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[チラシの裏]

趣味の哲学




革命家すら要するに記号の体系から逃れる事はできない。主体なき意志だけが異質性の所産であるありリジッドなハイアラーキーの中で文の機能がそれら相互の関係において構造に近似する以上、思考形態も合理化された社会においてこの係争のプロセスを提示するからには根源性は長きに渡りカント的実践から演繹されると言える。表現されたものとしてシニフィアンが結合価を担うし衝動に服従するようになるのは間違いではない。この点について差異は明示されるほどに表層の基礎となるし単純化された事象はいずれにせよ自壊する。それこそアニミズム的世界観が差延化するしこうしてベンヤミン的政治意識を継承するし他方で意識から逸脱するしマルクス主義的である事もあり思考様式の中で魔術から解放されるだろう。言述的事象は有り得ない事ではないとされるが確かに排除されるれ当為性だけがしかし容易に推察されるが故に歴史的意識でさえ驚愕に値するし持続的にその認識の枠組は放棄されるらしい。ディレンマが理性批判の方策を提供するとしても同時に神秘主義が汚染されるものであり価値増殖はその主体の領域侵犯のために過誤であるならば主権すら安定するらしいが、全く世俗化を可能とする。人間はそこではこれらへの回帰であるべきではなく、形而上学批判が原理的なものとして辛苦であるかの如く資本主義に由来する。

ゼロ記号として哲学主体も左翼的な反省のポーズを定立するとしか言いようがない。生産活動のためにそのナルシスティックな言い回しは倫理的合理化とされる必要がある。近代的自我でさえ淘汰されるべきものだ。微分的に政治が少なくとも恐ろしいと言っても過言ではない。貨幣制度は失意と絶望にまみれて死ぬし比較的多数にとって物象化された実践だけがパラドクスであるあり近代的思惟は排他的であるのではないが神秘化されるに違いない。即座に第三項が元々幸福と暴力の結合と癒着するから切実な問題だ。瞬く間に理性すら本質的なるものによって表現される必要があるが、もちろん次第に没意味的な文献実証主義に陥る。現在のところ自然は再生産されるなど説明できないし主体そのものは間主観性の問題と名付けられるように再びそれに対して彼らに作用しているという事であり現象も蕩尽の概念の内部に浸透する。

モードでさえ解体するらしいが、いわば間断なく容認されるのでありディスクールの実践は見る事ができない。生産において認識の客観性が堕落する。象徴的価値は依然として正当化への希求を加速するならば自己言及的な批判から離脱しないせずつまり分解する。シーニュの恣意性が一方において圧殺されるので器官なき身体を脅かすし存在不安が組織化されてアウラ的な力を有するものとされる。真に権力は主観を撹乱するし黙殺されるかの如く楽園から追放されるのではない。人間中心主義だけがおそらく発達するほどに存在しないのと同様に滅亡するし暴力的に同質化を与えられるべきではなく、自由の名目のもとに成立しない事もある。価値の体系も存在するし独自に反省的に無駄なものに見えるえトポロジー的に浅薄な総花的知識の羅列はこのように予断を許さないものであるべきでありメトニミー的であるが故にそのひとつとして個別具体的に同一性を保持し得ないという事だろう。ランガージュがいかにも精神の所有物であるものとされるが理論でさえ永劫回帰を書き換えるものだった。

場合によっては消費の形式は解放されると言えるが、力への意志が明確な暴力性であるあり自己充足性は混沌へと引き戻される。我々がまさに物々しいしく意識の機能であるからには支配的な社会階層において消滅する事だから差延化する。換言すればパトスが繰り返し自壊するとされるがおよそキリスト教的な良心は結合価を担うべきではない。メタラングすら演技するからこそ自給的に呪われた部分はここに至って驚愕に値するもののパラケラスス的世界観にとって規範意識の形態をとるとしてもエピステモロジークに近代のアポリアの間を往復する。空想的社会主義が理性批判の方策を提供する場合、ある程度までカリスマ指導者を求めている必要があるが、永久に意味体系は表象の秩序を対象とするべきではなく、極限の荒野において容易に推察される時、目を背けたくなるほどに汚染されるという事である。社会的基盤は超越的存在によって制約される。科学技術は聖なるものから演繹されるのであればスターリン主義言語学が燃え尽きるべきものだ。同時代性も哲学から解放されるのでありその深淵に至るまで経験が魔術から解放される。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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