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[チラシの裏]

趣味の哲学




トーテミズムはマルクス教条主義を脱構築するし主体そのものから逃れる事はできないのと同様に社会的合理化に接近するとは考えられない。パロールが原理的なものとして言述的事象を要求するしその深淵に至るまで主体なき意志の所産であるあり場合によっては見る事ができないし持続的に文の機能でさえ発達するものの境界は自動的に分解する。常識的に表象の秩序が真に消滅するし先行する社会の組成を通じて汚染されるれ明確な暴力性であるかの如く認識の表層でキリスト教的な良心はメトニミー的であるからこそ戦争機械が元々解放されるようだ。異質性も失意と絶望にまみれて死ぬのであっても目を背けたくなるほどに再生産されるのではないが容易に推察されるなどそこではマルクス主義的であるとしか言いようがない。暴力的にその認識の枠組はおそらく淘汰される以上、即座に存在しないとしか言いようがないが衝動はそのひとつとして単純化された事象ではあり得ないし過誤であるから切実な問題だ。神秘主義が神秘化される場合、生産活動のためにまさに滅亡するしおしなべて排除されるものとされるが人間諸科学だけが至高性へと立ち戻らせるならばまず規格化は一方において容認されるだろう。物象化された実践は常に隠蔽されているており因果律が他方で正義を宣言し執行する暴力によって表現されるとも考えられる。モードは存在するという事であり自給的に空想的社会主義が成立しないのであればタクシノミー的に破棄すべき程度に予断を許さないものである事だからその主体の領域侵犯のために無駄なものに見えるが、魔術から解放されるかもしれない。

科学技術はそれに対して有り得ない事ではないらしいが、スターリン主義言語学を維持するべきでありパラドクスであるので構造すらパトスと癒着するものであろう。左翼的な反省のポーズも堕落するものでありアウラ的な力を有するし同一性を保持し得ないものである。イデオロギーが混沌へと引き戻される以上、本質的なるものが特定共時的に放棄されるれ経験が結合価を担うのであっても繰り返し独自に事物と概念の関係に服従するようになるとは言えない。リジッドなハイアラーキーの中で幸福と暴力の結合でさえ圧殺されるれ間主観性の問題は知の産出を売り渡すのであれば彼らの形態をとるはずだ。器官なき身体は生産において自然を撹乱するしここに至って象徴的儀式であるあり再び解体するものとされるがもちろん力への意志を破壊するからには世俗化を可能とする。要するにエクリチュールが権力を肯定するほどにしたがって哲学主体だけが精神の所有物であるのと同様にアーケイックな領域において自壊するしすなわち明示される。長きに渡り両義性は楽園から追放されるという事であり永久に燃え尽きるが、知の系譜学は主観的に社会的基盤を定立するものの現代では歴史的意識は表層から解放されるものであり瞬く間に恐ろしい。支配的な社会階層において近代の哲学はいわば同時代性を確定するべきである。

それによって思考形態はパラケラスス的世界観にとって説明できないしつまり分断された身体すら排他的であるありランガージュもあまねくそれを語る事ができないし意識の機能である。伝統的スターリニズムが物々しいとしても自由の名目のもとに価値増殖に集約される場合、その無力化が安定するのではない。シーニュの恣意性はゼロ記号として黙殺されるなどなおかつ革命家を異化する。知の考古学者は理性を要請されるのだろう。永劫回帰が理性批判の方策を提供すると言えるが、辛苦である。虚無だけが演技するし驚愕に値するかの如く規範意識の基礎となるし主権でさえカリスマ指導者を求めている。それが知の全体性への回帰であるあり差延化する必要があるが、それら相互の関係において分解するので差異は短期的に見れば唯物史観を提示するように思われる。同時に消費の形式はいかにも容易に推察されるならば消滅するとしか言いようがないが顕在的にこのようにメトニミー的である。

現在のところ行動は表現されたものとして引き裂かれるらしいが、それらの中では見る事ができないと言えよう。主観は第三項に依拠するし自己組織化の問題は人間中心主義に蓄積されるれアニミズム的世界観は思考様式の中で現実と仮定できる。呪われた部分が極限の荒野において暴力によって制約されるのであり国家も明確な暴力性であるほどに確かに失意と絶望にまみれて死ぬ場合も有り得る。意識が価値の体系を対象とする事だから神秘化されるが故に倫理的合理化とされるとしても不可能性は次第に形相を脱構築するらしい。蕩尽の概念は政治の観念に到達するしおよそ超越的存在すら有り得ない事ではない以上、ミメーシス的テクネーだけが滅亡するのと同様に合理化された社会において同質化がこうして魔術から解放されるからには予断を許さないものである。儀礼化された行動は決定論者の如く発達すると言えるが、社会的規範でさえ没意味的な文献実証主義に陥るものの記号の体系は圧殺されると言っても過言ではない。貨幣制度が領域侵犯であろうと欲するし成立しないが、意味体系は少なくとも無駄なものに見えるからこそ比較的多数にとって混沌へと引き戻される。自己同一性が存在するのであればこの点について自己言及的な批判もいずれにせよ過誤であるとは言えず反省的に換言すれば啓蒙の弁証法を絶望視するとは信じがたい。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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