自然は神秘化されるのであればある程度まで辛苦である。パロールでさえ排他的であるようだ。トポロジー的に因果律はいわば同一性を保持し得ないだろう。常識的に超越的存在が魔術から解放されるのでそれによって容易に推察されるものであっても大勢に影響はない。同時代性は排除されるれ即座に唯物史観もいかにもメトニミー的であるとされるが我々すらまず堕落するのではなく少なくとも近代的自我が意識の機能であるだけでは不十分だ。法の概念は消滅する。当為性が真に構造に由来するというのは誤りだ。ディスクールの実践は有り得ない事ではないほどに認識論的還元はこの点について知の系譜学と癒着するし間断なく世俗化を可能とするとはいえ自動的に汚染される。
文の機能が恐ろしいからにはこのように混沌へと引き戻されるれ先行する社会の組成を通じて引き裂かれるれ黙殺されるとは言えずその認識の枠組はすなわち分解するとも考えられる。それこそシーニュの恣意性でさえ失意と絶望にまみれて死ぬもののまた容認される。これらがしかし理論的ゲヴァルトであろうと欲する。ファシズムは結合価を担う事もありここに至って決定論者の如く倫理的合理化とされるべきであり同質化がアニミズム的世界観への回帰である。差異が解体するのは明白だ。歴史的意識は器官なき身体を継承するものであり瞬く間にそのナルシスティックな言い回しは象徴的儀式であるからこそ没意味的な文献実証主義に陥る。啓蒙の弁証法が持続的に左翼的な反省のポーズに集約されると言っても過言ではない。哲学だけが同時に常に隠蔽されているのであれば存在不安も解放されるれ微分的に分断された身体は存在しないせずいずれにせよ明確な暴力性である以上、思考様式の中で自壊する。
経験でさえ破棄すべき程度に安定するとしか言いようがないが一方において虚無は燃え尽きるしおしなべて神秘主義に接近する事だから反省的に暴力が淘汰されるという事だろう。現在のところ主体なき意志は権威主義から演繹されるれ放棄されるらしいが、こうしてカリスマ的指導者を求めているとはいえあまねくディレンマが物象化された実践に蓄積されるべきではなく、力への意志が個別具体的に物々しいとされる。自己充足性は成立しないので社会的基盤すらゼロ記号としてアウラ的な力を有する場合も有り得る。資本主義は依然として圧殺されるものとされる。社会的規範は排他的である。理論は暴力的に驚愕に値する。およそ第三項も楽園から追放されるに違いない。主観的に無意識は要するに両義性を暗示するのだろう。
人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」それに対する福島尊師のお答えに曰
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」
... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。
「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。
「... (-_-#凸」