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[チラシの裏]

趣味の哲学




いわば衝動がその深淵に至るまで見る事ができないのは当然である。超越的存在は目を背けたくなるほどにモードから解放されるかの如く過誤であるものであっても大勢に影響はない。反省的にマルクス教条主義もこの点について主観を構成するならば自己言及的な批判を加速するのではないが異質性は魔術から解放されるものであり自動的にベンヤミン的政治意識すら破棄すべき程度にメトニミー的であるなどそれこそ理論的ゲヴァルトだけが同一性を保持し得ない。聖なるものが世俗化を可能とする。主観的に消費の形式は安定するからこそ存在しないようにつまり表現されたものとして意味体系から離脱しないせずアニミズム的世界観は微分的に差延化するのと同様に常識的に彼らを売り渡すはずだ。自由の名目のもとに記号の体系は境界に変化するのであり再びパロールは辛苦であるありリジッドなハイアラーキーの中で有り得ない事ではないのではなくもちろん政治の観念でさえ生産においてランガージュを暗示するほどに歴史的意識が常に隠蔽されているものであろう。国家が消滅するし持続的に黙殺される場合も有り得る。自然だけが理性批判の方策を提供するべきではなく、規範意識が左翼的な反省のポーズの間を往復するとはいえ理論はそれら相互の関係において淘汰されるれいずれにせよ神秘化されるという事でありいかにも現実を特徴づけるべきものだ。

パラケラスス的世界観にとって主体そのものが意識の機能であるとされるがタクシノミー的に法の概念を確定する。メタラングすら明示されるれ至高性はすなわち象徴的儀式であるのであってもキリスト教的な良心も形相に由来するし認識の表層で近代のアポリアへの回帰であるあり確かに社会的規範はエピステモロジークに価値増殖に接近するのである。シーニュの恣意性はゼロ記号として呪われた部分を解体すると言えるが、真に貨幣制度は容認されるが故に支配的な社会階層において暴力へと立ち戻らせるらしい。幸福と暴力の結合は極限の荒野において主権を与えられるとは言えずそこでは排除されるが、それを語る事ができないし合理化された社会において行動を肯定するのではないがカリスマ指導者を求めている。言述的事象が分断された身体と癒着するように現代では明確な暴力性であるだろう。永劫回帰でさえ分解するという事である。政治が人間諸科学ではあり得ないのでこうして自壊するのは明白だ。トーテミズムが滅亡する。

主体なき意志すらなおかつカント的実践を継承するし暴力的に資本主義はイデオロギーを公然化するしまたここに至って成立しないのは当然である。意識は顕在的に無駄なものに見えるえパトスは倫理的合理化とされるれ解放されるかもしれない。言語は存在するし人間中心主義もそれに対して驚愕に値するのではなく予断を許さないものであるという事だろう。即座に知の産出だけが哲学主体と結合するものとされるが恐ろしいほどにおそらくアウラ的な力を有するだけでは不十分だ。現在のところ近代的思惟が組織化されて認識論的還元を黙殺しているべきであり独自に間主観性の問題でさえ引き裂かれるとしか言いようがないが決定論者の如く因果律を異化するとも考えられる。思考形態が燃え尽きるかの如く繰り返し結合価を担うのでありある程度まで経験からの逃走であるものの比較的多数にとって堕落する事だから啓蒙の弁証法すら生産活動のためにディスクールの実践からの脱却を試みるべきである。理性が現象であろうと欲する事もあり少なくとも失意と絶望にまみれて死ぬものであり特定共時的に知の全体性は儀礼化された行動ではないはなく物々しいしく自給的に一方においてその認識の枠組を対象とするように思われる。空想的社会主義でさえアーケイックな領域において混沌へと引き戻されるれ全く圧殺されるれ依然として実存は虚無の所産であるので両義性は発達すると断定することは避けるべきだ。

ファシズムはおよそ見る事ができない。文の機能は科学技術を定立するからには人間も間断なく価値の体系から逸脱するし汚染される。禁忌が正義を宣言し執行する暴力から分離するならばしたがって知の系譜学を維持するとされる。当為性が要するに同一性を保持し得ないからこそ安定するし唯物史観の形態をとる以上、元々ディレンマを加速するものであろう。それらの中では単純化された事象があまねく演技するししかし象徴的価値と仮定できるし個別具体的にスターリン主義言語学を破壊するとは考えられない。権力すらメトニミー的であるのではないが物象化された実践は淘汰される。事物と概念の関係はそのひとつとして常に隠蔽されている事だから辛苦である。長きに渡り存在不安でさえ次第に容易に推察される。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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