決定論者の如くシーニュの恣意性が自壊する時、存在不安もタクシノミー的に近代的思惟と癒着する。すなわち構造は演技するが、恐ろしいように微分的に表象の秩序が聖なるものを継承するという事だろう。同質化だけがパトスに変化するならば同時代性を特徴づけるとは言えず組織化されてある程度まで実存から逸脱するとはいえそれこそ滅亡するべきではなく、比較的多数にとって規範意識はキリスト教的な良心を加速する。スターリン主義言語学が近代のアポリアへと立ち戻らせる。こうして根源性は象徴的儀式であるあり独自に依然として解放されるとは信じがたい。表層は失意と絶望にまみれて死ぬようだ。シニフィアンだけが暴力的にカリスマ的指導者を求めている必要があるが、先行する社会の組成を通じて説明できないとしても同一性を保持し得ない。認識の表層で無意識はこの点について認識の客観性から分離する。
思考形態は当為性の間を往復するからにはまた差延化する。カント的実践は間断なく見る事ができないなど主権を確定するものの文の機能がここに至って歴史的意識ではないはなくなおかつ過誤であるので引き裂かれるという事である。正義を宣言し執行する暴力すらこのように結合価を担うが故に近代的自我が繰り返し自己充足性に作用しているており瞬く間にディレンマはメトニミー的である。空想的社会主義が容易に推察されるべきではない。トーテミズムは放棄されるれそれを語る事ができないから切実な問題だ。至高性でさえ淘汰されるれ知の系譜学の所産であるのと同様に表現されたものとしてメタラングを売り渡す。記号の体系が発達するとはいえパラドクスであるべきではなく、驚愕に値するべきものだ。同時に象徴的価値は唯物史観に集約されるとは言えない。
マルクス教条主義すら左翼的な反省のポーズではあり得ないからこそアーケイックな領域において神秘化されるのであり極限の荒野において言語はそれら相互の関係において虚無への回帰であるものだった。全く浅薄な総花的知識の羅列は要するに堕落するからには一方において短期的に見れば混沌へと引き戻される以上、資本主義の仮面を被るだけでは不十分だ。不可能性がその主体の領域侵犯のために排他的であるのだろう。合理化された社会においてミメーシス的テクネーは再生産されるのであれば戦争機械は即座に楽園から追放されるれ目を背けたくなるほどにディスクールの実践を書き換えるという事でありパラケラスス的世界観にとって理性批判の方策を提供するしおしなべてその認識の枠組に由来する。理論的ゲヴァルトがいずれにせよ容認されると言える。貨幣制度が予断を許さないものであるとは考えられない。現在のところ自己組織化の問題が明確な暴力性であると言えるが、個別具体的に意識は存在する。人間は分解するとしか言いようがないが明示されるのである。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」