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人は冥途に行かない説 [平田篤胤]

平田篤胤翁における死後世界観を紹介


[前] ヨミは重く濁った物の塊

古伝に基づく解釈

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「人は死後、ヨミに往く」説は成り立つのか?

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伊邪那美命の死が確認できない

このように「三大」説は宣長師によるヨミの設定と異なる部分を持つことにより、 「人は死ねば皆、ヨミに往く」という宣長の「死」の解釈に、 付け入る隙を与えてしまう可能性を作ってしまいました。なぜなら 人が死後「地」と「泉」のあいだの断絶を乗り越えてヨミに行くには、 死によって人が「魂」と「屍」に分離することが必要であり、 それは神であっても同様であるはずなのに‥

大国主命から時代を遡ってみれば、伊邪那岐命・ 伊邪那美命・須佐之男命は、いまだ分離していない天・地・泉 を、「現身」のまま移動していたことになり、「現身」のまま移 動していたのであれば、少なくともこの三神は死んでいない、と いうことが導かれてしまうのである。中庸は直接述べないが、間 接的にはそうなるはずである。 (吉田真樹(2017)『平田篤胤--霊魂のゆくえ』(再発見 日本の哲学; 講談社 電子書籍, p.242/全379) (※電子書籍で、全379ページと表示されているときの p.242。 ※表示の仕方によってページ番号が変わるので‥)
宣長説において、伊邪那 美命が死んで黄泉国に行ったことと、人が死んだらすべて黄泉国 に行くことは、完全に連動するものである。 (吉田真2017, p.243/全379)
つまり人は死んだらヨミに往くことの根拠として伊邪那美命の故事(?)があるはずなのに、 肝心の伊邪那美命がそのとき死んでいなかったのだとすれば、 それは根拠になり得ないのでは??、という話になってくるという訳です。

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「神避」の解釈

しかし。古事記によれば、 伊邪那美命は火神をお産みになられて死んでしまった、と書かれています。

故伊邪那美神 者。因生火神。遂神避坐也。 (古事記 上, 日本名著刊行会(1930), p.10.)
たとえヨミが地続きであったとしても、こんなにハッキリと死んだと 書かれているのでは、どうしようもない‥。と思ってしまいそうになりますけど。

 ここで「死」を表す単語として使われているのが「神避」という語。 篤胤翁は、この「神避」という語を「死ぬ」と解釈するのが間違っている、と 主張されるのです。このへんについて吉田真2017はこう解説してます:

「神避」という語は、『古事記』典拠の語で、神 の死という意味に通常解されるものである。‥(略)‥ しかし、篤胤は「神避」に死とい う意味を認めない。伊邪那美命は「神避」ったが、死んだのでは ないと篤胤は捉えるのである。 (吉田真2017, p.248/全379)
伊邪那美命は伊邪那岐命に見られたことを 「恥恨」して、「夜見国」に離れ別れることにしたのだと篤胤は 説明する。 (吉田真2017, p.249/全379)
ここで篤胤翁が論拠として用いるのが祝詞、 いわゆる「古伝」と呼ばれるものなので、そのあたりはちょっと 注意が必要かもしれませんが、篤胤翁によれば 伊邪那美命は亡くなっておらず、火神を生んだ時の姿を伊邪那岐命に見られたことを 恥じて、当時はまだ地続きであったヨミに移動していった、つまり 伊邪那美命は死んでヨミに往った訳ではない! との解釈となります。

 このような典拠に関する怪しさは若干(?)あるものの、 「じつは伊邪那美命は死んでいないから、死後ヨミに往った」という 従来の常識は間違いだった! となるのが篤胤翁の説になります。

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[余談] 古史成文・古史伝

自身の「実感」に合う、納得できる解釈を求めるため、 篤胤はのちに 『古史成文』『古史伝』を著作し「神話の再構成」をすることになったようですが、 それが近代以降での篤胤翁の評価が下がってしまった原因のひとつであると吉田麻2016は 指摘します。

 ちなみに、篤胤のこの「神話の再構成」という行為は、戦後の思想史研究においてすこ ぶる評判の悪いものであった。つまり、宣長が『古事記』というテキストを揺るぎなく据 えて注をほどこすという、近代的にも評価されうる文献実証研究をおこなっているのに対 して、篤胤は恣意的にテキストをいじり、切り貼りする。こんなものは文献研究のかざか みにもおけない、というわけである。 (吉田麻2016, p.129)
実際にWeb等でざっと検索してみただけでも、Wikipedia だと以下:
『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『風土記』などを材料とし、諸々の古典の中から伝承の異同を考察し、神代から推古天皇までの古伝を『古事記』の文体にならって補足や訂正し、平田が正説だと考える伝えを書き添えて記述する構想を練っていた。古伝に異説が多々あることを訝しく思っていた篤胤は、真の伝は必ず一つである、との見解に立ってこの『古史成文』を著した。 [ Wikipedia::古史成文 ]
こんな感じで中立的に書いてありますけど、「世界大百科事典」は以下:
篤胤がその神典として撰定した《古史成文》は,記紀その他の古文献から自己の古道信仰に都合のよい部分を任意に選び出して編集したものである。 [ 【国学】の項, 世界大百科事典, コトバンクより ]
こんな感じで、逆に中立性が求められそうな事典系のほうが 都合のよい部分を任意に選び出してと、かなり辛辣に書いているという‥。 これはつまりそれだけ近代的な文献研究の枠組からの逸脱が激しいと評価されているから、 ですよね。

 ただ、これについては吉田麻2016も指摘していますが、近代以前の人たちを 近代以降の枠組みでのみ理解しようとしたときの限界ですよね。宣長は 近代文献研究とかなり似た方法で『古事記伝』を書いたわけですけど、それは 結果として近代以降と同じ方法になっていたという話以上の意義をそこに見出そうとするのは ちょっと無茶でしょうし、逆に篤胤についても同様。

 そして近代以降的な評価でみたときに篤胤は「研究者」としてはイマイチなんでしょうけど、 そのぶん思想家としてはすごく「引力」がある人というのは確かなんだと思います。

 ‥と、篤胤翁に対する評価についてはともかく。 篤胤翁が自説を展開する際によくこれら『古史成文』などが「古伝」として典拠として 用いられるんですけど、これら「古伝」をどう考えるかで篤胤翁の説に乗れるか 乗れないかが決まってきそうな感じですよね。本サイトではとりあえず乗っていきます。






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