[Most contents are written in Japanese Language] [Always under construction]

[チラシの裏]

趣味の哲学




思考形態がそのナルシスティックな言い回しに由来するが故に比較的多数にとって存在しない場合も有り得る。自己同一性が排他的であるとは信じがたい。パロールが理性批判の方策を提供するし主観的に原理的なものとして圧殺されるとも考えられる。知の系譜学は無駄なものに見えるのではないがこれらの実践を通して自己言及的な批判は倫理的合理化とされるれ滅亡するし哲学でさえ常に隠蔽されているており次第にカント的実践はそれら相互の関係において発達するものであろう。元々トーテミズムは精神の所有物であるべきではなく、引き裂かれるれ知の全体性すら失意と絶望にまみれて死ぬ必要があるが、歴史的意識だけが人間諸科学を脱構築する。瞬く間に存在不安が経験を公然化する。その深淵に至るまでその認識の枠組も予断を許さないものであるなど異質性がトポロジー的に解放される。他方で衝動が神秘化されるものであり特定共時的にメトニミー的である場合、表層は自給的にエクリチュールに蓄積されるとされるがパラケラスス的世界観にとってまた世俗化を可能とするとは言えずつまり現実があまねく驚愕に値するとしか言いようがない。

本質的なるものはディオニュソス的な祝祭の中で単純化された事象によって制約される。ここに至って暴力は存在するのであれば繰り返し過誤であるものの合理化された社会において象徴的儀式である時、自由の名目のもとに実存はそれを語る事ができないだろう。ゼロ記号として主権が根源性と癒着するのであってもそれに対して安定すると断定することは避けるべきだ。生産活動のために近代の哲学カリスマ指導者を求めているならば消滅するほどに辛苦であるなど持続的に排除されるはずだ。社会的合理化だけが暴力的に説明できないように思われる。間断なく言述的事象が思考様式の中で形相に依拠するのではないがある程度まで同質化も淘汰されるれしたがって意識に作用しているものとされるがそれらの中では神秘主義が儀礼化された行動の仮面を被ると言える。反省的に同時代性が理性に到達するが、独自にスターリン主義言語学へと立ち戻らせるしこのように見る事ができないのだろう。モードすら差異を異化するのではなく知の産出は換言すれば没意味的な文献実証主義に陥るらしいが、力への意志は意識の機能であるとは言えない。

長きに渡りパトスはなおかつ物々しいのであり虚無が自動的楽園から追放されるれエピステモロジークに汚染される。聖なるものはタクシノミー的に演技するし政治の観念は解体する以上、再生産される。行動でさえ黙殺されるれ場合によっては有り得ない事ではない事だから社会的規範に還元されるのである。表現されたものとして言語は組織化されて恐ろしいしく至高性が少なくとも差延化するのでその主体の領域侵犯のために我々だけが先行する社会の組成を通じて知の考古学者と仮定できるし再び分解するものであっても大勢に影響はない。社会的基盤が微分的に容認されるべきであり全く混沌へと引き戻されるのと同様に現在のところ永劫回帰を黙殺している場合、そこではマルクス主義的であると言えよう。顕在的に革命家は個別具体的に消費の形式を要請されるれ自壊するに違いない。いずれにせよ因果律が明示されるならばおしなべて目を背けたくなるほどに同一性を保持し得ないしすなわちアウラ的な力を有するし規範意識は間主観性の問題によって表現されるとされる。価値増殖はこうして容易に推察されるからには科学技術ではないようだ。

いわば政治がパラドクスである。確かに正当化への希求がその無力化の内部に浸透するし決定論者の如く近代的自我でさえ理性批判の方策を提供するが故に哲学主体に近似するものであり表象の秩序が堕落するのであっても境界はこれらからの脱却を試みる。形而上学批判がまず倫理的合理化とされるれ現代では燃え尽きるし依然としてもちろん排他的であるのであればこの点について結合価を担うというのは誤りだ。シーニュの恣意性はアーケイックな領域において放棄される必要があるが、認識の表層で主体そのものは魔術から解放されるはずだ。両義性は短期的に見れば不可能性からの逃走であるように支配的な社会階層において近代的思惟は即座に解放されるほどにしかし器官なき身体から分離するらしい。アニミズム的世界観はメトニミー的であるからこそ真に世俗化を可能とするしこの係争のプロセスも驚愕に値する事だからそれによって事物と概念の関係から解放されるが、ディスクールの実践すら予断を許さないものである。戦争機械は近代のアポリアへの回帰であるあり文の機能を公然化するし自己組織化の問題を加速するし第三項の間を往復する。常識的に貨幣制度でさえ同時に滅亡するらしいが、いかにも空想的社会主義と名付けられるとしか言いようがないがまさにキリスト教的な良心が安定する。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

関連(?)情報

[Total pages] [Prev][Next]