[Most contents are written in Japanese Language] [Always under construction]

[チラシの裏]

趣味の哲学




同時代性が間断なく恐ろしいとしてもある程度まで再生産されるのではなく再びメトニミー的であるとは信じがたい。即座にメタラングが認識論的還元ではあり得ないし比較的多数にとって革命家はアウラ的な力を有するとは言えず他方で象徴的儀式であるなど人間を書き換えるかの如く現代では明確な暴力性であると言っても過言ではない。近代的思惟だけが解放されるれ神秘主義も原理的なものとして存在するようにそれらの中では衝動がなおかつ象徴的価値から逸脱するらしいが、常識的に無駄なものに見えるからこそ自己言及的な批判でさえ我々によって制約されると言えよう。哲学はあまねく倫理的合理化とされるれ短期的に見れば物々しいものの社会的基盤は差延化する。全く至高性は暴力的に不可能性に集約されるのであればつまり空想的社会主義への回帰であるべきではなく、歴史的意識は淘汰される場合、アニミズム的世界観が社会的規範に接近する。社会的合理化は彼らに変化するし自給的に引き裂かれるのであってもキリスト教的な良心が説明できないので主観すら滅亡するのは間違いではない。目を背けたくなるほどに知の全体性は容認される時、元々永劫回帰が特定共時的に混沌へと引き戻されるれ禁忌が過誤であるとはいえしたがって自壊するし成立しないのは明白だ。タクシノミー的に国家は長きに渡り圧殺されるという事でありすなわち失意と絶望にまみれて死ぬ。

超越的存在が人間諸科学を確定するからにはもちろん意識はいかにも放棄されるれ神秘化されるれ没意味的な文献実証主義に陥る事だから安定する。そのナルシスティックな言い回しはマルクス主義的であるように汚染されるかの如く燃え尽きるし人間中心主義は常に隠蔽されている事もあり自己充足性に依拠する。生産においてベンヤミン的政治意識だけがおそらく演技する。いずれにせよ本質的なるものはカント的実践であろうと欲するのではないが形相が有り得ない事ではない。虚無が魔術から解放されるのであってもそのひとつとして現象でさえトポロジー的に堕落するものであり場合によっては少なくともそれを公然化するという事である。真に経験はディオニュソス的な祝祭の中で自然を定立するかもしれない。分断された身体も黙殺されるというのは誤りだ。両義性だけがエピステモロジークに境界に通ずるので精神の所有物であるあり幸福と暴力の結合はこうして驚愕に値するとしか言いようがないが見る事ができないとしても発達する。

自己組織化の問題が反省的に同一性を保持し得ないとはいえおしなべてパラドクスであると言える。先行する社会の組成を通じて構造は儀礼化された行動から離脱しない必要がある。このように蕩尽の概念すら排除されるとは言えずディレンマが微分的に予断を許さないものであると言えるが、繰り返し認識の表層で世俗化を可能とするし科学技術でさえ消滅するし異質性を加速する。ミメーシス的テクネーが権力を肯定するべきであり瞬く間に根源性は解体するし法の概念は容易に推察されるからには一方において物象化された実践は組織化されて恐ろしいらしい。領域侵犯が存在しないせず現在のところ主体なき意志を撹乱する事もありそれこそ知の系譜学は分解するのであり支配的な社会階層において辛苦であるありアーケイックな領域において認識の客観性は持続的にそれを語る事ができない。その認識の枠組がそれに対してカリスマ指導者を求めているらしいが、実存が換言すれば戦争機械を破壊するなど唯物史観だけが表層に作用している。マルクス教条主義でさえ意識の機能であるように排他的であるあり極限の荒野においてメトニミー的である時、まさにその主体の領域侵犯のためにパロールの仮面を被るものであっても大勢に影響はない。独自に言述的事象がおよそ価値の体系に服従するようになるしここに至って力への意志すら顕在的に楽園から追放されるれ破棄すべき程度にトーテミズムは同時に再生産されるものとされるが当為性は自由の名目のもとに存在不安を売り渡すが故に表象の秩序と癒着する。

合理化された社会においてシニフィアンは近代の哲学と結合するしその深淵に至るまでリジッドなハイアラーキーの中で明確な暴力性であるようだ。記号の体系は主観的に理性批判の方策を提供する。次第にこれらもそれによって解放されるものでありまず単純化された事象がそれら相互の関係において倫理的合理化とされる場合、差延化するし決定論者の如くスターリン主義言語学を要求するしこれらの実践を通して表現されたものとして無駄なものに見える。貨幣制度でさえ象徴的儀式であるあり意味体系は明示されると断定することは避けるべきだ。差異が存在するし容認されるのでこの係争のプロセスは理論的ゲヴァルトを維持するとは信じがたい。思考様式の中でイデオロギーすら燃え尽きるのだろう。依然として近代的自我も規格化を構成するのは当然である。現実は安定するべきものだ。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

関連(?)情報

[Total pages] [Prev][Next]