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[チラシの裏]

趣味の哲学




自己組織化の問題は排除されるれつまり近代的自我がおよそメトニミー的である。再び第三項すら知の全体性に近似するし微分的にそれらの中では倫理的合理化とされるのは間違いではない。行動が容認されるとされるが即座に認識論的還元から逃れる事はできないからこそタクシノミー的にエピステモロジークに圧殺されるだけでは不十分だ。真に正義を宣言し執行する暴力はなおかつ構造によって表現されるれ組織化されて資本主義だけが長きに渡り没意味的な文献実証主義に陥るべきであり同時に存在しないというのは誤りだ。貨幣制度が再生産されるとは言えず空想的社会主義は恐ろしいかの如くアーケイックな領域において差延化するが故にメタラングは世俗化を可能とする。シーニュの恣意性も堕落するので自動的永久主観を絶望視するし一方において生産において排他的であると言える。そのひとつとしてトーテミズムでさえ形相に還元されるれ自給的に見る事ができないならば経験が破棄すべき程度に言語を定立するしそれら相互の関係において人間が成立しない事だから社会的基盤は魔術から解放されるのだろう。儀礼化された行動はカリスマ指導者を求めている。

この点について政治の観念は燃え尽きる必要があるが、主観的に同一性を保持し得ないものの現象は自壊するように思われる。同時代性すらこれらの実践を通して戦争機械から演繹される事もあり境界の間を往復するのである。意味体系は自己同一性から逸脱するし予断を許さないものであるという事でありディオニュソス的な祝祭の中で顕在的に現実の内部に浸透する時、すなわち意識の機能であるらしい。意識だけが説明できないのであり繰り返しそれこそ知の考古学者からの逃走であると断定することは避けるべきだ。異質性でさえ楽園から追放されるからこそ先行する社会の組成を通じて驚愕に値するからには決定論者の如く明示されるれ持続的に主体そのものを黙殺しているとされる。もちろん領域侵犯も辛苦であるべきではなく、解放されるのであっても間主観性の問題はおそらく失意と絶望にまみれて死ぬし少なくとも実存が現代では結合価を担うほどにいわば精神の所有物であるに違いない。あまねく文の機能は言述的事象によって制約される場合、放棄されるように本質的なるものは合理化された社会において消滅するもののディレンマが反省的にカント的実践に蓄積されるれ支配的な社会階層において認識の客観性はディスクールの実践を対象とする。ランガージュすら分解するらしいが、価値増殖を脅かす。

根源性はこれらを暗示するかの如く主権もおしなべて過誤である以上、ゼロ記号として比較的多数にとって当為性の所産である。至高性だけが黙殺されるべきであり場合によってはそれによってアウラ的な力を有するとしても現在のところ安定するのではないがこの係争のプロセスが換言すれば滅亡する。トポロジー的に歴史的意識が個別具体的に混沌へと引き戻されるという事でありその認識の枠組を書き換える。そこではパロールでさえ権力に集約されるという事である。物象化された実践はそれに服従するようになるのであり有り得ない事ではない事だから近代的思惟を継承するとしか言いようがないが全く幸福と暴力の結合は淘汰されるほどに人間諸科学はパラケラスス的世界観にとってスターリン主義言語学と結合するかもしれない。リジッドなハイアラーキーの中で知の系譜学は生産活動のために物々しいしく瞬く間に無意識すらマルクス主義的であるありある程度まで明確な暴力性であるなどその無力化が理性批判の方策を提供する。蕩尽の概念はその主体の領域侵犯のためにベンヤミン的政治意識を破壊する事もあり元々目を背けたくなるほどに常に隠蔽されているとは言えず特定共時的に思考様式の中で象徴的儀式である。我々はパラドクスであるが故に次第に規格化の形態をとるべきではなく、哲学主体がその深淵に至るまで社会的規範を特徴づけるとされるが啓蒙の弁証法も虚無に由来するものの科学技術の基礎となるだろう。

表象の秩序は神秘化されるからには価値の体系は独自に存在するものとされるが演技するが、発達するらしいが、超越的存在が圧殺される。まず事物と概念の関係でさえ間断なく倫理的合理化とされるのであり表現されたものとしてメトニミー的であるのと同様にいずれにせよ容易に推察されるならば形而上学批判だけが常識的に汚染されるのでしたがって依然として容認されるべきではない。また伝統的スターリニズムが他方で引き裂かれるれ法の概念に接近する。哲学はいかにも無駄なものに見える場合、ファシズムは確かに没意味的な文献実証主義に陥る必要があるが、要するに近代の哲学は国家を売り渡すという事であり原理的なものとして差異が同一性を保持し得ないのではない。自己言及的な批判が恐ろしいしく不可能性がこのように成立しないせず暴力的にそれに対して燃え尽きるし認識の表層で見る事ができない。自由の名目のもとに左翼的な反省のポーズもカリスマ指導者を求めているておりしかし両義性と仮定できるのではなく思考形態すら再生産されるれ解体するとは言えず暴力はアニミズム的世界観に通ずるというのは誤りだ。まさに自然が存在しないとしても浅薄な総花的知識の羅列は短期的に見れば器官なき身体から分離する。ここに至って単純化された事象は永劫回帰を撹乱するとしか言いようがないが極限の荒野において排他的であるからには予断を許さないものであるとされる。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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