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秋田三十三観音

The 33 Kannons of Akita. // 秋田三十三観音。

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不思議に入手した情報源‥

さて。こうして教円禅師と保昌房が定めたということになっている秋田六郡の三十三観音でしたが。 時間の経過とは残酷なもので、いつしかその存在はすっかり人々に忘れ去られることとなりました。 というか、それ以前に、どれほどの人が秋田六郡三十三観音を知っていたのか? という疑問も そもそもありますが‥ というのはさておき。 「六郡巡礼記」によれば:

右六郡三十 三所、年数六百九十余年の星霜移代り有所知れず。不思議に此書を得て今享保十四年[己酉]季夏の頃より、 秋田御城下の住人鈴木定行、加藤政貞の両人古跡を尋聞きて順礼し、最も順道に彼の札所を綴り、後人 の旅行の為と左の如く書記す者なり。 (「秋田六郡三十三観音巡礼記」(『秋田叢書』第八巻, 1931), pp.1-2.)
保昌房らの時代から690年の後、1729(享保14)年頃になって、「不思議に此書を得」た 秋田御城下(現在の秋田市ですよね)の住人鈴木定行、加藤政貞の両人が古跡を尋聞きて順礼した、とあります[*1]。 不思議に、700年前の、皆が忘れてしまった内容の、書物(全容がまったく不明。ときどき「古書」として 内容の一部が言及されるのみ)を得た?? ‥んー。 ビミョーですね。眉唾じゃね? と正直思っちゃいますよね[*2][*3]

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由緒はたぶんガセ

 んで「正直、保昌房に遡るとされる縁起って、ちょっと眉唾じゃね?」という思いを抱くのは 私だけではなく。『秋田県史』を見てみますと、もうハッキリと「江戸時代になってつくられた 事実に基づかない由緒」と書いちゃってます。あいかわらず思い切りよすぎじゃないかと 思う[*4]のですが、それはさておき。とにかく以下でそれを紹介させていただきます:

 秋田藩内の三十三観音のおこりについては、「後朱雀天皇の長久年間(1040年代)満徳長者保昌(平鹿郡御嶽山塩湯彦命臣、卜部氏 致の末裔)が、諸国修行の末紀伊の熊野山に籠り、そこでの修行中霊夢によつて定朝に三十三体の仏像をつくらせ、比叡山の教円 阿闍梨の開眼供養をえてかえり、之を北出羽の名山巨刹三十三ヵ所に奉納して巡礼所と定めた」という言い伝えがある。事実これ らの三十三ヵ寺は、江戸期の後半を通して定朝作の仏像と称するものを夫々安置していた。しかしこれは、江戸時代になつてつく られた事実に基づかない由緒であつて、定朝作と称する仏像も三十三ヵ寺を権威づけるためのものに他ならない。ただ、享保年間、 秋田六郡三十三観音順礼記に、その縁起を書いたといわれる鈴木定行・加藤政貞の二名が、藩内各地の名刹を巡礼して歩いた事は 確かであろう。従つて藩内三十三ヵ所の設定は大体その前後と考えてよく、以前からそれぞれの地域で崇敬されていたものが、享 保前後に順位の確定をみたものと判断される。御詠歌もそれぞれの寺にふさわしいものが詠唱された。 (『秋田県史 近世篇 下』, pp.732--733.)

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札所が「秋田六郡」であることの意味

 『秋田県史』は、 江戸時代に鈴木・加藤が「秋田六郡」(ここでは「藩内三十三」と書いてありますが)の順礼を行った 時期とかなり近い時期に「秋田六郡」が制定されたと推測しています。このへんは、かなり妥当な 推測だろうと思います。

 だって「六郡」というのがなかなかミソで、 『秋田県史』も「六郡」じゃなく「藩内」と書いてしまっている点で明白なんですけど、 それってそのまま 江戸時代の佐竹家の支配範囲(久保田藩)ですからね。現在の横手で生まれ育った保昌房が 選定するとしたら、何故 近くにある由利郡を除外して、遠くにある 山本郡とか秋田郡比内(のちの北秋田郡)を入れているのか。 「由利郡は佐竹領ではなかったから」以外の合理的な理由が、私には思い浮かびません。 (また比内が秋田郡に編入されたのは(それ以前は比内郡)、 [Wikipedia]によれば1590年、豊臣秀吉朱印状によってのことらしいですので尚更‥。)

