地とヨミの断絶
[Table of Contents]神は夜見に行けない
そして。イザナミ大神が往来できないほどの致命的な断絶であれば、当然、
イザナミ以外の神々にとっても致命的な断絶のはず。それはつまり‥
この神々は、此国土をいそしみ給へる、その幸魂は、常磐に留り坐して、その御霊を祭る
なれば、夜見より来り坐して、祭祀を享けたまふ謂にはあらざるなり。(p.164)
//
この神々のこの国土にはたかられる幸魂は、この国土に永久にとどまりまして、
人々が祭るのはこの幸魂を祭るのであり、決して祭りのたびに夜見の国から出て来られて
祭りをうけられるのではないからである。(tr.240a)
イザナミ大神ですら、この世界に戻ってこれないわけですから。‥でも逆にいえば、
我々が普段お祀りしている神々は図における「地」すなわち
この世界におられるということ
[*註]。
もし、それらの神々が夜見におられるのなら、それらの神々は我々やこの世界に
いかなる影響力も与えることができないわけで、
つまり「祭祀」なんて行為は生まれてないでしょ? そんな行為には何の意味もないでしょ??
‥という感じでしょうか。
[Table of Contents]人も夜見に行けない
そして無論、「神はこの『地』と『夜見』を行き来できない」という議論は
神々に限定されたものではありません。人間に対しても成り立ちます:
さるは、人の死期に、黄泉に往く魂はいまだ祀らぬほど
のことなれば、さし翔りて黄泉に居着くべければ、さては、此国土に来たりがたき由なること、上
に云へるが如くなれば、この国にて祀るはいはゆる虚飾にして、真のしわざならず。(p.164)
//
人が死んだ時、黄泉に往く魂は、祀りをうけない前にいち早く黄泉に居着いてしまうので
あろうから、また、再びこの国土に帰りがたいわけは上に述べたとおりであるから、
魂が黄泉に往くとすると、この国で祭るのは、つまり虚飾ということになり、
真実ある行為ではないということになる。(tr.240b)
神々への祭祀と同様、先祖に対する祭祀についても、もしご先祖の霊が
この世界になく、夜見国にあるというのであれば、
先祖への祭祀がとんだ茶番にすぎないという話になるし、つまりそれは
間違っている。‥と。ということでこのような結論に達する訳ですね:
さもあらば、
此国土の人の死にて、その魂の行方は、何処ぞと云ふに、常磐にこの国土に居ること、
古伝の趣と、今の現の事実とを考へわたして、明かに知らるけれども、‥(略)‥
此顕明の世に居る人の、たやすくは、さ
し定め云がたきことになむ。(pp.165--166)
//
では、この国土の人が死んだ後、その魂はどこに行くかといえば、それは永久にこの
国土にいるのである。このことは古伝と、今、現に見聞く事実とから考えて明らかに
知られることである。‥(略)‥
この現世にいる人間には、容易には、どこにいると指していうことができがたいのである
(tr.241b)
昔から「人が死ぬと、その魂はヨミに行く」とされているが、それは間違いだ。
神々でさえ「地」と「ヨミ」で行き来できないのに、人の魂でもそれは不可能だ。
すると人の魂はどこに行くのか。「古伝」、そして「今の現の事実」から考えると、
どこにも行かず「地」すなわち
この世に居続けるとしか考えられない。具体的にどこにいるかは
説明できないが、この世のどこかにいるのだ‥と。