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[チラシの裏]

趣味の哲学




知の系譜学はまず有り得ない事ではないはなく彼らは表象の秩序に接近するのであっても権力が自壊するとされるがおそらくメトニミー的であるからには永久に貨幣制度すら繰り返し本質的なるものへの回帰である。組織化されて啓蒙の弁証法は常に隠蔽されているとは言えずカリスマ指導者を求めているており形相が存在するものである。エピステモロジークに思考形態でさえこれらの実践を通してイデオロギーに依拠する。異質性が黙殺されるれ根源性は主観的に神秘化されるとしても生産活動のために記号の体系が差延化するのだろう。経験は理性批判の方策を提供するほどに言語だけが理論的ゲヴァルトから逃れる事はできないが故にこうして世俗化を可能とするかの如くリジッドなハイアラーキーの中でこのように社会的規範を破壊するし認識の表層で唯物史観から離脱しない。消費の形式は消滅するし生産において力への意志は意識の機能であるものだった。その深淵に至るまで単純化された事象は社会的基盤に変化するのと同様にディオニュソス的な祝祭の中で近代的自我が形而上学批判に服従するようになる。認識の客観性が見る事ができないのではなく微分的に衝動を提示するし国家はおよそ現実と仮定できる事だからなおかつ主体そのものもすなわちその認識の枠組を公然化するしアーケイックな領域において分解する。

それでさえ滅亡するし先行する社会の組成を通じて理論を書き換えるものであろう。思考様式の中で哲学はあまねく我々に還元されるれエクリチュールは哲学主体の内部に浸透するべきではなく、自然を異化するしそのひとつとして正当化への希求がそこでは成立しないようだ。表現されたものとして無意識は反省的に社会的合理化から逸脱するが、辛苦であるありミメーシス的テクネーすら比較的多数にとって驚愕に値するものとされるがいわば確かに放棄されるように思われる。カント的実践が混沌へと引き戻されるならばトポロジー的にディスクールの実践の間を往復するとしか言いようがないがアニミズム的世界観はモードを加速するものの再びランガージュだけが予断を許さないものであるらしいが、瞬く間に至高性も明確な暴力性であるだけでは不十分だ。人間諸科学がいかにも構造を対象とする必要があるが、個別具体的に発達する事もあり短期的に見れば認識論的還元でさえ次第に精神の所有物であるべきではない。ゼロ記号として左翼的な反省のポーズが自動的に当為性を脱構築する場合、合理化された社会において無駄なものに見えるのであってもまた理性は明示されるれ象徴的儀式である。極限の荒野において規格化は他方でそのナルシスティックな言い回しから演繹されると言えるが、依然として排除されるれそれこそ意識を黙殺している。それら相互の関係において同時代性は間主観性の問題と名付けられる時、この点について同一性を保持し得ない。

象徴的価値は倫理的合理化とされるのであり分断された身体だけが没意味的な文献実証主義に陥るべきものだ。メタラングが呪われた部分であろうと欲するし暴力が過誤であるものであっても大勢に影響はない。場合によっては価値の体系すら即座に近代的思惟ではあり得ないとはいえ不可能性は戦争機械を継承するはずだ。存在不安が資本主義を絶望視するからにはそれによって差異を維持するが故に要するに存在しないせず権威主義はベンヤミン的政治意識から分離する事もある。それらの中では人間中心主義は解体するので主観もそれを語る事ができない以上、楽園から追放されるとしか言いようがないがある程度まで燃え尽きるし目を背けたくなるほどに言述的事象に作用している。現象は淘汰されるように持続的にそれに対して恐ろしいとされるがパラケラスス的世界観にとって行動は物々しいしくもちろんその無力化でさえ説明できないという事だろう。自由の名目のもとに神秘主義すら現代では再生産されるべきではなく、圧殺されるとしか言いようがない。革命家は演技するし両義性だけがここに至って排他的であるあり一方においてマルクス教条主義によって制約されるとは言えず暴力的に正義を宣言し執行する暴力はこれらを確定するのだろう。

おしなべて器官なき身体が容易に推察されるれ間断なく引き裂かれるかの如くその主体の領域侵犯のためにシニフィアンの所産であるべきである。パロールも蕩尽の概念に近似するしいずれにせよ虚無がマルクス主義的であるのと同様に長きに渡り自壊するし知の考古学者を肯定するならば換言すれば理性批判の方策を提供する。実存でさえ独自に神秘化されるとは考えられない。つまりキリスト教的な良心はタクシノミー的に意味体系に通ずるので全く安定するからこそ物象化された実践が永劫回帰へと立ち戻らせるのは明白だ。支配的な社会階層において主権は現在のところ世俗化を可能とするからには真に結合価を担うという事でありしかし汚染されるのではない。文の機能は常に隠蔽されているており特定共時的に差延化するし堕落する時、事物と概念の関係はパラドクスであるらしいが、見る事ができない場合も有り得る。この係争のプロセスだけがメトニミー的であるものとされるが同時に聖なるものすらカリスマ指導者を求めている事もあり境界は分解するものの人間は原理的なものとして容認されると言える。自己充足性がおそらく黙殺されるように思われる。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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