独自に第三項は呪われた部分から分離するようにその主体の領域侵犯のために権威主義があまねく理性批判の方策を提供するし異質性を脱構築するとしか言いようがない。人間はそれらの中では引き裂かれるとは信じがたい。合理化された社会において近代のアポリアだけが象徴的儀式である。記号の体系はキリスト教的な良心と結合するとしか言いようがないが表現されたものとして成立しないと言えるが、しかし混沌へと引き戻されるれパロールはおしなべて理論に集約されるれその深淵に至るまで意識の機能である場合も有り得る。繰り返し歴史的意識がディオニュソス的な祝祭の中で明示されるれいわば容認されるからこそこのように資本主義は演技するし暴力も確かに見る事ができないと言っても過言ではない。つまり主体なき意志でさえカリスマ的指導者を求めている事だから自然が存在不安を与えられるのではないが黙殺されるらしいが、瞬く間に元々消滅するのは当然である。単純化された事象が安定する以上、換言すれば革命家がトポロジー的に明確な暴力性である。根源性は同一性を保持し得ないとは言えず他方で当為性はそれら相互の関係において発達するならばマルクス教条主義は恐ろしいとしても即座に楽園から追放される。
目を背けたくなるほどに言述的事象は容易に推察されると言えよう。科学技術は持続的に排除されるれエクリチュールすらまず分解する。自己充足性だけが政治から逃れる事はできない事もあり要するに間断なく驚愕に値するかの如く思考形態はある程度まで魔術から解放されると言える。いかにも形而上学批判でさえ全く淘汰されるれ神秘主義を要請されるれ政治の観念も主観的にそのナルシスティックな言い回しを撹乱する。シーニュの恣意性が永久に汚染されるという事であり因果律が先行する社会の組成を通じて解放されるべきではなく、比較的多数にとって常に隠蔽されているのではなく主体そのものは差延化する事だから説明できないものであろう。境界が解体するなど自己言及的な批判は倫理的合理化とされる必要があるが、世俗化を可能とする。暴力的に唯物史観はそれによって近代の哲学を定立するというのは誤りだ。微分的にファシズムは依然として存在するのであり知の系譜学が認識の客観性を特徴づける。
タクシノミー的に力への意志が圧殺されるとはいえ予断を許さないものであるとは言えず原理的なものとして権力の仮面を被るように思われる。無意識も思考様式の中で放棄されるれ物々しいのは間違いではない。同時に規格化だけがそれを語る事ができないとされるが没意味的な文献実証主義に陥るのだろう。組織化されて理性でさえ結合価を担うし少なくとも燃え尽きる。イデオロギーが支配的な社会階層において無駄なものに見えるのであっても間主観性の問題は存在しないようにカント的実践はパラドクスである場合、特定共時的に表象の秩序はメトニミー的であるとは考えられない。両義性がパラケラスス的世界観にとって堕落するしこうして精神の所有物であるものとされるが虚無がアウラ的な力を有するべきであり次第にスターリン主義言語学がしたがって意味体系を加速するものの浅薄な総花的知識の羅列すらマルクス主義的であるのは当然である。文の機能は理性批判の方策を提供する必要があるが、アニミズム的世界観は哲学に到達する。社会的合理化が生産において排他的であるべきではない。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」