[仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 (発心因縁十王経、地蔵十王経)]

地蔵十王経について

成都府大聖慈恩寺沙門蔵川述
『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(12世紀?)
(発心因縁十王経、地蔵十王経)

に関する「めも」です。


[前] 文献成立は日本?

平安末、12世紀成立?

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『延命地蔵経』とほぼ同時期か

本経の成立年代について、真鍋1969は以下のように述べています:

恐らく「延命地蔵経」の成立と相前後するもので、平安時代最末期のことであつたろうと 考える (p.129)
平安時代最末期ということは、12世紀。

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 同時期かと言われている 『延命地蔵菩薩経』も、 この「地蔵十王経」もどちらも「お地蔵様」の経典ですね。 12世紀と地蔵信仰の関係については、他のページに書いたんですけど、 「やがて聖らの活躍により浄土教が庶民に広がると、そこで地蔵信仰に火がつく。」 という、ほぼその時代に当たっています。

 庶民のあいだで地蔵信仰が急速に高まる中、「お地蔵様」に関する 経典や情報に対するニーズが急速に高まり、そんな中で 「延命地蔵菩薩経」や 「地蔵十王経」が生みだされ、広められていった、と。 そんな感じなんでしょうか。

 他方、石田2013は以下のように推測しています:

わたしはほぼ十一世紀後半、末法最年である永承七 年(1052)という時機観と連動して起こったと考えている。 (石田瑞麿(2013)『日本人と地獄』講談社学術文庫, p.104)
真鍋1969より微妙に早い感じですね。‥しかし、いずれにせよ平安時代後期から末期という点では 共通してます。

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預修十王経よりちょっと後か

また本テキストのネタ元とおぼしき「預修十王経」(たぶん中華製)の作成年代に ついて岩本1979はこのように述べています:

11世紀前半までに成立したものであることは明かである(岩本1979,p.320)。
また石田2013も以下のように述べています:
唐末から宋代にかけた十世紀の成立と推定されている (石田2013, p.104)
つまり。中国の預修十王経の正確な成立時期はわからないものの、11世紀前半頃には 中国などでだいぶ広がっていた。それを知った日本人が、なぜか その預修十王経を日本に持ち込むのではなく、それと類似のものを そんなに時代が経過していない段階、12世紀の段階で創作したと。

 ‥何故、わざわざ類似のものを作ったのか。他の仏教経典類と同じように、中国で 使われているものをそのまま持ち込んだ方がラクなのに‥。とは思うんですけど、 その意図はよくわからないですね。

 ‥ただ、「預修十王経」において十王を紹介している部分を見ると、 記述がものすごく淡白で、とくにその中心にいるかもしれない地蔵菩薩の 存在感がまったくない。それだと物足りないということで、 「預修十王経」の一部に いろいろ情報を書き足してみた、 とくに地蔵菩薩については(当時の日本国内での「お地蔵様」への ニーズの高さに影響されて)かなり念入りな書き足しを行なった、と。 そして、その書き足しありの文献が「地蔵十王経」として 日本国内に広がり、定着してしまった‥そんな感じなんでしょうか。

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いろんなバリエーションがある?

『十王讃歎修善鈔図絵』(1702)山形県上山市・宝泉寺蔵 によると、浄玻璃の鏡で 亡者の生前の行いが映し出されるところでこんな感じ:

閻魔は怒り大声で言う。「おまえは 幾度も地獄にやってきて、また娑婆にもどった。だが、反省心がなくまた罪を犯して 地獄にやってきた。もはや後悔しても嘆いても無駄だ」。罪人は、「少し罪を犯しましたが、 倶生神の書きまちがいもあろうかと思います」と許しを乞うが、もちろん却下される (錦仁(2003)『東北の地獄絵--死と再生』三弥井書店, p.243)
こんな感じになっているようです。地蔵十王経の内容と、ちょっと違ってますね。 内容がちょっと異なる異本も結構ありそうです。 (まあ、9:都市王の本地仏についても 阿閦如来とするものと勢至菩薩とするものがあり、 本経とは異なる 勢至菩薩 にするほうが多数派ですからね‥)

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日本人が考える閻魔さまの住処@13世紀

日本に『冥途蘇生記』(13c?)という本があります。 これは鎌倉時代頃、今の宝塚市にあった(?)清澄寺の住僧である慈心坊尊恵という人が 突然死したかと思ったらその後生き返った、その後に 自分が死んでいた間の体験談を語った‥という、いわゆる「黄泉がえり」の物語なんですけど。

 この尊恵という人が何故に突然死したかといえば、それは閻魔様が 尊恵を閻魔王宮に招いたからということみたいなんですけど。 この尊恵はさすがに閻魔様に呼ばれただけあって、「あの世」での振る舞いも 常人とは違っていたみたいです。「地蔵十王経」を見てもわかるとおり、 普通の人は死後、飢えと寒さと痛みとに苦しみ怯えながらトボトボ歩いて どこかに進んでいくはずなんですけど(しかし、この物語には、そういう 常人のことは出てきてなかったはず‥)。尊恵はそのへんが違います。 尊恵は「向西北方飛空至閻魔城」(p.187)、つまり 飛行機に乗るみたいに、西北方向にむけて空を飛んで移動した、となってます。 すごいですね! これは尊恵が特別に閻魔様に招待されたからなのか、あるいは 修行による果報なのか、そのへんのことはよくわかりません。

 さて。閻魔城まで空中を飛んで到達した尊恵ですから、普通の亡者には 見えなかった景色などもよく見えたんだろうと思います。 『冥途蘇生記』には、閻魔王宮の様子は以下のように書かれています。

悉尽美極妙惣宮殿楼閣充満不可称計 (錦2003, p.188)
(大雑把訳) 「すべてが美を尽くし極妙であり、宮殿の楼閣の充実ぶりは言葉にできないほど」 ‥‥楽園? というか極楽?? そういう感じのイメージ??

 こんな感じに描かれている閻魔王宮について、このような分析も:

「『冥途蘇生記』に描かれた閻魔王宮は、地獄というよりむしろ浄土というべき 世界である」(錦2003, p.149)
つまり、この時期の日本では、まだ閻魔王宮の所在地とか、 位置付けがちゃんと決まってなかったということでしょうか。

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平安末期から鎌倉初期が閻魔思想のはじまり?

 後述することになりますが、「地蔵十王経」の成立は12世紀、おそらく 平安時代最末期と考えられていますから、 それとこの『冥途蘇生記』(13世紀、鎌倉初期)はほぼ同じ時代のもの になります。

 つまり日本でも「閻魔様」に関する関心が高まりつつあったものの、 そして閻魔様が「死後に裁決する人」ということは 何となく知られるように なってきていたものの、 でもそれ以上の具体的なイメージはまだ固まっていなかったため、 文献ごとにキャラ設定が微妙に異なっている、そんな感じだったんでしょうか。

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