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秋田三十三観音

The 33 Kannons of Akita. // 秋田三十三観音。

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第二世代::本当の起源は?

では、果たして誰が、いつ頃この「秋田六郡」を設定したのでしょうか。 ‥答は霧の中なのですが

「六郡順礼記」[URL]の写本の一本に、 以下のような記述(『秋田叢書』8巻, pp.6-7.)があることが目に止まります。

  • 1250年頃(建長年中)、鎌倉最明寺時頼公が諸国修行の時、当国の山々寺々順見して札を打玉ふ
  • 1509(永正6)年7月、平鹿郡横手石町一木氏治部ら、保昌房古書を得て、絶たるを起して是を順礼
  • 1607(慶長12)年、横手の住人羽多平勇軒斎、同所藤氏足利の末流鈴木定秀が六郡順礼
  • 1698(元禄11)年、横手光明寺住僧白道和尚ら、それぞれ順礼
「六郡=佐竹領」的に考えると、このうち1250年、1509年の記録はちょっと眉唾な感じになります。 1607年案は‥‥佐竹氏の出羽六郡移封が1602年ですから、まだのんびり順礼なんて考える状況には なってないんじゃないかと思うんですよ。佐竹氏が移ってくる前の六郡は 安東(秋田)氏、戸沢氏、小野寺氏がそれぞれ割拠していた訳ですけど(しかも戦国期には 彼らは暇さえあれば(?)殺し合いをしていた訳で‥)、 彼らが割拠していた5年後に六郡全体を「われらが領主佐竹様の土地」と一括りにして 人々が考えるような状況には普通ならない、それにはもっと長い時間が必要のはずです。 志立2009によると「幕府が佐竹氏に二十万五千余石という知行判物を発給したのは寛文4年(1664)に なってからで、この時初めて秋田・山本・河辺・仙北・平鹿・雄勝という領地が明示されている」 (志立正知(2009)『<歴史>を創った秋田藩 モノガタリが生まれるメカニズム』笠間書院.p.115) そうですから、するとさらに六郡を一括りに考えられるようになるまでは時間が必要だった、 ということになりそうです。

となると、1698年(鈴木らの『六郡順礼記』の 約30年前あたり)の横手光明寺住僧白道和尚ら、もっと正確に引用すれば

横手光明寺住僧白道和尚、六郡本覚寺住僧薫冏和尚、小西浄心法師、敦賀屋道専法師 (『秋田叢書』8巻, p.7.)
この人たちが何かカギを握っている可能性はあるんじゃないかと思います[*1]。 白道和尚が横手の人であること(他の人たちがどこの人なのかは不明です)は、 札所が横手近辺から始まっていることと全く矛盾しませんよね。というか、 1500〜1700年頃に順礼したとされてる人で 出身地が明らかにされてる人って、 横手の人ばっかりじゃん‥

過去の順礼の信憑性はどれくらい?

 上記推測はどの程度ありそうな話なのか。 上で紹介した横手光明寺住僧白道和尚らが1698年に巡礼したという記録、 この記録がいつ書かれたかについてですけど、 たぶん享保18年(1733)頃じゃないかと思います。その理由として、 錦仁(2004)『小町伝説の誕生』角川書店. に 「享保18年(1733)に追記された『秋田六郡三十三観音巡礼記』(広本)」(p.16) という記述があるのですが、ここで「追記」と書かれたものの中に 横手光明寺住僧白道和尚らが1698年に巡礼したという記事も含まれているのでは? という 気がするからです。「気がする」程度なのでアレなんですが、 これ、写本一本のみにしか書かれていない記述らしいですので‥。 んで、もしこのあやしい推測が正しいとすれば、1733年に 「1698年に横手光明寺住職白道和尚らが順礼」と書かれたことになります。 この35年差というのをどう見るか、ですね。ここに100年くらいの差があると、 なんだ、ほとんど根拠のない伝説じゃん、と思ってしまえそうなんですけど。 35年というのは、真偽を考えるうえで微妙ですね。それなりに事実に近い感じ。 (ただ、その部分の記述が本当に1733年に書かれたのか、さらに後代そこだけ追記された 可能性はないのか、という話になると、それについて判断する材料を何一つ持ってないです。 なので「最短の場合、35年」という程度の話であることには注意する必要はありそうです。)

異説::長崎七左衛門起源説?

 「汁講話」という本があるんですけど、その中に、 秋田三十三観音の起源について「南比内小猿部沢の内七日村之長崎七左衛門といふ老人」 (「汁講話」,『第三期 新秋田叢書(12)』.p.58)が始めた、という記載があるのを 見つけました。私が取ったメモが、走り書きなのでちょっと記述が間違っているかもしれませんが、 たぶん「南比内小猿部沢の内七日村」というのは 現在の秋田県北秋田市七日市のことかな。また 長崎七左衛門といふ老人については、Webで検索してみると、すぐに出てきます。 Wikipediaにも「長崎七左衛門」という項目 [URL] があるほどです。 もしこの長崎さんが秋田三十三の起源とした場合、Wikipediaには1731年生まれとありますから、 『秋田六郡三十三観音巡礼記』の広本の成立とされる1733年頃には、まだ満2歳‥‥んー。 同時代人の偉人ということで、この開祖(?)として長崎七左衛門氏の名前が浮上してくるのは、 まあ、自然といえば自然な成り行きではありますけど。 でも、ちょっと無理ですね。残念。

*註1
この1698年説を取る場合、「久保田三十三所」の 伝説的起源が1680年代ですので、両者はほぼ同時期に成立したことになります。
どうでもいいことですけど 「大野の撫斬事件」が起こったのが 1696年。この1698年はその2年後に当たります。
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