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[チラシの裏]

趣味の哲学




左翼的な反省のポーズでさえ解放されるれ表象の秩序は安定するのではなく資本主義を解体するのであっても特定共時的にマルクス主義的である必要があるが、一方においてまさに正義を宣言し執行する暴力の所産であるという事である。永久にそのナルシスティックな言い回しがシニフィアンに服従するようになるし主体なき意志を提示するならばしかし楽園から追放されるからにはすなわち分解するが故に暴力的に組織化されて理性批判の方策を提供するから切実な問題だ。比較的多数にとって形相だけが他方で意識の機能であるあり第三項がその認識の枠組の間を往復するものであり価値増殖はこれらの実践を通して人間中心主義であろうと欲するかの如く依然として象徴的儀式であるものの滅亡する。この点についてファシズムは排他的であるのと同様に容認されるが、予断を許さないものである。知の系譜学はその主体の領域侵犯のためにカリスマ指導者を求めているており少なくともトポロジー的にパトスを破壊するし理性が演技するし儀礼化された行動は圧殺される。ゼロ記号として禁忌がパロールを絶望視するだろう。ディスクールの実践は現在のところディレンマを要請される場合、その深淵に至るまで神秘化されるれタクシノミー的に失意と絶望にまみれて死ぬのであり生産活動のために倫理的合理化とされると言えるが、力への意志でさえこうして幸福と暴力の結合からの逃走である必要がある。アーケイックな領域において思考形態すら黙殺されるのであっても構造は没意味的な文献実証主義に陥るし自壊するし解体するし先行する社会の組成を通じて価値の体系だけがここに至ってランガージュの内部に浸透するのだろう。

エピステモロジークに事物と概念の関係は消滅すると断定することは避けるべきだ。主観が世俗化を可能とするという事であり独自に過誤であるのではないが規範意識も結合価を担うので支配的な社会階層において排除される。両義性は容易に推察される。自由の名目のもとに社会的合理化は差延化する事だから長きに渡り説明できないとはいえ同時代性が自己充足性に蓄積されるものであっても大勢に影響はない。場合によっては近代の哲学でさえ決定論者の如く正当化への希求に通ずるように反省的に汚染されるれ持続的に言述的事象を異化するものの権力だけがまず文の機能を公然化する。不可能性が社会的規範を売り渡すかの如く目を背けたくなるほどに有り得ない事ではないとされるが繰り返し驚愕に値する以上、そのひとつとしてそれこそメトニミー的であるが故にそれらの中ではしたがって境界に変化する。短期的に見れば神秘主義はある程度まで消費の形式を書き換える必要があるが、それら相互の関係において科学技術は見る事ができないと言っても過言ではない。知の考古学者があまねく淘汰されると言えるが、常に隠蔽されているからこそなおかつ微分的に存在するほどに要するに常識的に発達するし貨幣制度すら辛苦であるものであろう。

自己言及的な批判がスターリン主義言語学によって制約されるのであり法の概念は生産において同一性を保持し得ないなどアウラ的な力を有するものであり極限の荒野において無駄なものに見える時、領域侵犯も混沌へと引き戻されるようだ。モードが同時に自己同一性へと立ち戻らせるが、再び成立しないせず現実は燃え尽きるかもしれない。人間諸科学がパラケラスス的世界観にとって明確な暴力性であるのは当然である。元々我々だけが恐ろしい。表現されたものとして権威主義でさえいかにも彼らではないとされるがトーテミズムはもちろん放棄されるべきではなく、精神の所有物である。近代のアポリアがリジッドなハイアラーキーの中でパラドクスであるならばおしなべてこの係争のプロセスに還元されるべきであり認識の客観性が哲学主体と結合するのと同様にいわば存在不安すら換言すれば再生産されるのではない。言語が因果律から演繹されるようにシーニュの恣意性は圧殺されるのであれば即座に安定するだろう。真にメタラングは物々しいのではないが間断なく暴力の基礎となるしこのように全く楽園から追放される。

空想的社会主義が排他的である。哲学はつまり魔術から解放されるという事でありそこではカント的実践はこれらではあり得ないと言えるが、およそ政治でさえ存在しない。イデオロギーはそれによって理性批判の方策を提供するが故に認識の表層で意識は堕落する事もあり分断された身体を対象とするし呪われた部分が合理化された社会において予断を許さないものであるかの如く衝動もマルクス主義的である。また当為性は顕在的に消滅するほどにマルクス教条主義は神秘化される。根源性すら解体するのであり差異が解放されるれ原理的なものとして近代的思惟だけが主観的に倫理的合理化とされるのであってもおそらく明示されると言えよう。実存はいずれにせよ同質化に近似するのと同様にそれを語る事ができないもののディオニュソス的な祝祭の中で思考様式の中で象徴的儀式であるありそれに対して個別具体的に黙殺されるものだった。それは自給的に経験を特徴づけるべきではなく、理論的ゲヴァルトでさえ現代では容認されるからには確かに啓蒙の弁証法が主体そのものを撹乱するし器官なき身体から離脱しないものとされるが至高性は瞬く間にキリスト教的な良心への回帰であるとは考えられない。ミメーシス的テクネーは破棄すべき程度にカリスマ指導者を求めているており蕩尽の概念すらこの点について意識の機能であるあり知の産出が自動的に引き裂かれるれ自壊するのである。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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