[前] 文献成立は日本? |
本経の成立年代について、真鍋1969は以下のように述べています:
日本人と地獄 [ 石田瑞麿 ] |
同時期かと言われている 『延命地蔵菩薩経』も、 この「地蔵十王経」もどちらも「お地蔵様」の経典ですね。 12世紀と地蔵信仰の関係については、他のページに書いたんですけど、 「やがて聖らの活躍により浄土教が庶民に広がると、そこで地蔵信仰に火がつく。」 という、ほぼその時代に当たっています。
庶民のあいだで地蔵信仰が急速に高まる中、「お地蔵様」に関する 経典や情報に対するニーズが急速に高まり、そんな中で 「延命地蔵菩薩経」や 「地蔵十王経」が生みだされ、広められていった、と。 そんな感じなんでしょうか。
他方、石田2013は以下のように推測しています:
また本テキストのネタ元とおぼしき「預修十王経」(たぶん中華製)の作成年代に ついて岩本1979はこのように述べています:
‥何故、わざわざ類似のものを作ったのか。他の仏教経典類と同じように、中国で 使われているものをそのまま持ち込んだ方がラクなのに‥。とは思うんですけど、 その意図はよくわからないですね。
‥ただ、「預修十王経」において十王を紹介している部分を見ると、 記述がものすごく淡白で、とくにその中心にいるかもしれない地蔵菩薩の 存在感がまったくない。それだと物足りないということで、 「預修十王経」の一部に いろいろ情報を書き足してみた、 とくに地蔵菩薩については(当時の日本国内での「お地蔵様」への ニーズの高さに影響されて)かなり念入りな書き足しを行なった、と。 そして、その書き足しありの文献が「地蔵十王経」として 日本国内に広がり、定着してしまった‥そんな感じなんでしょうか。
[Table of Contents]『十王讃歎修善鈔図絵』(1702)山形県上山市・宝泉寺蔵 によると、浄玻璃の鏡で 亡者の生前の行いが映し出されるところでこんな感じ:
東北の地獄絵 [ 錦仁 ] |
日本に『冥途蘇生記』(13c?)という本があります。 これは鎌倉時代頃、今の宝塚市にあった(?)清澄寺の住僧である慈心坊尊恵という人が 突然死したかと思ったらその後生き返った、その後に 自分が死んでいた間の体験談を語った‥という、いわゆる「黄泉がえり」の物語なんですけど。
この尊恵という人が何故に突然死したかといえば、それは閻魔様が 尊恵を閻魔王宮に招いたからということみたいなんですけど。 この尊恵はさすがに閻魔様に呼ばれただけあって、「あの世」での振る舞いも 常人とは違っていたみたいです。「地蔵十王経」を見てもわかるとおり、 普通の人は死後、飢えと寒さと痛みとに苦しみ怯えながらトボトボ歩いて どこかに進んでいくはずなんですけど(しかし、この物語には、そういう 常人のことは出てきてなかったはず‥)。尊恵はそのへんが違います。 尊恵は「向西北方飛空至閻魔城」(p.187)、つまり 飛行機に乗るみたいに、西北方向にむけて空を飛んで移動した、となってます。 すごいですね! これは尊恵が特別に閻魔様に招待されたからなのか、あるいは 修行による果報なのか、そのへんのことはよくわかりません。
さて。閻魔城まで空中を飛んで到達した尊恵ですから、普通の亡者には 見えなかった景色などもよく見えたんだろうと思います。 『冥途蘇生記』には、閻魔王宮の様子は以下のように書かれています。
こんな感じに描かれている閻魔王宮について、このような分析も:
後述することになりますが、「地蔵十王経」の成立は12世紀、おそらく 平安時代最末期と考えられていますから、 それとこの『冥途蘇生記』(13世紀、鎌倉初期)はほぼ同じ時代のもの になります。
つまり日本でも「閻魔様」に関する関心が高まりつつあったものの、 そして閻魔様が「死後に裁決する人」ということは 何となく知られるように なってきていたものの、 でもそれ以上の具体的なイメージはまだ固まっていなかったため、 文献ごとにキャラ設定が微妙に異なっている、そんな感じだったんでしょうか。
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