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仙台三十三観音

The 33 Kannons of Sendai.


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03:資福寺観

1770年代(安永年間)は北山葬場「定光寺」(吉岡1992,p.69)

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08:宝光院

仙台三十三の中で、唯一現存しない霊場です。戦時中までは廃寺ながら観音堂は残っていたけど 空襲で観音堂が焼かれてしまった、ということみたいです。今は近くにあった09:満願寺が 08番と09番を兼ねています。

 1770年代(安永年間)は同心町「宝光院」(吉岡1992,p.70)。 『封内風土記』(1772) 見たら長海上人が開山した寺と書かれてます。貞山公、つまり伊達政宗公の出生に際し、 保春院、つまり政宗公の母親の義姫からの依頼により湯殿山まで「文武忠孝兼備の子」が 生まれるよう祈願しに行った方のようです。なるほど。だから湯国山月山寺宝光院という、 すさまじいばかりの出羽三山色満載の寺名なのか‥

 この宝光院、江戸時代の地図を見ても見当たらず「あれー?!」と思ってたんですけど。 検索してみると、長海上人は木食行者をやってた人みたいですね( [1] [2] など)。‥ということは。江戸時代の地図において「木食寺」となってるお寺、 それがたぶん宝光院ですね! ここから私の妄想ですけど、現在の滝沢神社 [StreetView] の場所に 観音堂があったんではないでしょうか。それが空襲で焼けて、しかし観音様だけは焼失を免れたので 観音様は 09:満願寺さんに移動、その08:観音堂跡地に 近場(現在の錦町公園内。大仏前通をはさんだほぼ向かい)にあった滝沢神社が (錦町公園をつくるために立ち退いて) 引っ越してきた、と。

 この想像が正しかった場合の、江戸元禄時代の 08:宝光院 周辺地図(書き込みアリ)を右に。 (仙台城下五釐卦絵図)

 でも『封内風土記』(1772) には8番札所は「定禅寺内善性院」と書いてありますよね。それは何なんでしょうか‥。 ちなみに定禅寺があったのは仙台市本町の合同庁舎の一帯ですよね。そのどこに善性院があったかは ちょっと不明です。

(ちなみに。 『封内風土記』宮城郡 の しおり は [ こちら ] です。)

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10:善入院観

1770年代(安永年間)は原町「清光院」(吉岡1992,p.70)。

 なお2011(平成23)年3月11日の大地震。観音堂自身は無事のよう でしたが、石灯籠が崩れたり、何と言うんだろう? 脇にある屋根の柱が折れて 倒れていたりと、関連施設にはかなりの被害が出ていました。

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11:小萩観音

仙岳院観音堂。 1770年代(安永年間)は榴岡「仏生寺」(吉岡1992,p.70)

お詣りに行ったら犬がワンワン吠えて参りました (-_-)

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12:慈恩寺観

「仙台三十三」とは別に、慈恩寺単独の三十三観音があります[URL]

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23:松音寺観

1770年代(安永年間)は連坊小路「遍照寺」(吉岡1992,p.72)

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26:両全院観

1770年代(安永年間)は名取郡北方日辺村「良善院」(吉岡1992,p.72)

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29:祐善寺観

1770年代(安永年間)は「須田玄蕃館」(吉岡1992,p.73)

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29a:清涼寺観

「寺めぐり「若林・六郷あたり」」(仙台市若林区)のページ [URL]などによると、沖野の 「清涼寺には観音堂があり、江戸時代の名取郡誌にはここが仙台三十三観音二十七番札所であると書かれている」 とあります。「江戸時代の名取郡誌」というのは、おそらく 佐久間洞巖の「名取郡志」(Wikipedia)なんだろうなとは思いましたが、未見。 『名取郡誌』については、江戸時代のではなく、1925(大正14)年の名取教育会『名取郡誌』p.517. に清涼寺が「仙台順礼三十三処、第二十七番の札所なり」とあるのは見つけました。

 しかし。実は清涼寺の観音堂には「二十九番」と書かれてます。27か29か、どちらにすべきか? ‥正直、迷ったんですが(写真は27aになってます^^;)。 いろいろ考えるうち、たぶん旧29番の「須田玄蕃館」がポイントなんじゃないかと 思うようになりました。

 つまり「須田玄蕃館」が29番札所じゃなくなった、じゃあどこに移転したのか? という話になったとき、巡礼の人たちの情報が祐善寺派と清涼寺派に割れてしまったのではないかと。 札所情報って、今でさえよくわからないことがあるのに、まして明治期とか江戸期とか、 基本は口コミ(しかも各札所の地元民じゃない人たちによる口コミ)で伝わってるはずですから、 多少の伝承の混乱は起こって当然と思われますから‥。
 というわけで。いろいろ考えたことと、清涼寺自身が「二十九」を名乗っていることから、 ここでは29説を採用しておきます。

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31:落合観

1770年代(安永年間)は名取郡四郎丸村の内「大善院」(吉岡1992,p.73)。

 また「昔はややこの上流の袋原にあったが、寛永三年(1626)政宗が馬に跨り閖上浜に 赴かれる際、同堂の前を通られて霊験があったというので、翌四年家臣佐々若狭元綱に命じ、 これを落合に移された」(菊地勝之助(1976)『修正増補 仙台地名考』宝文堂, p.35)

 なお2011(平成23)年3月11日の大地震と大津波。落合観音堂自身は無事のよう でした(石碑とか看板は折れてました。左写真)が、 観音堂脇の土手をはさんだすぐ脇の河原にまで大津波は来ていたんですね。 こんな場所まで来るなんて‥ 本当に信じられません。

(右写真: 落合観音堂からほんのすこし下流の土手から、名取川方面を望む。 このあたりは一面畑だったのですが、洪水で瓦礫ばかりになっています。(2011/3/19))

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32:十八夜観

1770年代(安永年間)は名取郡根岸村「成就院」(吉岡1992,p.73)

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33:鹿落観

1770年代(安永年間)は越路鹿落坂「大蔵寺」(吉岡1992,p.73)。

 「鹿落坂の丘の上に越路観音(もと青葉山黒沼辺に安置した正観音)や料亭東洋館などがあり、 この下を通る嶮しい坂道は、即ち昔の東街道で、西南部の山手からここに来て米ヶ袋渡戸を 渡り、仙台の街に入る重要な往来であった」(菊地勝之助(1971)『修正増補 仙台地名考』 宝文堂, p.59)。ちなみに黒沼辺にあった時期はいつ頃かといえば、観音堂前にある由来書きの 掲示によれば「政宗公の仙台開府以前」のようで、「満海上人」という人がお守りしていた らしいです。そこで満海上人について調べてみると‥

  • 「昔、満海上人は越路山の黒沼のほとりの庵室に住んでいた」[URL]
  • 「政宗が隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知れ渡っており」[URL]

三十三みつ かくれは今も 後の世も やすく越路の 末ぞたのしき

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