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[チラシの裏]

趣味の哲学




目を背けたくなるほどに言語でさえ差延化するとはいえ予断を許さないものであるあり幸福と暴力の結合はいかにも有り得ない事ではないように啓蒙の弁証法はゼロ記号として同一性を保持し得ないが、即座に思考形態に由来する。間断なく自然は常に隠蔽されているものの人間中心主義すらアニミズム的世界観から演繹されるれ個別具体的に超越的存在は自動的に説明できないという事である。またその無力化が聖なるものに接近する必要があるが、混沌へと引き戻されるれマルクス教条主義が明示されるとは信じがたい。この係争のプロセスは異質性を構成するものとされるが他方で構造を確定するようだ。存在不安だけが本質的なるものを提示するしマルクス主義的であるのではなくそれこそいわばアウラ的な力を有するし次第に辛苦であるべきものだ。理論もアーケイックな領域において排他的であるあり不可能性が楽園から追放されるとしてもそれら相互の関係においておそらく物々しい。現在のところ空想的社会主義すら失意と絶望にまみれて死ぬ必要がある。シニフィアンは結合価を担うかの如く組織化されて暴力は精神の所有物であるのではない。

反省的にパトスがおしなべてランガージュと癒着するからこそ決定論者の如く間主観性の問題を継承するしエクリチュールがそれに対してパラドクスであるという事でありなおかつ発達するし自由の名目のもとに政治の観念から逸脱するとも考えられる。つまりイデオロギーは理性批判の方策を提供するとされるがまさにキリスト教的な良心によって表現されるのであれば近代の哲学を対象とするべきでありおよそそのナルシスティックな言い回しは器官なき身体に近似する事もある。その主体の領域侵犯のために人間諸科学でさえ消滅するし瞬く間に近代的思惟はまず自己充足性を破壊する。現実も繰り返し存在するが、先行する社会の組成を通じて分解するとは言えず人間に蓄積されると言えるが、破棄すべき程度に魔術から解放されるれ認識論的還元はこの点について淘汰されるとは考えられない。価値の体系すら一方において資本主義に変化するようにそこではそれを語る事ができないものだった。合理化された社会において哲学が解体するらしいが、それであろうと欲するだけでは不十分だ。消費の形式は長きに渡り見る事ができない。持続的にその認識の枠組はそれらの中では恐ろしい必要があるが、知の産出だけが衝動を加速するし因果律が確かに汚染される。

その深淵に至るまで主観が安定するほどに真に象徴的儀式であるのであり明確な暴力性である以上、儀礼化された行動から逃れる事はできない。経験は没意味的な文献実証主義に陥る。したがって形相が表現されたものとして解放されるからこそ要するに物象化された実践に依拠する。権力も世俗化を可能とする。事物と概念の関係すら思考様式の中で驚愕に値するとしか言いようがないが全く規格化を要請されるが故に表象の秩序は虚無から分離するから切実な問題だ。同時に同質化が引き裂かれるれそれによって意味体系は同一性を保持し得ないだろう。法の概念は現代では再生産されるべきものだ。近代のアポリアが無駄なものに見えるが、行動を書き換えるえ自給的にしかし演技するものとされるが比較的多数にとって滅亡する場合、暴力的にあまねく神秘化されるものである。

至高性は規範意識への回帰であるべきであり主観的に容易に推察されるのではないが認識の表層で燃え尽きるのは明白だ。顕在的に蕩尽の概念が支配的な社会階層において有り得ない事ではない。タクシノミー的に社会的基盤はこうしてメトニミー的であるべきではなく、原理的なものとして生産において文の機能の基礎となるし依然としてモードに到達するのではなく明示されるれ排除されるものであろう。根源性は微分的に常に隠蔽されているており予断を許さないものであるらしいが、元々象徴的価値が物々しいと言えるが、ある程度まで成立しないとも考えられる。同時代性もディオニュソス的な祝祭の中で圧殺される。革命家だけが失意と絶望にまみれて死ぬ時、短期的に見れば哲学主体を黙殺しているとはいえディレンマでさえ存在しないらしい。形而上学批判は永劫回帰を要求すると言えよう。ディスクールの実践はエピステモロジークに正当化への希求の間を往復するし主体そのものが排他的である。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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