[かんのんさま::メモ]

かんのんさまは南に西に

[梵文法華経/24:かんのんさまの章] に関する「めも」です。

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[ふろく] 日想観往生との関係は?

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日想観とは

この渡海との関係は不明ですけど。大阪の‥

四天王寺には、古くは、日想觀往生と謂はれる風習があつて、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んで行つたのであつた。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海と言うた。觀音の淨土に往生する意味であつて、(eKanji data)々たる海波を漕ぎゝつて到り著く、と信じてゐたのがあはれである。一族と別れて、南海に身を潛めた平維盛が最期も、此渡海の道であつたといふ。 ( 折口信夫『山越しの阿彌陀像の畫因』[青空文庫])
まず「日想観」というものがあります。これは大辞林によると 「〘仏〙 西に沈む太陽を見て,その丸い形を心に留める修行法。極楽浄土を見る修行の一部で,観無量寿経に記される。日想。」というものなんですけど。 ここでその『観無量寿経』の該当箇所を見てみます:
(大雑把訳) 皆、西方だけ ひたすら念じなさい。日没を見ることができる者は、西に向かって正坐して 太陽を見つめなさい。これに専念して、日没がまるで ぶら下がった太鼓のようになるまで 見ていなさい。その後はいつでもこれを明確に思い出せるようにしなさい。これが日想である。 (観無量寿経(大正365) [SAT])
‥なるほど。 「日想観」は、凡夫が極楽浄土を見る(イメージする)ための方法の一つとして 提示されているもので、これ自体は自殺とは関係してないんですね。

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聖地・四天王寺

四天王寺について。『梁塵秘抄』に以下:

176:(極楽歌六首)
  極楽浄土の東門は、難波の海にぞ対へたる、転法輪所の西門に、念仏する人参れとて。 (『梁塵秘抄』 後白河法皇撰)
このようにあります。 また 藤原家隆 (1158--1237) [Wikipedia] という人が 晩年に「日想観」を修するため、四天王寺近辺に隠居したらしいことから、 平安時代から鎌倉時代の四天王寺は極楽浄土の 信仰の聖地を思われていたことは間違いなさそうです。 でも四天王寺(難波)が極楽浄土の入口とするなら、難波から 西へ船を乗り出す人らがいても不思議ではないはずですけど (出雲からの渡海のように)。 それをしなかったというのは、そのまま船を出しても九州に突き当たり、 その後は大陸に着くのが精々ということを知っていて、 南方と違って未知のロマンが感じられなかったから??

 このへんについて、「世界大百科事典」の「四天王寺」の項によれば 「往生伝や《今昔物語集》などの説話に,往生を願う人びとや四天王寺での往生が記される」 とありますので、 そのへんを見てみると、もっといろいろわかるんでしょうけど。 それらの書物、すぐチェックできる環境にないですから、現状ではこれ以上何も言えません。

 ここまで「日想観」についての話でしたけど。たぶんこのページ的に問題となるのは 「日想観」に入水自殺が結びついた「日想観往生」なんですけど。 ‥それについては今のところ、よくわかっていません。「往生伝」とかに いろいろ あったりするんでしょうか。

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渡海の関係‥よくわからない

いずれにせよ、この「日想観往生」のターゲットは西方極楽浄土のはずで、 ですから南方補陀洛を目指す渡海と一緒にしちゃっていいのかどうか、ちょっと 判断がつかないところもありますが。南方補陀洛を文字通りに目指す13世紀あたりの渡海の風習と、 文字通りには目指せないので象徴的?観念的?に西方極楽浄土をめざす12〜13世紀あたりの日想観往生の風習が 混じりあった結果、文字通りじゃない渡海、端から見てると自殺にしか見えない16世紀の 渡海の風習になっていったとか、そんな感じなんでしょうか(ほとんど根拠なき妄想です)。 現状では「日想観往生」の実際についてほとんど何も知りませんので、そのへん、 何ともいえないところです。

(めも。 「「梁塵秘抄」、「往生伝」、「今昔物語」などの説話に、往生を願う人々や四天王寺での往生が記されている。その物語はさらに発展し仏教説話となり謡曲「弱法師」や浄瑠璃「摂州合邦辻」などに引き継がれていく。それらから当時は「西門の石鳥居」と言えば知らぬ人とてなく人口に膾炙していた」 [四天王寺で想う]‥のようです)

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