかった人たちであった」は受け入れられたのに対し、 「いま物欲が激しい人が将来餓鬼世界に落ちる」と いう考えは浸透しなかったのではないかと。 何故かといえば「極楽往生、さもなくば地獄」という二者択一的な死後観が ムチャクチャ強烈な支配力を持っていたと思うからです。

 それゆえ、「六道」には6つの世界: 天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄という6つの世界があるのに、 地獄以外の5つは 存在さえ ほとんど忘れ去られた感じとなり、 ただ一つの「地獄」だけが「極楽(浄土)」以外に存在する 唯一の「あの世」となった。結果 「いまケチな人は、いや、ケチじゃなくても 『宿業』次第で(ほとんどの人は間違いなく) 将来 問答無用で地獄直行」という感じとなった。んですかね。‥‥ははは。怖すぎで笑うしかないですね。

 この「地獄だけ意識されて、他は忘れられている」点についてのメモを。 岩本1979も以下:

古来、わが国の民衆の中に融けこんだ仏教信仰を、一言にまとめると、地獄と極楽の 実在観であったと言っても、言い過ぎではないであろう。しかも、それは単に仏教信仰としてだけでなく、 日常生活にまで浸透していたことが知られる (岩本裕(1979)『仏教説話研究4地獄めぐりの文学』開明書院, p.299)
このように、日本人にとって「地獄」「極楽」が非常に大きなウエイトを占めていたと述べています。 餓鬼の存在は薄いということですよね。

 また宮1999によれば、「本来、別々に存在した極楽と地獄が、ここに 結びついて説かれた」(宮1999, p.38) のは、10世紀末の源信『往生要集』[しおり]によってである、 そうです。そして、源信との絡みかどの程度あるかは不明ながら 「わが国の地獄思想が比叡山を中心として発達した」(宮1999, p.80)ようです。 そして「地獄」に対する人々の考え方について、

平安時代にあっては、地獄変は経典の中に語られている、いわば現実とは 隔離された世界の絵でしかなかった。それが中世になると、地獄も現世の一部であり、 人間は両者の間を往復して、その恐ろしさを体験するのである (澁澤龍彦・宮次男(1999)『図説・地獄絵をよむ』河出書房ふくろうの本(初出は1973), p.104)
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つまり、現実の延長線上にあるリアルなものとして人々が「地獄」を感じ、 恐怖を持ち始めた、つまり「地獄」が切実なものとして 日本文化に浸透したのが中世、ということですね。

 これと同じようなことは和歌森1942も指摘しています。 「地獄は悪業の結果、死後に堕ちるところ」と我々は何となく理解していますが、 平安時代だと「地獄は悪業の結果、そのうち堕ちるところ」、つまり 地獄と死のあいだには格別の関係があるという認識があまりなかったのでは? と推測しています。死後地獄に堕ちるというのは、もっと時代が下がってからでは? と。 平安時代に書かれた『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)も表題に 「現報善悪」とあるのはそういう意味みたいです(和歌森太郎(1942; Repr.1972)「仏名会の成立」『修験道史研究』(東洋文庫211;平凡社), p.357)。 (なお「仏名会の成立」については [導師ジャパン::仏名会 (平安時代) ] でも触れてますが、この会で使っていたらしい「仏名経」の中身が なかなかスゴい)

 たしかに [ 平安時代の清少納言『枕草子』の例 ] など見ますと、 ニヤニヤしながら清少納言をからかう中宮と、 青ざめて(キャーキャー言いながら?)逃げてしまう清少納言という 情景が目に浮かぶようですし‥。そしてそれってやっぱり、地獄変が切迫感をもって 迫ってくるものではなかったから、ということでしょうし。

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日本人は思考停止傾向?

 ちなみに。日本では『宿業』次第で(ほとんどの人は間違いなく)地獄直行‥と書きましたけど。 これは非常に日本的な考え方のようです。どういうことかといえば。たとえばインド仏教では 六道思想は輪廻思想・因果思想とガッチリ結びついているからか、仏教の本生譚(前世譚)では 「過去にどのような行為があったから、 現在このような状況になっているのだ」という因果関係がハッキリ描かれるのが普通です。 つまり (現在の我々からすればその考えは妥当かどうか‥についてはさておき)、 インド人たちは 業と輪廻と六道について 彼らなりに考え抜き、そのうえで「どう生きるのが 最もよいのか」についての傾向と対策を立てているわけですけど。

 それに対し、日本人の場合。 日本の仏教説話などを見るかぎり、そのあたりの因果関係が曖昧で‥

「諸ノ事皆宿報」などといった叙述がたしかに含まれてはいるのだが、過去世における いかなる行為の宿報か、といったことは記述されず、過去世は抽象的に言及されるにすぎない。 「宿世」「宿報」「前世」などの語は具体性を失って、「不思議な運命」の意に用いられている (出雲路修(1989)「説話」『長尾他編(1989)岩波講座東洋思想16 日本思想2』岩波書店, p.274)
つまり日本の場合、やたら「前世の業」という言葉を口にするものの、その語を口にするところで 思考停止して、具体的な因果関係を考えない。このあたり、因果関係を具体化しないと 気がすまない感じのインド人とは対照的ですよね。そして日本人は、そのへんのことについて 思考停止してしまっているから、だから「前世の業」は「不思議な運命」と同義語に なってしまっている、と。業や因果についての思考停止。 ‥そりゃ確かに地獄に怯えるしかなくなるよな、という感じでしょうか。

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