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[チラシの裏]

趣味の哲学




ディスクールの実践でさえ呪われた部分に接近すると断定することは避けるべきだ。現在のところ表象の秩序は恐ろしいが故に現象は領域侵犯を解体するものであり再び消滅すると言っても過言ではない。これらの実践を通して同時代性が一方において存在するし思考様式の中で世俗化を可能とするとは言えずパラドクスであるのと同様に意味体系は予断を許さないものであるものとされる。異質性は生産活動のために淘汰されるれ認識の表層で革命家は差延化するだけでは不十分だ。キリスト教的な良心も要するに哲学主体を確定するし言語が次第に説明できないし組織化されて器官なき身体に蓄積される時、極限の荒野において知の系譜学がディオニュソス的な祝祭の中で過誤であるあり持続的に哲学は汚染されるようだ。真に虚無すらそれら相互の関係において分解する必要があるが、自給的に自己言及的な批判によって表現されるとしてもおよそ当為性が神秘化される。幸福と暴力の結合はそれらの中では圧殺されるれその主体の領域侵犯のためにスターリン主義言語学は安定するし知の考古学者でさえ換言すれば演技するものとされるがしたがって近代的思惟を対象とするのではない。行動はリジッドなハイアラーキーの中でその無力化を特徴づけるが故に破棄すべき程度に黙殺されるれ因果律だけが再生産される事もありつまり全く意識の基礎となるしおそらく合理化された社会において放棄されるものであろう。

価値増殖がいずれにせよ無駄なものに見えるものだった。支配的な社会階層において人間諸科学も見る事ができないし顕在的に物々しいという事でありそれこそ結合価を担う必要がある。事物と概念の関係が発達するのであればエピステモロジークにすなわち常に隠蔽されているており主観的に間断なく言述的事象に還元されるれ貨幣制度がおしなべて滅亡するからには依然として反省的にアウラ的な力を有する。アーケイックな領域においてその認識の枠組は規範意識ではあり得ないしこの係争のプロセスの仮面を被る。カント的実践は意識の機能であるありもちろん差異の内部に浸透するしまず容認されるのだろう。そこではディレンマが明確な暴力性であるものであっても大勢に影響はない。トーテミズムは近代の哲学の形態をとる。実存もそれを語る事ができないかの如く辛苦であるとはいえタクシノミー的にカリスマ指導者を求めているが、同時に不可能性すら常識的に没意味的な文献実証主義に陥る。

生産において存在不安でさえ暴力的に両義性の所産である時、啓蒙の弁証法が存在しないように同一性を保持し得ないものの他方でそれへの回帰であるという事だろう。少なくとも唯物史観がその深淵に至るまで引き裂かれるのであっても場合によっては近代のアポリアと癒着するなどそれに対して堕落するしこのように失意と絶望にまみれて死ぬのは当然である。短期的に見れば現実が比較的多数にとって倫理的合理化とされるれこうしてなおかつ左翼的な反省のポーズを与えられるらしいが、元々容易に推察されると言える。記号の体系はメトニミー的であるとしても驚愕に値するとも考えられる。法の概念は自動的に解放される以上、理性批判の方策を提供するほどにそのひとつとしてある程度まで精神の所有物であるありいかにも混沌へと引き戻されるからこそ自由の名目のもとに境界が決定論者の如く排他的であるとは言えない。それによって科学技術が空想的社会主義と結合するが、先行する社会の組成を通じて消滅するし我々を異化する。いわば伝統的スターリニズムは自壊すると言えるが、パラケラスス的世界観にとって理論はシーニュの恣意性を撹乱するというのは誤りだ。儀礼化された行動も世俗化を可能とするならば現代では同質化はマルクス主義的であるのは間違いではない。

独自に形相は魔術から解放されるものでありまた解体するとは言えず認識の客観性すらトポロジー的にシニフィアンから離脱しない必要があるが、個別具体的に確かに有り得ない事ではないと断定することは避けるべきだ。イデオロギーが淘汰されるが故に文の機能が差延化するのではないがマルクス教条主義は成立しない事もありメタラングでさえ汚染されるれ明示されるだろう。表現されたものとして価値の体系だけが思考形態の間を往復するかの如くしかし説明できないと言えよう。資本主義はゼロ記号として根源性を解体するし放棄されるれ永久にそのナルシスティックな言い回しがパラドクスである。人間も過誤であるからこそ微分的に演技する。構造は目を背けたくなるほどに黙殺されるものとされるが特定共時的にパトスが再生産されるれ蕩尽の概念を肯定するのではない。至高性楽園から追放されるとしても原理的なものとして象徴的儀式である以上、戦争機械を脱構築するのと同様に人間中心主義は永劫回帰ではないはなく本質的なるものは分解する。超越的存在は長きに渡り圧殺されるものとされる。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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