 そして当然のことながら、保昌房の時代は「佐竹領」なるものは存在しない、というか、 思えば佐竹家は新羅三郎義光を祖としている訳なんですけど、その源義光といえば、 奥州十二年合戦の源氏側の総大将・源頼義の三男なわけなので、保昌房とは同時代の人。 ヘタしたら「後三年の役」で両者が顔を合わせていたとしても不思議ではない訳で。 そんな感じですので、 「秋田六郡三十三」の選定に保昌房が絡んでいるかというと、私は「ノー」だと思います。

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でも部分的には何かあったかも

 ただし、それは「秋田六郡」の三十三箇所がまとめられた時代についての話であって、 その部分的なもの、とくに平鹿雄勝郡あたりについては「七観音」みたいなのが たぶん昔からあったんだろうと思います[*5]。んで、江戸時代に それらの伝承を 誰かが集大成する形で佐竹領全体拡大バージョンを作成、 それが「秋田六郡三十三所」になったのかなー、なんて妄想をしそうになります。

 つまり、上記『秋田県史』の「以前からそれぞれの地域で崇敬されていたものが、享 保前後に順位の確定をみたものと判断される」という記述のとおりじゃないかと思います。 だから『六郡巡礼記』では1番札所について「御本尊は滝壺に入て見え給はず」[URL]、 19番札所では「古書にツクシ森と有り。‥いつの 頃よりか、彼のツクシ森より千手院へ移し奉る」[URL]などと、 鈴木らの時点ですでに記述内容と実際がズレていたりするんだろうな、と。 『六郡巡礼記』を見ると「古書に‥とあり」と、いわゆる古書と、当時の現状とが違ってる 札所が それなりの箇所見られますので、集大成される前の各地レベルの「七観音」みたいな ものの成立は、それなりに古そうだとは思います[*6]。 別史料があればいいんですけどね。

