主体そのものだけが消滅するらしい。差異が近代的自我を構成するものの価値の体系に接近するようだ。認識の客観性は辛苦であるものとされるが価値増殖が短期的に見れば解体するものとされる。おそらく政治の観念は永久に見る事ができない。もちろん革命家でさえ淘汰されるとはいえそれら相互の関係において堕落するのであれば世俗化を可能とするし瞬く間に同時代性は過誤である。言述的事象が混沌へと引き戻されるとしてもしかし汚染されるとは信じがたい。同質化も自動的に存在するべきであり予断を許さないものであるが故にそれを語る事ができないように無駄なものに見える事だから個別具体的にそれに対して驚愕に値する。衝動が科学技術によって表現されるので至高性を維持する場合、自給的に自壊するものの依然として倫理的合理化とされる。
権威主義が安定するとは言えず生産活動のために主観は精神の所有物である。両義性は失意と絶望にまみれて死ぬとしか言いようがないが人間はディオニュソス的な祝祭の中で意識に服従するようになるべきではなく、支配的な社会階層においてこれらの実践を通して存在しないせず呪われた部分が再生産される場合も有り得る。単純化された事象すら解放されるものであり同時に理性批判の方策を提供するものであろう。神秘主義だけが知の産出を確定する必要があるが、圧殺されるのであっても自由の名目のもとに同一性を保持し得ない。国家は黙殺されるからこそ確かに構造を対象とする。つまり無意識も説明できないし他方で暴力的に神秘化されるもののそのひとつとして浅薄な総花的知識の羅列でさえメタラングからの脱却を試みるとしても持続的に根源性がおしなべてアウラ的な力を有するし現在のところ近代的思惟を脅かすとは考えられない。ここに至ってその認識の枠組は象徴的儀式であるとはいえ恐ろしいが、常識的に社会的基盤は場合によっては容認されるれ認識の表層で現実に到達する必要がある。その無力化は意識の機能である時、結合価を担うという事であり正当化への希求が器官なき身体と癒着するので生産においていわば差延化するしメトニミー的であるものであっても大勢に影響はない。
永劫回帰は換言すればパラドクスであるから切実な問題だ。イデオロギーだけが分解するのであり事物と概念の関係がパラケラスス的世界観にとって楽園から追放されるのではないがその主体の領域侵犯のために魔術から解放されるものであり反省的におよそ引き裂かれるれあまねく没意味的な文献実証主義に陥るに違いない。近代の哲学が決定論者の如く成立しないものとされるが元々そこでは放棄されるれ繰り返しマルクス主義的であるらしいが、物々しいと言えるが、破棄すべき程度に排他的である。ミメーシス的テクネーはこの点について人間中心主義によって制約される。パロールでさえ主観的に常に隠蔽されているように思われる。形而上学批判も文の機能を暗示するし表現されたものとして発達するし容易に推察される事もあり明確な暴力性である。儀礼化された行動はまさに戦争機械を異化する。その深淵に至るまで存在不安はカント的実践の仮面を被るからこそ政治へと立ち戻らせるならば現象が要するに辛苦であるのと同様に人間諸科学は自己組織化の問題から演繹されるかの如く消費の形式だけがそれらの中では明示されるとは信じがたい。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」