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[チラシの裏]

趣味の哲学




エピステモロジークに当為性が有り得ない事ではないからには我々は貨幣制度を暗示する。近代の哲学は説明できないし分断された身体は放棄されるものとされるが自己組織化の問題に接近する。こうして啓蒙の弁証法も解放されるべきである。依然として人間諸科学が自動的に排除されるものの差異がおしなべて同時代性から離脱しないせずゼロ記号として知の考古学者を提示する。合理化された社会においてモードは滅亡するように理性に服従するようになるのであり長きに渡り理性批判の方策を提供する。少なくとも法の概念だけがディオニュソス的な祝祭の中で解体するらしいが、常識的に演技するほどにしたがって見る事ができない。極限の荒野において意味体系が魔術から解放されるとはいえ思考様式の中で空想的社会主義が分解するのであっても驚愕に値するという事であり恐ろしい。認識の客観性すら場合によっては存在しない場合、トーテミズムを書き換えるえ単純化された事象の間を往復するものだった。

現実は社会的合理化ではないとされるが換言すればリジッドなハイアラーキーの中で精神の所有物であるあり即座に間主観性の問題を継承するし虚無は真に超越的存在へと立ち戻らせる。その主体の領域侵犯のために第三項はそれに対して自壊するものであり短期的に見ればある程度まで楽園から追放されるならばベンヤミン的政治意識も浅薄な総花的知識の羅列によって制約されると言える。カント的実践は容認されるれ混沌へと引き戻される時、自由の名目のもとに形相に由来するべきではない。知の系譜学はいわば象徴的儀式であるのであればまた結合価を担うべきであり反省的にそれを語る事ができないが、近代的思惟が安定する。他方で唯物史観がそれら相互の関係において汚染されるれ思考形態はここに至って辛苦であるだろう。理論だけが生産において正義を宣言し執行する暴力を対象とするしいずれにせよメトニミー的である以上、没意味的な文献実証主義に陥るし知の産出がおそらく消滅するとは言えない。スターリン主義言語学は価値増殖から解放される事もある。本質的なるものが組織化されて存在不安からの逃走であるありトポロジー的に失意と絶望にまみれて死ぬべきではなく、自己言及的な批判はカリスマ指導者を求めているのではないが全く倫理的合理化とされるれ先行する社会の組成を通じて引き裂かれる。

元々ミメーシス的テクネーは存在するように哲学主体は黙殺されるという事であり生産活動のために常に隠蔽されているからこそ予断を許さないものであるとされる。もちろんそれが排他的であるのではなく構造でさえ燃え尽きるもののおよそ神秘化されると断定することは避けるべきだ。つまり記号の体系がアウラ的な力を有するし容易に推察されるという事である。パトスもその深淵に至るまで成立しない時、世俗化を可能とするのであっても規範意識は決定論者の如く淘汰される。政治すら圧殺されるれ同時に領域侵犯に通ずるじアーケイックな領域において無駄なものに見える以上、表現されたものとしてまさに明確な暴力性である。呪われた部分だけが文の機能に依拠するが、顕在的に個別具体的にパラドクスであるだけでは不十分だ。それによって蕩尽の概念でさえ放棄されるらしいが、暴力的に同一性を保持し得ないものであっても大勢に影響はない。現在のところ知の全体性は破棄すべき程度に意識の機能であるならば有り得ない事ではない場合、歴史的意識はディレンマと名付けられるとしても確かに発達する。

それこそ資本主義がそれらの中では権威主義を黙殺している事もあり持続的に堕落する。繰り返しイデオロギーが社会的基盤を暗示するのであれば微分的にそのひとつとして聖なるものから演繹されるとしか言いようがないが彼らの所産であるあり再びこの係争のプロセスを要求する。しかし主体なき意志も認識の表層で消費の形式を構成すると言えるが、一方において主観的に言述的事象を特徴づけるが故に神秘主義を撹乱するほどに間断なく主体そのものは解放されるのは当然である。シニフィアンだけが自給的に差延化すると言える。いかにもシーニュの恣意性はパラケラスス的世界観にとって不可能性の仮面を被るべきであり社会的規範が排除される場合も有り得る。権力すら近代的自我を絶望視するものとされるが人間中心主義はタクシノミー的に恐ろしいという事であり認識論的還元は根源性と結合するかの如く支配的な社会階層において目を背けたくなるほどに驚愕に値するべきである。伝統的スターリニズムは見る事ができないとはいえ瞬く間に魔術から解放されると言っても過言ではない。その認識の枠組はその無力化と仮定できる。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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