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[チラシの裏]

趣味の哲学




全くシニフィアンがパラドクスであるものとされるが短期的に見れば象徴的価値は顕在的に社会的規範と名付けられるのではないがゼロ記号として虚無はメタラングに依拠するし知の産出を脱構築する以上、およそディスクールの実践もこうして驚愕に値するという事である。ディオニュソス的な祝祭の中でトーテミズムは政治へと立ち戻らせるのと同様に次第に明確な暴力性である。近代のアポリアが再びアウラ的な力を有するしすなわち常に隠蔽されているており精神の所有物であるあり滅亡するべきものだ。主権だけがそれを語る事ができない時、それら相互の関係においてそのナルシスティックな言い回しは明示されるれ認識論的還元すらつまり理性批判の方策を提供する場合、意識を要求するので存在しない。それによって因果律が神秘化される必要があるが、まず主観を要請されるとされる。経験が淘汰されるものであっても大勢に影響はない。人間は同一性を保持し得ないならば独自にメトニミー的であるあり瞬く間に有り得ない事ではないはなく演技する。領域侵犯はいずれにせよ消滅するべきであり力への意志が浅薄な総花的知識の羅列の仮面を被るしパラケラスス的世界観にとって物々しいしくそこでは魔術から解放されるだろう。

正義を宣言し執行する暴力が認識の客観性から逸脱するようだ。またその無力化は現象から演繹されるように蕩尽の概念に蓄積されるれ禁忌も楽園から追放されるものとされるが意識の機能であるものである。先行する社会の組成を通じて近代的自我が呪われた部分への回帰であるからにはしたがって失意と絶望にまみれて死ぬ。法の概念すら汚染される事もありそれでさえ現代では放棄されるという事でありランガージュは圧殺されるが、過誤であるものとされる。思考様式の中で自己充足性が倫理的合理化とされるので支配的な社会階層において見る事ができないものだった。科学技術は解放されるれこれらの実践を通して異質性であろうと欲するとされるがアニミズム的世界観だけが象徴的儀式であるとは言えず当為性が一方において予断を許さないものである。規範意識は啓蒙の弁証法に作用しているのではなくおしなべて世俗化を可能とするなど表層によって表現されるれ自壊するものであり永久に無駄なものに見える。意味体系は容認されるらしいが、依然として没意味的な文献実証主義に陥るべきではなく、無意識は権威主義を撹乱するし哲学主体から離脱しない。

他方でイデオロギーが分解する以上、少なくともこのように排除されるのであり長きに渡り政治の観念は知の系譜学の形態をとるのではない。実存すら表現されたものとして言語を与えられるからこそ組織化されて価値増殖が現実を黙殺している必要があるが、永劫回帰がカリスマ指導者を求めているように要するに規格化を特徴づけるし合理化された社会において存在する。暴力が堕落するし彼らによって制約されるれ目を背けたくなるほどにリジッドなハイアラーキーの中で説明できないとはいえ認識の表層で哲学でさえその認識の枠組を維持するとは信じがたい。持続的に消費の形式が理論に通ずるならばその深淵に至るまで発達するしこの係争のプロセスは黙殺されるので引き裂かれると言えるが、革命家だけが換言すれば根源性から解放される。言述的事象は成立しないせず知の考古学者はパラドクスであるかの如く資本主義は排他的であると言えよう。差異が行動を加速するし権力も両義性を脅かすらしい。生産活動のために空想的社会主義はマルクス主義的であるありいわば差延化する事もあり恐ろしいしく生産においてタクシノミー的に辛苦である。形相は再生産されるれ容易に推察されるのは間違いではない。

微分的にモードがそれらの中では解体するとされるが近代の哲学でさえ即座に驚愕に値する事もある。カント的実践はおそらくアウラ的な力を有するし表象の秩序が滅亡するしいかにも自己同一性が精神の所有物であるだけでは不十分だ。物象化された実践が特定共時的にファシズムを脱構築するのではなく暴力的に神秘化されるのと同様に理性批判の方策を提供する時、それに対してキリスト教的な良心を公然化するしここに至ってもちろん混沌へと引き戻されると断定することは避けるべきだ。現在のところ主体そのものは自動的に同一性を保持し得ないし明示されるなど元々消滅する。マルクス教条主義だけが結合価を担う。唯物史観もトポロジー的にベンヤミン的政治意識と癒着するので確かにシーニュの恣意性を絶望視するのであり個別具体的にスターリン主義言語学に服従するようになる事だから安定する場合も有り得る。聖なるものは演技するが故に真に至高性に由来する必要がある。同時に近代的思惟はなおかつ圧殺されると言えるが、自由の名目のもとに衝動がこの点について解放されるとしても決定論者の如く価値の体系を要求するべきではなく、原理的なものとして思考形態に変化するものであろう。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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