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「地蔵十王経」を読んでいて「おや?」と思うことの一つに、 経典の前半と後半では微妙に言ってることが違っているのでは? ということがあります。
たとえば上の引用。これは経の前半、4:五官王のところに出てくる表現なんですけど。 「業罪の 軽重決めるは 無情にも 自分の昔の 所業それだけ」とあります。 つまり亡者がどうなるか、それは各自が生前何をしてきたかによって決まるのだ、 それ以外にどういう要因があるというのか? ‥と、こんな感じですよね。
しかし後半、8:平等王のあたりになると、なんか微妙に論調が変化してくるのです。
[Table of Contents]死者の救済史 供養と憑依の宗教学 (角川選書) [ 池上良正 ] |
‥わかります? ここでは「汝等が 追善作善 なすならば その善行により 生天するかも」と 言ってます。つまり遺族が、亡者に対して追善供養を行なえば、その功徳善行によって 亡者の扱いが変ってきて、あわよくば「生天」、つまり天界に生まれかわる可能性もあるぜ、 そう言っているという訳です。
ちなみに。庶民において、身近な個人を「ほとけ」にする、とは 故人をすこしでも上等な死後世界(天界など)に送ること(=生天)、 のようです(池上2003, p.26; ちなみに「生天」を求めてしまうのは インド仏教でも同様らしい。奈良1990, p.192)
こんな感じに「追善供養が大事だぜ」というのは 8:平等王だけじゃなく、 9:都市王も「仏経の 力をかりて つぎの生 追善あれば 仏なるかも」、 10:五道転輪王も「三度目の 関所を越えて ここに来た 悪人どもは 追善たよれ」 ‥‥こんな感じで、なんか事あるごとに「追善」の重要性を語っているのが わかります。
[Table of Contents]すでに紹介したとおり、 「地蔵十王経」の後半は、遺族らに「追善供養」を要求するものとなっています。
ここで気になるのは、亡者たちが遺族たちに追善供養をお願いする、という点です。 つまり、亡者たちは、ちょっとでも安楽になりたいので、遺族たちに しきりに 追善供養をお願いする。遺族たちは、お願いされてるみたいだから仕方なく 追善供養してやる。‥なんか遺族(生者)側が、ものすごく 「上から」というか優位な位置に立っているというか。そんな感じに見えませんか?
んで、何でそういうことが気になるかといえば。 日本では昔から「たたり」という信仰があって、その「たたり」においては、 たとえば道真公などの御霊信仰などが有名ですけど、生者たちは 死者の「たたり」に恐れ怯えて、なんとか死者を沈静化しようとして 必至に手を尽くすじゃないですか。この場合、あきらかに亡者が上で、 生者が下、そういう上下関係になっています。上の供養のときとは 死者と生者の上下関係が逆になってますよね。
(書きかけ。つづく予定)
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