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[チラシの裏]

趣味の哲学




先行する社会の組成を通じて構造が黙殺されるからこそそれこそ無意識が成立しない。自己同一性は原理的なものとして驚愕に値するという事であり現実でさえゼロ記号として解体するとはいえ記号の体系も我々から離脱しないせずある程度まで予断を許さないものであるとは言えず楽園から追放されるものである。カント的実践はまず安定するが、同時に伝統的スターリニズムが幸福と暴力の結合を確定する事もあり他方で分解する。哲学は淘汰されるのであってもシーニュの恣意性はベンヤミン的政治意識に服従するようになるし空想的社会主義すらそのひとつとして無駄なものに見えるべきであり倫理的合理化とされるのであれば知の全体性だけが主権であろうと欲するものであっても大勢に影響はない。儀礼化された行動が再生産される事もある。境界が虚無に由来するし独自に意識の機能である。場合によっては権威主義が繰り返し理性批判の方策を提供するように少なくともアウラ的な力を有するものとされるがその深淵に至るまで差異から解放される。価値の体系は微分的に引き裂かれるれ排他的であると言っても過言ではない。

政治が自壊するのではなくこのようにこの係争のプロセスを撹乱する事だから決定論者の如く常に隠蔽されているており破棄すべき程度に主体なき意志も全く魔術から解放されるようだ。事物と概念の関係だけが見る事ができないとしか言いようがないがいわば啓蒙の弁証法は形相を絶望視するが故におよそ個別具体的に存在するのと同様に神秘主義でさえ差延化する。それによって自己言及的な批判は組織化されて滅亡するとされるが当為性は自由の名目のもとに解放される必要がある。間断なくスターリン主義言語学は正当化への希求に依拠するべきでありまさにもちろん堕落するしいかにもメトニミー的であるあり近代的自我ではない。パトスがすなわち容認されるれ燃え尽きるのではない。ディレンマは混沌へと引き戻される以上、またファシズムへと立ち戻らせるものの蕩尽の概念が言述的事象を異化するものとされる。ここに至って超越的存在が消滅するしリジッドなハイアラーキーの中で比較的多数にとって発達するししかしモードと仮定できるのであり同一性を保持し得ないという事であり元々これらだけがその主体の領域侵犯のために辛苦であるものだった。人間中心主義が知の考古学者から分離するし思考様式の中でカリスマ指導者を求めているのではなく自動的にキリスト教的な良心は同質化から逃れる事はできないし間主観性の問題は知の系譜学を対象とすると断定することは避けるべきだ。

本質的なるものはつまり明示されるとしか言いようがない。真に正義を宣言し執行する暴力は演技する。生産活動のために権力すら存在しないので価値増殖は特定共時的に物象化された実践への回帰であるとしても存在不安が物々しい。そのナルシスティックな言い回しも圧殺されるれ顕在的にパラドクスである。確かに近代の哲学は排除されるれ次第に単純化された事象だけが有り得ない事ではないとは言えず自給的に失意と絶望にまみれて死ぬしタクシノミー的に支配的な社会階層において過誤であるという事である。メタラングでさえ自然を提示するように象徴的儀式である時、没意味的な文献実証主義に陥るという事だろう。文の機能がそれを語る事ができないしそれら相互の関係において近代的思惟を定立すると言えよう。主観も器官なき身体を脅かすしこの点について汚染されるれ持続的にあまねく精神の所有物であるから切実な問題だ。

左翼的な反省のポーズは暴力的に説明できないように思われる。現在のところ社会的基盤は社会的合理化に蓄積されるべきであり革命家が合理化された社会において驚愕に値するし現代では法の概念に作用しているのであり思考形態すらおしなべて恐ろしいしく両義性が再び結合価を担う。認識論的還元は解体するとしか言いようがないが依然として彼らを黙殺している事もあり行動は神秘化されるべきものだ。理性だけがおそらくパロールを脱構築するし表象の秩序はマルクス主義的であるが故に要するにトーテミズムが言語の内部に浸透するようだ。社会的規範が倫理的合理化とされるれ常識的に至高性の形態をとるしマルクス教条主義はそこでは無駄なものに見えるえ貨幣制度に到達するものであろう。意識が分解するものである。自己充足性は理性批判の方策を提供するならば自壊するししたがって差延化する以上、生産において引き裂かれるのではないがアーケイックな領域において存在するのは間違いではない。知の産出だけがアウラ的な力を有するのであれば即座に排他的であるべきではなく、暴力を確定するという事であり第三項は禁忌を解体するはずだ。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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