*註1
「略本と広本があり、略本の成立は享保14年(1729)か。」 (志立正知(2009)『<歴史>を創った秋田藩 モノガタリが生まれるメカニズム』笠間書院.p.293)。 「享保18年(1733)に追記された『秋田六郡三十三観音巡礼記』(広本)」 (錦仁(2004)『小町伝説の誕生』角川書店. p.16)‥‥今のところ、略本、広本について全然わからないのでアレですが、 p.54で紹介されている13番札所の文面はここ[URL]の記述の後半、 「(備考)一本に左の如く見えたり。」のほうの内容になっています。ということは、 秋田叢書版に ときどき出てくる「一本に左の如く見えたり」として紹介されている記述、 たしかに他のものよりは若干記述量が多いもの、それが広本ということなんでしょうか。 錦2004を確認してみる必要はありそうですね。
*註2
700年も前の文献、しかもその間 それについて言及する書物がほとんどない文献、 そんなものを発見したらそりゃまさに「不思議」としか言いようがないだろと 私も思います。でもな‥‥鈴木らも「古書」をどこで どうやって入手したのか、紙質とか文字とか装丁はどうか、内容はどうなのか、 などについて一切言及してないうえ、さらに彼らが入手したはずの古書さえ現存して いないという‥‥なんか、私にはそれさえも「不思議」ですね。今だったらもう 「東日流外三郡誌」における和田氏と同じ扱いになりかねない‥
*註3
「でも、なんでそんな嘘つくのかね」と思うかもしれませんが、それはおそらく 現代の人たちと 当時の人たちの発想のしかたが違っていた、という点があるかもしれません。
 ちょっと話はズレるかもしれないですけど。 日本の中世における思想文献の中には、先師(最澄、源信など)や実在しない人物に仮託された偽書が かなり含まれていたりするらしいのですが、それは先師たちが「彼岸の仏の使者」であり、 「もし名を借りた先師がその場にいたならば、必ずやその思想に賛意を表するであろうことを。 それ以上に、もし先師がこの時代に生まれ合わせれば、必ずやみずからの口でその思想を 述べたに違いないことを」彼らは確信していたから、だから彼らは自分たちの思想を 先師たちの名を借りて述べることに何の不都合も感じていなかったのではないか、と 考えられているみたいです(佐藤弘夫『偽書の精神史』,講談社,2002.p.166)。 保昌房はともかく、教円禅師の存在はまさにこの「先師」の役割そのものではないかという気が、 私にはしています。
 てか、そういう考えかたって、日本に限らず仏教にはありますね。パーリにも 「善説は仏説なり」(出典不明^^;。SNあたりですかね)[*][*]という言葉があるらしいですし。
*註4
「東北地方に数多く存在する札所・霊場の多くは、江戸時代の元禄以降に成立して殷 賑を極めたところが圧倒的で、それ以前については再び新城博士の論考によれば、永正2年(1505) 以前に成立したとされる「奥州糠部郡三十三所」、永正18年(1521)以前成立と 思われる「岩城三十三所」、大永6年(1526)以前成立と思われる「最上郡三十三所」が確 認されと論じておられる」(吉岡一男(1992)『宮城の観音信仰』(宝文社),p.32) ‥‥つまり、江戸時代以前に秋田六郡の順礼が行われていたことがわかるような資料が、 20世紀末の段階では、見つかってないようです。
*註5
札所の数は「三十三」でなくても構わないはずです。ちょっと古い時代の話になるのですが: 「覚忠が三十三所巡礼をした当時、貴族の日記をみると、京都では七観音詣などといって 市内の観音霊場を巡礼するのが流行していた。‥(略)‥このように院政期には、無名の聖・ 修験者あるいは一般俗人の信者が、都や諸国で便宜に従ってさまざまの観音巡礼をして いたのである」(速水侑(1996)『観音・地蔵・不動』講談社現代新書1326.p.166)
*註6
でもやっぱ、保昌房時代まで遡る‥というのは無理っぽいとは思いますけどね。
 一般論になりますけど、佐藤弘夫は「納経の回国聖などを別にすれば、中世では長谷寺や熊野といった一つの霊場への 参詣を中心目的として、住居とその地点との往復が一般的な形態だった。それに対し、近世の霊場は三十三観音、西 国八十八ヵ所のように、一つの境内、一定地域に点在する聖地を円を描くように周回する形式が一般化していくのである。」(佐藤弘夫((2008)『死者のゆくえ』岩田書院, p.187. 以下も引用は本書から)と述べています。 「巡礼して回る」という風習が一般的したのは近世以降ということですよね。 ちなみに、なぜ近世になってから「巡礼」が一般化したのか。 佐藤は思想的な面からの解釈を試みています。中世においては聖徳太子・弘法大師などの聖人、 神様、生身仏、梵字の種字が刻まれた板碑などは「彼岸の仏の垂迹として人を浄土へと導く存在であり、彼らのいる空間(「霊地」「霊験所」)は、『この世の浄土」であるとともに遥かなる彼岸浄土の入り口だったのである」(p.105)から、その霊地を踏むことによって極楽往生を成就することが 中世の人たちにとっての参詣の目的だったようです。 しかし近世になると世界観は変化し、人々は現世利益を求めるようになってきます。 その結果寺社は「現世利益の機能を分有するさまざまな神仏を寺内に抱え込んだ、 多数の焦点をもつ」(p.187)ものに変化せざるを得なかった、と。 つまり中世において霊場はどこも同じ「浄土の入り口」だから、わざわざ あちこち巡る必要はなかった、それに対し近世以降は「浄土の入り口」という観念が 薄れたので「ここ一箇所だけ行くより、あちこち回ったほうがポイント加算されて得じゃね?」的に 考えるようになり一般人も「巡礼」を望むようになった、という感じなんでしょうか。 (ん? これを言うための論拠としてp.187の引用文を使うのはおかしくないか?>自分。 このへん、ちょっと保留。) なお、このポイント加算的な考え方については「特に一ヵ所ではなく複数、多数の聖地、本尊を巡拝すると 大きな功徳が得られるという思想は、わが国の宗教的風土が汎神論的な面をもっていることと無関係では なく、できるだけ多くの社寺、霊仏、霊神を巡って祈願をこめれば、それに比例して効験も著しいとする 「数量信仰」として結実していった」(清水谷孝尚(1983)『観音巡礼のすすめ』,朱鷺書房. p.71.) という記述もあり、それなりに知られている考え方みたいです。
 ‥と、上記のような佐藤の分析を知ったうえで、よくよく考えてみれば。「三十三処」「二十四地蔵」って、 「日本三景」「東北三大祭」と非常によく似たノリのように見えてきませんか? 観光的な要素、入り込んでますよね、なんか。 (ただし、註4で紹介したように、院政期に「無名の聖・ 修験者あるいは一般俗人の信者が、都や諸国で便宜に従ってさまざまの観音巡礼をして いた」(速水侑(1996)『観音・地蔵・不動』講談社現代新書1326.p.166)らしい点は、 ここで紹介してきた話の反証になってしまうんですけど。‥‥むむむ(^_^;)
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