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この渡海との関係は不明ですけど。大阪の‥
四天王寺について。『梁塵秘抄』に以下:
また
藤原家隆 (1158--1237) [Wikipedia] という人が
晩年に「日想観」を修するため、四天王寺近辺に隠居したらしいことから、
平安時代から鎌倉時代の四天王寺は極楽浄土の
信仰の聖地を思われていたことは間違いなさそうです。
でも四天王寺(難波)が極楽浄土の入口とするなら、難波から
西へ船を乗り出す人らがいても不思議ではないはずですけど
(出雲からの渡海のように)。
それをしなかったというのは、そのまま船を出しても九州に突き当たり、
その後は大陸に着くのが精々ということを知っていて、
南方と違って未知のロマンが感じられなかったから??
このへんについて、「世界大百科事典」の「四天王寺」の項によれば 「往生伝や《今昔物語集》などの説話に,往生を願う人びとや四天王寺での往生が記される」 とありますので、 そのへんを見てみると、もっといろいろわかるんでしょうけど。 それらの書物、すぐチェックできる環境にないですから、現状ではこれ以上何も言えません。
ここまで「日想観」についての話でしたけど。たぶんこのページ的に問題となるのは 「日想観」に入水自殺が結びついた「日想観往生」なんですけど。 ‥それについては今のところ、よくわかっていません。「往生伝」とかに いろいろ あったりするんでしょうか。
[Table of Contents]いずれにせよ、この「日想観往生」のターゲットは西方極楽浄土のはずで、 ですから南方補陀洛を目指す渡海と一緒にしちゃっていいのかどうか、ちょっと 判断がつかないところもありますが。南方補陀洛を文字通りに目指す13世紀あたりの渡海の風習と、 文字通りには目指せないので象徴的?観念的?に西方極楽浄土をめざす12〜13世紀あたりの日想観往生の風習が 混じりあった結果、文字通りじゃない渡海、端から見てると自殺にしか見えない16世紀の 渡海の風習になっていったとか、そんな感じなんでしょうか(ほとんど根拠なき妄想です)。 現状では「日想観往生」の実際についてほとんど何も知りませんので、そのへん、 何ともいえないところです。
(めも。 「「梁塵秘抄」、「往生伝」、「今昔物語」などの説話に、往生を願う人々や四天王寺での往生が記されている。その物語はさらに発展し仏教説話となり謡曲「弱法師」や浄瑠璃「摂州合邦辻」などに引き継がれていく。それらから当時は「西門の石鳥居」と言えば知らぬ人とてなく人口に膾炙していた」 [四天王寺で想う]‥のようです)
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