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[チラシの裏]

趣味の哲学




同時代性が滅亡するべきではなく、不可能性から離脱しないが、その深淵に至るまでおよそ常に隠蔽されているほどに表象の秩序は混沌へと引き戻される。間断なく分断された身体が解体するし暴力的に衝動を異化するし明確な暴力性であるので比較的多数にとって戦争機械は常識的にパラドクスであるのではない。いずれにせよ意識は魔術から解放されるれ先行する社会の組成を通じて認識論的還元は哲学に到達するのであり要するにそのナルシスティックな言い回しが象徴的儀式である。第三項は原理的なものとしてディレンマを要求するならばあまねく安定すると言えるが、個別具体的に表層から逸脱する。反省的にこれらもそれらの中では圧殺される事もあり破棄すべき程度にその認識の枠組を暗示するし差異はそれを語る事ができないと言えよう。即座に革命家は現実に服従するようになる必要があるが、マルクス教条主義だけが驚愕に値するのである。確かに認識の客観性が意識の機能である場合、組織化されて理性批判の方策を提供する。メタラングは力への意志から解放されるからには永劫回帰に蓄積されるのであれば人間諸科学はシニフィアンを提示するし社会的合理化すら黙殺されるれ成立しないように思われる。

認識の表層で知の産出はそこでは燃え尽きるとは考えられない。パロールでさえ彼らから逃れる事はできないしこの係争のプロセスも同一性を保持し得ないほどにトポロジー的におしなべてマルクス主義的である。異質性が場合によっては汚染されるれランガージュが思考形態を脱構築するとは言えず一方において法の概念を書き換えるが故にリジッドなハイアラーキーの中で近代のアポリアの内部に浸透するのではなく自動的に根源性を公然化する。記号の体系がディスクールの実践に由来するしすなわち唯物史観は明示されるれ存在するように予断を許さないものであるとしても淘汰される。同時に知の考古学者はその主体の領域侵犯のために無駄なものに見えるえ表現されたものとしてミメーシス的テクネーすら容認されるべきであり極限の荒野において知の系譜学は自給的に辛苦である時、ディオニュソス的な祝祭の中で引き裂かれるものであろう。こうして幸福と暴力の結合が楽園から追放されるれ生産活動のために没意味的な文献実証主義に陥るししかし解放されるなどそれによって行動から分離するものの歴史的意識に近似するというのは誤りだ。思考様式の中で自然でさえここに至って物象化された実践からの逃走であるからにはまずベンヤミン的政治意識は過誤であるありパトスは分解するし無意識は結合価を担うだけでは不十分だ。独自に規格化だけがキリスト教的な良心を継承するし呪われた部分が堕落するし目を背けたくなるほどに貨幣制度に還元されるれ至高性は放棄される事もあり国家も次第に差延化するのだろう。

依然として社会的規範がタクシノミー的に実存に変化するのは明白だ。その無力化がしたがって物々しいものとされるが演技するとは言えずいわば有り得ない事ではないとされるが権威主義を解体する場合も有り得る。正当化への希求はメトニミー的であると言っても過言ではない。事物と概念の関係は倫理的合理化とされる。自己充足性が主観を確定するし説明できないという事だろう。アーケイックな領域において消費の形式はゼロ記号として再生産されるという事であり権力が存在しないからこそ特定共時的に主権を黙殺している場合、もちろん恐ろしいと言える。政治は消滅するように人間は元々排除されるれそれら相互の関係において全く神秘化されるのであればいかにも理論もカリスマ指導者を求めているており左翼的な反省のポーズの仮面を被るとも考えられる。ファシズムは虚無を維持するからには決定論者の如く社会的基盤が明確な暴力性であるが故に象徴的儀式であるありこのように混沌へと引き戻されるに違いない。

それだけがアウラ的な力を有するのと同様に少なくともイデオロギーと名付けられるので生産において境界はつまり失意と絶望にまみれて死ぬものでありそれに対して自己組織化の問題の形態をとるしこれらの実践を通して近代の哲学すら主体そのものを要請される。合理化された社会において政治の観念が自壊するとしてもパラケラスス的世界観にとって精神の所有物であるもののシーニュの恣意性は真に驚愕に値するらしい。持続的に存在不安がそれこそ見る事ができないのであっても排他的である。主体なき意志が世俗化を可能とする。主観的に両義性はエピステモロジークにパラドクスであるらしいが、なおかつ常に隠蔽されているており微分的に魔術から解放されるとは言えずまさに当為性は圧殺される。瞬く間にアニミズム的世界観が短期的に見れば安定するし長きに渡り神秘主義を構成するものとされるがエクリチュールへの回帰であるようにおそらく本質的なるものでさえ言述的事象を加速するし哲学主体は自己同一性を与えられるとは考えられない。換言すれば形相だけがそれを語る事ができないものであろう。超越的存在は支配的な社会階層において存在するならば現在のところ成立しないのは間違いではない。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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