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人は冥途に行かない説 [平田篤胤]

平田篤胤翁における死後世界観を紹介


[前] 地とヨミの断絶

ヨミは穢れすぎ

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「死ぬとヨミに行く」説に典拠なし

‥あれ? でも『古事記』によれば、イザナミ大神は「一日に千人殺してやる」的な ことを言ってなかったっけ? これはイザナミ大神が毎日千人ほどの人々をヨミ国に拉致する、 つまり「人は死後、ヨミ国に行く」ことの根拠になっているんじゃないの?? という 疑問を持つひともいるかもしれません。 その問いについても篤胤翁はすでに答えておられます:

また伊邪那美命の、「一日に千頭くびり殺さむ」と宣 たまへることを、魂の黄泉に往くことと、思ひよりもすべけれど、此は、妋神の御所為を恨みま して、その知らする国の、青人草を殺さむと宣たまへるのみにて、その魂を、夜見に召し取りたま はむと宣たまへるならねば、思ひ混ふべからず。(p.157) //
伊邪那美命が一日に千人殺そうといわれたことを、魂が黄泉の国に往くことと 考えるかもしれないけれども、これは夫の神の所為を恨まれて、夫の神が治める 国の人間を殺そうといわれただけで、その魂を夜見に召し取ろうといわれたのではないから 混乱してはならない。(tr.236b)
いやいや、イザナミ大神はただ「殺す」と仰っているだけで、「拉致する」なんてことは 全然仰ってないではないか。よく読め‥とのことで。 つまりこのイザナミ大神の言葉は「人は死後にヨミ国に行く」ことの根拠ではないのだ、 人が死後に黄泉もしくは地獄に行くなんて話はすべて外国からもたらされた、 不正確な伝承にすぎないのだ、と解釈されるようです。

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ヨミは穢すぎ

そして。「伊邪那美命が死後にヨミに往ったから、人も死後ヨミに往くのだ」という 説が成り立たないとしたら。人は死後どこに往くのか? について、 古事記などからはわからない、という話になってくるのです。

 そこで。もしそれが成り立つのであれば、 「三大」説によれば、夜見は地下(地中)ですらない、 「地」とは分離して別になってしまった穢い沈殿物の塊に他ならないわけで、 そんな場所に死後かならず行かねばならないのか?? ということが (たぶん)篤胤翁ご自身の中から湧き上がる 疑問となって出てくるんですよね。

清きと穢きと、きはやかならでは、えあるまじき謂なるに、まして、世に生り出づる天 の益人等は、悉に、伊邪那岐命の、彼国を穢みにくみ給ふ、御霊をたばり、生れ出づる ことなるを、いかで、此の国土の人草の、魂てふ魂の、悉に、彼国に帰くべき由のあら めやは。(p.156) //
清いことと穢いこととのけじめがはっきりしていなくてはならないのに、まして、 世に生まれ出るという人はことごとく伊邪那岐命のかの国を穢く思いにくみたまう御霊を たまわって生まれ出るものであるのに、どうして、この国土の人々の魂という すべての魂がことごとくかの国に往くという道理があるであろうか。(tr.236a)
現に見たる、事実に試し考へたるも、浄と不浄とその 差別の灼然を、かく汚穢を忌み悪む魂の、その穢れの本つ国また汚穢の行留まる処なる、 夜見に帰く由の、いかで、あらめや。(p.163) //
現に見聞きできる事実によって考えても、浄と不浄とのけじめははっきりしているのであるが、 このように不浄をにくむ魂が、その穢れがそこからおこる源の国、また穢れがそこに往きとどまる ところの夜見の国に行くわけがどうしてあろうか (tr.239b)

我々はイザナキ大神のもと、イザナキ大神から御霊を賜って生まれてきたのだ。 イザナキ大神は穢いヨミ国をあれほど憎んでおられるのに。 なぜその大神から賜った御霊が死後そんな穢いヨミ国に行かねばいけないのか。

 イザナキ大神がそんなことをお許しになるはずないじゃん! それに「現に見たる事実」から考えても、そんなはずないし!! ‥と。

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夜見では人生が無意味

このとおり 「どう考えても人が死後にヨミなんて穢い場所に往くわけないじゃん!!」 ‥これが篤胤翁の主張であります。

 しかし。もし篤胤翁の主張が正しいものでなく、 人が死んだら皆例外なくそのイヤなイヤなヨミに行く ことに決まっているというのなら。

 果たして夜見の前段階として存在する「この世」、また 我々の人生にはどんな意味があるのか? 人生はそんなに意味がないことのはずない‥。 そんな篤胤翁の納得できない想いが、師匠である宣長の「人はすべて黄泉に行く」解釈に 意義を唱える原因になっているようです。吉田麻2016は以下:

 宣長の『古事記伝』では、人は死後、汚く穢れた夜見の国へ行くということが論証され ている。たとえどんなに正直で健気な人生を生きた者であっても、あるいは反対に悪逆の 限りを尽くした者であっても、死んでしまえば、すべての人間は暗く汚い夜見の国へ行か ざるを得ない。だが、そのようないわば無意味な「死」に連続している人間の「生」とは、 いったいどこに意味があるというのであろうか。‥(略)‥  篤胤にとっては、神々の存在を強く実感すればするほど、人間の生命の営みには非常に 豊かな意味がこもっているように感ぜられる。‥(略)‥ 宣長の『古事記伝』では、 このように貴賤を超えた人々の生活、特に名も無き庶民の生が不思議と豊かなものに彩ら れている、という篤胤の実感の根底にあるものを解明することはできない。
 篤胤は、幽冥界の存在を高らかに宣言した『霊能真柱』の後に、あらためて『古史伝』 を著すことによって、宣長の『古事記伝』では明らかにされなかった、人間の死生の意味 全体を、もう一度大きく肯定的に捉え直そうとしたのであった。 (吉田麻子(2016)『平田篤胤 交響する死者・生者・神々』平凡社新書819, pp.129--130)
ここでは 篤胤にとっては、神々の存在を強く実感すればするほど貴賤を超えた人々の生活、特に名も無き庶民の生が不思議と豊かなものに彩ら れている、という篤胤の実感の根底にあるものを解明することはできない ‥といった感じで「実感」という語が使われています。これは上でちょっと使った 「現に見たる事実」という言葉と同じだと思うんですけど、つまり「話としては理解できるが、 それでは納得できない」ということなんでしょうね。

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